起床の合図より早く目を覚まし、体力強化のメニューを一通りこなした。腕を曲げ、伸ばし、呼吸を数える。吐く息を意識すると、これから乗る機体のことが頭に浮かぶ。吐き切る手前で止めてみる。やはり、喉が落ち着かなかった。
夜明け前の整備棟は、油と冷えた鉄の匂いがした。J型の背の点検口が開き、クルスト博士が自分の手で基板を一枚差し込んでいる。太い指が留め具を弾くたび、乾いた音が高い天井に返った。
「第一版だ」
博士は振り向かずに言った。
「機体が補正の遅れを先に消す。君が吐く息一つ分で埋めていたのと、同じ分をだ。君もこれまで通りに埋めれば、二人で同じことをやって動きすぎる。君の側を半分に減らしてくれ」
「半分、ですか。減らし方は」
「分からん。だから今日、測る」
素っ気ない答えで、かえって気が楽になった。横でグレタが、機体にかかる負荷を測る計器盤を指で叩いている。測る場所は、二つから三つに増えていた。
「見る場所、増えた。三つ」
「全部見てくれるんだろ」
「見る。だから、ちゃんと言って。変だと思ったら、その場で」
頷くと、彼女は工具箱を提げて天幕のほうへ歩いて行った。背中が少しだけ強張っている。
博士の目の下には、濃い隈があった。昨夜もこの機体の前から動かなかったのだろう。
「最初に言っておく。第一版は完成ではない。揃うまでは、気持ち悪さが残る」
「気持ち悪いのは、悪いことですか」
「悪くない。気持ち悪いうちは、まだ君が機体を見ている」
返事に詰まった。博士は待たずに点検口を閉じた。
試験場は、渡河の試験をした川から少し離れた乾いた平地だった。杭と白布の走路の先に、浅い溝が一本掘ってある。幅は機体の一歩半。ブラントが縁の土を指でつまんで確かめ、マリーナはガルムを抱えてその隣に立っていた。朝の霧が低く残り、ヘルマンが三脚の撮影機の向きを何度も直している。
コクピットに座り、起動の手順を終える。モニターに緑の表示が並んだ。
「ガルム1、こちら整備。負荷は三か所とも零。いつでも」
グレタの声が、いつもより硬い。
「ガルム1、了解。まず歩く」
右のペダルを、いつもの七割で踏んだ。踏みきる前に、機体の足が出た。
出た、と分かったときには、もう左のペダルを踏んでいた。二歩目は半歩長い。上体が前へ持っていかれ、慌てて操縦桿を引く。引いた分がまた先回りされ、機体が後ろへ揺れた。足元で土が鳴る。
「ガルム1、右膝に負荷。大丈夫?」
「大丈夫。……先に、動かれた」
補正はいつも遅れて効くもので、その遅れを息一つ分で埋めるのが体に染みている。今は埋める前に、埋まっている。
遠くでガルムが一声吠えた。マリーナが慌てて抱え直し、大丈夫です、この子は驚いただけです、と手を振っているのがモニターの隅に見えた。笑っていいのか分からず、機体を止めたまま、二度、肩を回した。
博士の声が通信に割り込んできた。
「いまの足は、補正が先に出て、君の踏み込みが後から追っていた。踏む前に、何かしているな。何をした」
「息を吐いています。ペダルを踏む前に、吐き切るところまで」
「それだ。これまではその分を、君が先に埋めていた。いまは機体も同じ分を埋めている。二人で同じことをやるから、足が半歩伸びる。数字がそう言っている」
博士は、そこで言葉を切った。
「減らし方は、私には分からん。乗っているのは君だ。試してくれ。数字は取る」
吐く息を、途中で止めてみる。喉のあたりが妙に落ち着かない。止めた息を抱えたまま、ペダルを踏んだ。足は、ちょうどいい場所に降りた。
戻す。止める。踏む。何度か繰り返すうちに、手足と機体の動きが重なってきた。重なると、別の落ち着かなさが出てきた。遅れを埋めているのは、こちらではない。機体のほうが、こちらの手を引いている。
天幕から、紙をめくる音と博士の独り言が漏れ聞こえた。ヘルマンが一歩ごとの数字を読み上げ、博士がそれに短く返している。「遅い」「早い」「そこだ」。読み上げの声が一定の間隔で続くのが、不思議と呼吸の目安になった。
