久しぶりに、目覚ましのない朝だった。
薄いカーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました僕は、しばらくの間、ベッドの中で、その静けさを味わっていた。ドア越しに叩き起こされることもなく、飛び起きて身支度をする必要もない――ただそれだけのことが、これほどまでに贅沢に感じられるとは、着任前には想像もしていなかった。
「――今日は、外出できるらしいぞ」
食堂に顔を出すと、既にトレイを片手にしたグレンが、そう教えてくれた。
「コロニー内の売店とか、繁華街とか。ただし、緊急呼集がかかったら、即座に戻ってこいってさ」
「――外出、久しぶりです」
思えば、着任してからの一週間、僕は一度も、兵舎とその周辺を出たことがなかった。
「せっかくだし、みんなで行くか」
グレンがそう言うと、隣のテーブルから、レナが顔を覗かせた。
「行く行く。あたしも、そろそろ息抜きしたかったところ」
「――俺も混ぜてくれ」
ダンも、食事を掻き込みながらそう手を挙げる。
「――カイさんは、行かないんですか?」
僕が尋ねると、少し離れた席で黙々と食事をしていたカイが、視線だけをこちらに向けた。
「――俺は、いい。整備班に、頼みたいことがある」
「そっか。……なら、また今度」
カイは、それだけ答えると、また黙々と食事を再開した。素っ気ない態度も、この一週間ですっかり見慣れたものになっていた。
午前中、僕はレナ、ダン、そしてグレンと連れ立って、コロニー内の商店街を歩いた。士官学校の頃には見慣れなかった軍用の露店や、パイロット向けの装備品店が立ち並ぶ光景に、僕は素直に目を輝かせた。
「――お前、意外と子供っぽいとこあるよな」
ダンが、呆れたように笑う。
「そ、そうですか?」
「まあ、それも含めて、憎めないってやつだろ」
レナが、横からそう茶化してくる。
通りの一角には、パイロット用のマフラーや、機体のパーツを模した小物を売る露店もあった。僕は、その中の一つ――旧型ザクを模した小さな金属製のキーホルダーに、思わず目を奪われた。
「――これ、買っていこうかな」
「なんだよ、そんなもん」
「なんとなく、です。……お守り、みたいな」
「意外とロマンチストだな、お前」
からかうダンの声を聞き流しながら、僕は、そのキーホルダーを買い求めた。士官学校時代の旧ザクへの、ささやかな愛着だった。
「――そういえば」
歩きながら、グレンがふと思い出したように口を開いた。
「お前、士官学校時代は、どんな感じだったんだ? シーマ中佐との卒業試験の話、噂じゃ色々聞くけどよ」
「――噂って、どんな噂ですか」
「シーマ中佐相手に、単独でかなり食い下がったとか。輸送艦は結局守り切れなかったって話も聞くが」
「……守り切れなかったのは、事実です。僕が、シーマ中佐との戦いに夢中になりすぎて、仲間の呼びかけに気づかなかったせいで」
僕は、そう答えながら、あの日のことを思い出していた。クルトが身を挺して輸送艦を守り、それでも大破は防げなかったこと。オットーからの厳しい総評。あの記憶は、今でも、時折胸の奥を疼かせる。
「――でも、そのおかげで、今の課題がはっきりしたんだと思います」
「課題?」
「一つのことに夢中になると、周りが見えなくなる。……木曜の演習でも、シーマ中佐に同じことを言われました」
「変わってねえのか、そこ」
ダンが、遠慮なくそう茶化す。
「変わってない、というより……たぶん、簡単には変わらない部分なんだと思います。だから、意識して、気をつけるしかないというか」
「――お前、そういうところ、妙に大人だよな」
レナが、感心したようにそう零した。
「調子に乗ってる時と、急に冷静なこと言う時の差が、激しいっつーか」
「――それ、褒めてます?」
「さあ、どうだろ」
レナは、悪戯っぽく笑うと、僕の背中を軽く叩いた。