走りに移ると、それがはっきりした。足を置く先が、こちらが決める前に決まっている。着地の一瞬前に探していた足の置き場が、そっくりなくなっていた。便利だ、と思った。同時に、少し怖かった。
「ガルム1、いまの感じは?」
「手を引かれてるみたいだ。悪くはない。ただ、自分で決めてないものに足を預けてる気がする」
「それ、そのまま博士に言って。いま通信に入ってる」
博士の短い声が返った。
「そうだ。その気持ち悪さを、数字にしたい。もう一度、同じ道を走れ」
四度走って、気持ち悪さの種類が変わった。預けているのではなく、並んで走っている。こちらが半分の息で足を出し、機体が残りを受け持つ。どちらが先とも言えない動きだった。
最後は溝だった。助走をつけ、踏み切りの一歩前で息を半分吐く。足が地を蹴った。機体が浮く。いつもより、ほんの少し高い。向こう岸が近づく。着地の姿勢に入る前に、機体のほうが先に膝を折りかけている。こちらの手が追いつくのを、待っているようにも見えた。着地の音は、思ったより小さかった。
「負荷、三か所とも範囲内。一度も危険域に入ってない」
グレタの声の端が、ほんの少し上ずっていた。
続けて全力で走り、もう一度溝へ向かった。跳び上がった先で、機体が急に、言うことを聞かなくなった。こちらは、もう少し高く跳ぶつもりだった。それなのに機体は上昇を途中で切り、浅い放物線を描いて向こう岸に降りた。着地は短く、足元の土を深く噛んだ。
「ガルム1、二か所目が上限に触れた。上限が効いたの」
グレタの声に続いて、博士が低く言った。
「止めたのは、機体だ。君が走った分の負荷が、もう積み重なって上限に近い」
悔しさが先に来た。もう少し跳べたはずだ、と思った。だがすぐに、泥の中でも水の中でも、引いた者は次も走れる、とブラントが言っていたのを思い出した。止めたのは、今度は自分ではなく機体だった。
「ちゃんと止めた」
グレタが短く言った。
「……機体が」
「うん。機体が」
降機すると、博士は天幕の前で図面を広げ、何かを書き換えていた。
「上限は仮だ。今日の数字で書き直す」
近づくと、博士は顔を上げずに言った。
「跳べる量を決めるのは、君ではない。機体と、グレタと、私だ。……君は、跳ぶ前に決めてくれ。どこへ降りたいかだけでいい」
「降りたい場所だけ、ですか」
「それが、君の仕事だ」
昼を前に、記録を取る間の休みになった。溝の脇の乾いた斜面に毛布を敷き、マリーナが水筒を回す。ガルムは配られた固いパンの端をもらって、満足そうに鼻を鳴らしていた。
「中尉殿」
ブラントがパンを割りながら、ぽつりと言った。
「戦車にも、似た話がありました。旋回の補助が付いた砲塔に乗せられた時です。ハンドルを回しきる前に砲塔が動く。最初の一週間は、気味が悪くて仕方ありませんでした」
「どうされたんですか」
「慣れた、と言いたいところですが、違います。補助が先に動く分、狙う先を考える時間が増えたのだと、ある日気づきました。動かすのは機械、決めるのは人間、ということです」
パンを噛みながら、その言葉を胸の中で転がした。降りたい場所を、先に決める。博士の言ったことと、同じ話だった。
「ブラント曹長、その話、午後に使わせてください」
「お役に立つなら、何よりです。戦車の話なら、まだいくらでもありますよ」
マリーナがガルムのパンの端を横から取ろうとして、指を軽く噛まれかけた。
「マリーナ軍曹、ガルムの昼食を横取りするのは、感心しません」
「横取りじゃありません、味見です!」
「手を噛まれますぞ」
ブラントが静かに言うと、マリーナは慌てて手を引っ込めた。ガルムは何事もなかった顔で、パンをかじっている。
「中尉、いつもの時間です」
マリーナが空を見上げて言った。つられて見上げた。毎日この時刻に高空を横切っていく、白い線。偵察機の飛行機雲だ。薄く曇った空に、線は一本も引かれていなかった。
「来ませんね」
つぶやきは、思ったより低かった。
「今日だけ、休みでしょうか」
「自分なら、そうは考えません」
ブラントが穏やかに言った。
「毎日来ていた客が来ない日は、見るものを見終えた日です。次に来るのは、別の客でしょう」
誰も、すぐには何も言わなかった。ガルムが小さく鼻を鳴らした。
「哨戒を申請します」
口に出すと、思ったより落ち着いた声だった。
「J型の地上での試験としても、ちょうどいいはずです。ブラント曹長は前を、マリーナ軍曹は途中の高台をお願いします。司令部と博士に話してきます」
「了解しました」
天幕へ行くと、博士は図面から顔も上げずに話を聞いた。
「第一版のまま出るのか」
「半分の息は、朝より落ち着きました」
「上限は仮だ。機体が上限をかけたら、無理に動かすな。止まった場所を持ち帰れ」
「はい」
「それと」
博士はペンを止め、初めてこちらを見た。
「壊すな。数字は、壊れなかった機体からしか取れん」
司令部の許可は、短い返事ですぐに下りた。機体の前では、グレタが黙って待っていた。計器を指さし、三つ、と指を立ててみせる。頷いて、コクピットへ上がった。
哨戒は、川を右手に見る平原の縁を回る道筋にした。ブラントが前、マリーナは途中の高台に上がり、こちらは二機の間を取る。枯れ草が風に波打ち、黒土はぬかるみを抜けて乾き始めていた。
「ガルム2、こちらガルム1。足元はどうですか」
「ガルム2、硬めです。谷の縁は避けます」
「ガルム3、こちらガルム1。高台はどうですか」
「ガルム3、見晴らしは最高です。昼寝にも向いてます」
「ガルム1、昼寝は、帰ってからにしてください」
通信の向こうで、マリーナの笑う気配がした。
三十分ほど進んだとき、高台のマリーナの声が張った。
「ガルム3、機影あり、一時方向、低空! 数、四!」
息を飲む音が続いた。
「ガルム3、地上にも土煙、二時方向! 谷の向こうの街道です! ……それと、上にも! 十二時方向、高い!」
モニターを拡大する。低い雲の下を、平たい翼の機影が四つ、地面をなめるように近づいてくる。フライマンタ。その下、谷の向こうの街道で、土煙が一列に伸びていた。砲塔の形に見覚えがある。61式戦車。数は六。そして、雲の切れ間の高いところに、細い機影が三つ。
セイバーフィッシュ。
喉の奥が、乾いた。戦車が地を押さえ、攻撃機が低空を押さえ、戦闘機が空を押さえている。降りる場所も、跳ぶ空も、まとめて塞ぐ組み方だった。霧の中で戦ったときとは、違う。
「ガルム1、全機。上を取られています。跳べば、逃げ道がありません。足で戦います。ガルム2は土の硬い場所まで下がって、ガルム3は高台から低空の機を一機ずつ。私は、戦車の頭を取りに行きます」
「ガルム2、了解」
「ガルム3、了解。……贅沢な歓迎ですね」
「ガルム1より司令部。敵の混成部隊と接触。戦車六、攻撃機四、戦闘機三。増援を要請します」
雑音が走った。ミノフスキー粒子の薄い膜を通して、割れた声が返ってくる。
「……司令部、了解。動かせる機は少ない。かき集めて出す。……二十分、持たせろ」
「二十分、ですか」
「……繰り返す。二十分だ。持たせろ」
通信が、ぷつりと切れた。モニターの隅の時計を見る。二十分。長い。三機で、この数を。
息を半分吐いた。長いと思うのは、あとだ。いまは、最初の一分を持たせる。
フライマンタが頭上へ入る。低く這って、地面を耕しにくる攻撃機だ。先頭機の翼下で、ミサイルの発射炎が閃いた。
「ミサイル、八!」
「全機、散開!」
右へ三歩、左へ二歩、止まって一歩。足を揃えない。白い尾を引くミサイルが、さっきまで機体のいた地面へ突き立つ。背後で土が爆ぜ、雨のようにモニターを打った。
「2、無事ですか!」
「無事です! 左へ流されました!」
窪みへ滑り込む。先頭機が頭上を抜ける瞬間、縁から腕だけを出して、撃ち上げた。曳光弾が腹へ吸い込まれる。