昼食は、露店の一つで買った携行食とは比べ物にならないほど、ずっと美味しい定食だった。
「――普通の飯って、こんなに美味かったんですね」
思わず零した一言に、グレンが噴き出す。
「お前、たった一週間で、そこまで感覚が変わったのか」
「変わりましたよ、これは。ミリ飯、栄養は取れるけど、味は正直……」
「まあ、贅沢言えるうちが華だな」
グレンは、そう言って笑うと、僕の分の水を、追加で注文してくれた。
食事をしながら、僕は、この四人でのやり取りが、いつの間にか、自分にとって心地の良いものになっていることに気づいた。士官学校時代、クルトやエルフィ、グレタと過ごした時間とはまた違う、けれど確かに温かい何かが、ここにもあった。
「――そういえば、お前ってフルネームなんだっけ?」
ダンが、唐突にそう尋ねてきた。
「リオン・ワーカーです」
「ワーカー……ああ、そういや、両親が技術士官って話、聞いたな」
「よく知ってますね」
「シーマ中佐が、教えてくれたんだよ。あの人、部下の経歴は、割としっかり調べてる」
「――そう、なんですか」
意外な話だった。普段の飄々とした態度からは、そこまで細かく気を配っているようには見えなかった。
「あの人、見た目に反して、面倒見はいいからな」
グレンが、そう付け加える。
「まあ、その分、要求も高いけどな」
その一言に、僕らは揃って苦笑いを浮かべた。
商店街を一通り歩き終えた頃、僕はふと、露店の一角で足を止めた。工具の手入れに使う、質の良い研磨クロスが並んでいた。
「――それ、買うのか?」
ダンが、不思議そうに覗き込んでくる。
「カイさんへの、お土産です。整備班に頼み事があるって言ってましたけど……ヒートホークの手入れ、いつも自分でしてるみたいなので」
「――律儀だな、お前」
「誘っても来なかったので、なんとなく。気になって」
僕がそう答えると、グレンが、面白そうに笑った。
「お前、そういうところ、変に義理堅いよな」
「――変、ですかね? 自分じゃ、あんまりそんなつもりないんですけど」
「いや、いいと思うぞ。……あいつも、素直に喜ぶかは分からんが」
そう言われながらも、僕は、その研磨クロスを買い求めた。
午後、束の間の休息を挟んだ後、僕らは兵舎へと帰還した。外出の余韻を引きずったまま、僕は、翌週の出撃ブリーフィングの資料に目を通し始めた。
「――思ったより、まったりできたな」
グレンが、伸びをしながらそう零す。
「あの、ありがとうございました。誘ってもらえて」
「なんだ、急に」
「なんとなく、です。……こういう時間、久しぶりだったので」
僕がそう言うと、グレンは、少し驚いたような顔をした後、柔らかく笑った。
「――お前、そういうところ、素直だよな」
「――自分じゃ、あんまり自覚ないんですけどね」
「ああ。……悪くないと思うぞ、そういうの」
その言葉に、僕は思わず面映ゆい気持ちになった。
資料に目を通す前に、僕は格納庫の隅で、まだ整備班と話し込んでいたカイを見つけた。
「――カイさん」
「――なんだ。外出、楽しかったか」
「はい、それなりに。……あ、これ、お土産です」
僕は、買ってきた研磨クロスを差し出した。カイは、一瞬、怪訝そうな顔をした後、それを受け取った。
「――これ、ヒートホークの手入れ用か」
「はい。いつも自分でやってるみたいだったので、なんとなく」
「……律儀なやつだな、お前」
カイは、そう言うと、僅かに視線を逸らした。
「――悪くない品だ。使わせてもらう」
それだけの短いやり取りだったが、僕は、なんとなく満たされた気持ちで、格納庫を後にした。
夕方、格納庫に呼び出された僕を待っていたのは、シーマだった。
「――呼び出して悪かったね。少しだけ、話がある」
「はい」
「来週の話だ」
シーマは、そう切り出すと、壁に寄りかかった。
「来週は、もう少し強度を上げる。……ついてこれるといいけどね」