「当たった!」
「一機、煙を吐いて落ちます!」
「3、よく見えています!」
「次、来ます! 上! 高いのが……三つ、降りてきます!」
雲が割れた。三つの細い影が、真っ逆さまに落ちてくる。上空を押さえていた戦闘機、セイバーフィッシュ。機首は三つとも、こちらの真上を向いている。
「窪みから出てください! 的です!」
叫ばれる前に、足が動いていた。真横へバーニア。地を滑った直後、さっきまで機体のいた窪みを、三筋の曳光弾が貫く。土が柱になって噴き上がった。
「中尉!」
「生きてます! 3、先頭の一機を追えますか!」
「無理です、速すぎます!」
先頭の一機だけ、動きが違う。見覚えがあった。霧の中で、同じ一点を狙い続けてきた機体。
次は、落とす。
谷の向こうが、重く鳴った。
「2、被弾、左肩!」
「動けますか!」
「動けます! 装甲が凹んだだけです!」
「2、下がってください! 土の硬い場所まで!」
「下がります! ……右から、もう一機!」
頭上を、残りのフライマンタが轟音で抜けた。爆弾が三つ、高台の岩場へ落ちる。
「3!」
「岩が、降ってき……っ、無事です! 撃てます!」
「撃ってください!」
乾いた発砲音が、二度。低空の機影がひとつ、翼をもがれて落ちた。
「二機目、落としました! 残り、旋回します。また来ます!」
「3、一発目からではありませんでしたね」
「見てたんですか! 余計なことは、あとにしてください!」
61式戦車の隊列が、曲がり角で止まった。六つの砲口が、こちらを向く。
「2、戦車、見えますか!」
「見えています! 六両、横並びです!」
「全部が、同時に撃ってきます。撃ち終わった直後を、狙います」
「同時に、ですか!」
「撃ってから、次を撃つまで、四つ数える間があります。2は、その間に右を押さえてください」
「承知しました!」
窪みの近くの岩の陰で、息を殺した。六つの砲が、火を噴く。
砲声が揃い、止む。一、二、三。
岩の陰から飛び出した。四つ目の前に、街道の土手の陰へ滑り込む。背後で、さっきまでいた岩が砕けた。
「中尉、当たってません!」
「当たってません!」
土手の陰から、先頭の戦車の横腹が見えた。マシンガンを撃ち込む。戦車が白い煙を吹いて止まる。
「一両!」
歩幅を崩しながら、土手に沿って走った。二両目の砲塔が回りきる前に、ヒートホークを付け根へ叩き込む。装甲が赤く溶ける匂いが、コクピットにまで混ざる。
「二両!」
負荷計の二か所目が、上限のすぐ手前まで来ていた。
使えるのは、あと一度。
「2、前へは出ないでください!」
「前へは、出ません! ……ですが、右の三両が、こちらを向きました!」
「引きつけてください! 撃たせて、下がってください!」
「引きつけます!」
残る四両のうち、最後尾の一両が、まだ撃っている。屋根にアンテナ。指揮車だろう。そこへ行くには、排水の溝を越えなければならない。幅は、試験場の溝と同じ、機体の一歩半。
「3、最後尾の一両、見えますか!」
「見えます! 指揮車です!」
「そこを落とします。跳ぶのは、一度だけ」
降りたい場所は、指揮車の背後の窪み。もう一つ、横倒しの輸送車の陰。息を半分吐く。足が、地を蹴った。
上昇の途中で、機体が上限をかけた。
浅い放物線。降りたのは、指揮車の背後ではなく、その手前、砲口の真正面だった。
「あ――」
黒い円が、目の前で止まった。
「中尉、上です!」
真上から、三つの影が一点を狙って落ちてくる。砲口も、機首も、同じ一点を指している。
「右です、中尉! 右の輸送車の陰!」
「分かってます!」
右のペダルを踏んだ。機体が先に、右へ滑る。
砲弾が左肩をかすめ、土が吹き上がる。頭の真横で、金属音が弾けた。
ガン、ガン、ガン。
「頭、当たりました!」
「見えてます!」
同じ場所だ。霧の中で、何度も狙われた、同じ一点。
輸送車の陰に滑り込む。息が荒い。吐き切れない。頭の左が熱い。背中を、冷たい汗が流れた。ふと見た時計は、まだ九分。残りが、途方もなく長い。
「中尉、頭、大丈夫ですか!」
「見えています。擦っただけです。降りる場所を二つ決めておいて、助かりました」
声が、思ったより低く出た。
「来ます! 低く、三つ!」
輸送車の向こうを、三つの影が横切る。二番機の機首が、こちらの陰を覗き込んだ。マシンガンを空へ向ける。
「落ちろ」
弾幕が、機影の腹を舐めた。二番機が火を噴き、きりもみで街道の向こうへ消える。先頭の機は、翼を返して逃げた。
「戦闘機、落ちました!」
ブラントの声が重なった。
「見えていました。右へ抜けた足が、速かった」
煙幕が街道に広がった。残った戦車が、白い壁の向こうへ後退していく。生き残ったフライマンタも、先頭のセイバーフィッシュも、雲の低いところへ消えた。追う距離ではなかった。負荷計を見る。二か所目が上限に触れ、三か所目は手前にある。
「全機、追いません。ここで引きます」
「追わないんですか」
「機体の余力が、もう残りわずかです。追えば、帰れなくなります」
「了解しました」
「ガルム1より司令部。敵、後退。増援は不要です」
雑音の向こうで、短い間があった。
「……司令部、了解。増援は、いま谷の手前だ。止める」
「二十分と言われて、十二分でしたな」
ブラントの声が、いつもより少しだけ掠れていた。
「あと八分続いていたら、機体が動かなくなっていました」
「自分も、同じです」
機体を止め、息を吐いた。今度は、吐き切った。操縦桿を握った指が、まだ開かない。背中も、手袋の内側も、冷たい汗で濡れていた。
◇
雲の上で操縦桿を引き起こすと、腕が震えていた。寒さのせいではない。
僚機が一機、足りなかった。三機で降りて、二機で上がる。呼びかけても、返るのは雑音だけだった。
当てた。確かに当てた。真上から、灰色の頭の同じ一点に、曳光弾が吸い込まれていくのを見た。それでも、あれは倒れなかった。倒れないどころか、次の瞬間には横倒しの輸送車の陰から、弾幕を張って空を塞いできた。
撃つ前に逃げ道を潰す。そのつもりで、戦車と攻撃機と、三機の自分たちを組み合わせた。降りる先は、一つ潰した。それなのに、あの人型の化け物は、潰す前から次の場所を決めていたかのように滑った。
ポケットの中で、ライターを転がした。トムの形見の、角の欠けたやつを。
「次は、降りる先を、三つ潰す」
誰に言うでもなく呟いて、雲の下を振り返った。灰色の機体が、白い煙の向こうで、まだこちらを見上げていた。
◇
整備棟へ戻ったのは、夕方に近い光が屋根を橙色に染める頃だった。降機すると、ヘルマンとブルーム技師が駆け寄ってきた。ブルーム技師は何も言わず、ブラント機の左肩に掌を当てた。凹みを指でなぞり、小さく頷く。
「肩は、怒られますか」
降りてきたブラントが、真顔で聞いた。
「怒るのは、グレタです。私も、一緒に怒られます」
「それは、困りましたね」
マリーナが、髪に岩の粉をかぶったまま降りてきた。
「中尉、見てください。岩の粉で、真っ白です」
「ガルムの隣に立つと、白黒で目立ちますよ」
「それ、褒めてますか!」
「半分は」
ブラントはまだ、自分の機体の肩を見上げていた。歩み寄って声をかける。
「ブラント曹長、右を押さえてくださって、助かりました」
「前には出るなと言われましたので。言われたことは守る性分です」
「次は、少しだけ前に出てもいいですよ」
「少しだけ、ですな。……娘に話したら、父さんは頼りにされているのね、と笑われそうです」
グレタが計器盤を抱えて走ってきて、負荷の記録紙に目を走らせた。
「三か所目は、まだ余裕がある。二か所目は、上限に触れたところで止まってる」
「あそこで追ってたら、超えてた」
「分かってる。……記録に出てる」
紙を持つ指が、少し震えていた。その目が、機体の頭へ動いた。
「頭、左。擦ってる。曳光弾の跡」