「――強度を、上げる」
その一言に、僕は思わず息を呑んだ。この一週間だけでも、これまでの人生で経験したことのない密度だったというのに、まだ、その先があるのか。
「不安そうな顔だね」
「……正直、少しだけ」
僕は、素直にそう答えた。誤魔化しても、シーマには、すぐに見抜かれてしまう気がした。
「それでいい」
シーマは、そう言って、僅かに目を細めた。
「不安がまったくないやつは、逆に危うい。……だが、あんたは、この一週間で、確かに変わった。それは、私の目から見ても、間違いない」
「――ありがとう、ございます」
「礼はいらないよ。あんたが、自分で掴んだものだ」
シーマは、そう言うと、格納庫の奥へと視線をやった。ドック入りしているザクII C型の機影が、薄暗がりの中に浮かんでいる。
「――その機体も、あんたに合わせて、少しずつ変わってきてる」
「――そう、なんですか」
「整備班からの報告だよ。データチップの学習が進んでる、ってね。あんたと機体、両方が、この一週間で成長した。……悪くない滑り出しだ」
その言葉に、僕は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「――さて、今日はもう休みな」
シーマは、そう言って、悪戯っぽく笑った。
「明日から、また地獄だ」
「――お手柔らかに、お願いします」
「無理な相談だね」
シーマは、そう返すと、軽い足取りで格納庫を後にした。
自室に戻り、ベッドに横たわりながら、僕は、この一週間を振り返っていた。
月曜の急制動訓練、火曜の射撃訓練、水曜の反省会と座学、木曜の合同演習、金曜の夜間演習、土曜の大掃除とレポート、そして今日の休暇――どの一日も、これまでの人生になかった密度で、僕の中に積み重なっていた。
着任初日、あの三人に振り回されて、荷解きすらできずに眠りに落ちたあの夜から、まだ一週間しか経っていない。それなのに、あの日の自分と今の自分では、明らかに何かが変わっている――そんな実感が、確かにあった。
士官学校の三年間も、決して楽ではなかった。それでも、今振り返れば、あの日々は、どこか守られた場所での成長だったのだと、僕は今更ながらに気づいていた。
この一週間の密度は、あの三年間の比ではなかった。身体の芯まで削られるような訓練、容赦のない指摘、一つの気づきが次の課題へと繋がっていく目まぐるしさ――それでも、辛さだけが残っているわけではなかった。むしろ、削られた分だけ、確かに何かが積み上がっていく感覚の方が、今は強く胸にあった。
――このペースなら、いつか。
脳裏に浮かんだのは、あの五分間、まったく息一つ乱さなかったシーマの機体だった。そして、月曜の鬼ごっこで、何度も、あっさりと僕を捕まえたオルテガや、金曜の暗闇の中で、置いていかれそうになるたびに感じた、三人の機影の余裕だった。
今はまだ、話にならないほどの差がある。それは、痛いほど分かっている。それでも、いつか、あの人たちと肩を並べられる日が来るなら――いや、それだけでは足りない。
――いつか、あの人たちを超えるエースになりたい。
柄にもない大それた思いだと、自分でも分かっていた。それでも、この一週間で少しずつ積み重ねてきた手応えが、その思いを、単なる夢物語ではないものに変えていってくれる気がした。
枕元に置いた、旧ザクを模したキーホルダーに、僕はふと目をやった。
――クルト、エルフィ、グレタは、今頃、どんな一週間を過ごしているんだろう。
配属先で顔を合わせることのない三人のことを思うと、少しだけ、寂しさが胸を掠めた。それでも、それぞれの場所で、それぞれの戦いに挑んでいるのだと思うと、不思議と、勇気づけられる気がした。
――負けてられない。
そんな思いを噛み締めながら、僕は静かに目を閉じた。
新しい一週間の始まりを、僕は、確かな手応えと共に待っていた。