「霧の時の戦闘機だ。同じ場所を狙われた」
グレタは何も言わず、記録紙の端に小さく何かを書き込んだ。直す、と書いたように見えた。
「怪我は」
「ない」
「ならいい」
それだけ言って、グレタは湯気の立つ缶を突き出した。受け取ると、指先が触れた。缶は、手の中でやけに熱かった。
「頼りにしてる」
口からこぼれていた。グレタは目を逸らし、工具箱の蓋を閉めた。耳の先が赤かった。
博士が図面を持って近づいてきた。
「止まった場所を、持ち帰ったか」
「はい。排水溝の跳躍で、途中で。降りる先を二つ決めていたので、助かりました」
「二つ決めていたのか」
「はい」
「……それでいい。上限の数字は、今日の分で書き直す」
博士はそれきり図面に戻った。ただ、ペンを持つ手が、朝よりも少し軽く動いて見えた。
夕食のあと、マリーナがガルムを抱えて整備棟の外に出ていた。薄紫に暮れていく空を見上げている。
「中尉、一つ聞いていいですか」
「なんでしょう」
「今日、排水溝を跳ぶ前、何を考えていましたか。私は、引き金の前は何も考えないようにしているんですが」
「降りる場所の、土の色を見ていました」
「それだけですか」
「それだけです」
「なるほど。それなら、私とそんなに違いません」
マリーナは笑って、ガルムの頭を撫でた。後ろからブラントが、穏やかに言った。
「今夜は、機体を半地下に入れましょう。見張りの最初は自分が。若い者から先に休ませるのが、元戦車兵の習いです」
「若い者、ですか。私も入っていますか」
「中尉殿が一番若いのですが、小隊長は最後です」
ブラントは真顔で言って、マリーナを促した。
整備棟へ入ると、灯りを落とした暗がりの中で、グレタが機体の足元に座っていた。膝に紙束、手にはまだペン。
「半地下に入れる。伝言」
「聞いてる。ブラント曹長が来た」
先を越されていた。苦笑して隣に座る。J型の足の甲に、ブルーム技師のものらしい掌の跡が、薄い土の色で残っていた。
「今日の機体、どうだった」
「悪くなかった。手を引かれてるみたいで、最後は並んで走ってる感じだった」
「そう。……それ、そのまま書いとく。数字よりよっぽど当てになる」
グレタはペンを走らせ、書き終えてから、ぽつりと言った。
「明日も、先に言って。変だと思ったら」
「言うよ」
暗がりで、ペンの音だけが続いた。
整備棟の外へ出ると、半地下へ向かう機体の足音が、夜の底に一定の間隔で響いていた。聞き慣れた音のはずなのに、今夜は少し違って聞こえた。先に動く音だ。明日はこの音に、こちらが並ぶ番だった。
見張りに立つブラントが、携行無線を耳に当てたまま、動かなくなっていた。気配に気づいて振り向き、無言で受話器をこちらへ傾ける。
雑音の向こうで、司令部の通信士が、同じ文面を繰り返している。
「……全部隊へ。本日、第二次地球降下作戦が決行された。降下部隊は、北米大陸へ向かう。繰り返す。第二次地球降下作戦が、決行された」
顔を上げた。夜空には、星が静かに瞬いているだけだった。この空の向こうで、いま、あの降下の光が、別の大陸へ落ちている。
「偵察機が来なかった理由は、これでしたか」
「そうかもしれません」
ブラントが、低く答えた。
「連邦は、こちらを見るのをやめたのではないでしょう。見る先を、変えたのです」
「次に来る客も、もう決まっているのでしょうね」
「ええ。ですが、今夜は来ません。自分が見ていますから」
ブラントは受話器を戻し、いつもの穏やかな顔で言った。
「中尉殿は、休んでください。明日も、数字を取る日です」
足元で、ガルムが小さく鼻を鳴らした。始まったものは、もう遠い話ではない。今日の遅れの半分は、機体が持っていてくれる。残りの半分は、自分で持つ。それで足りるのかは、まだ分からなかった。
今後とも本作をよろしくお願いいたします。
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