あの日見た花を僕達は幽世(かくりよ)の果てまで探しに行く 作:すぷれっど
武甲山(ぶこうざん)の肌を撫でて吹き降ろす風が、日に日に冷たさを増している。
あの熱狂のような夏が過ぎ去り、秩父の街はあっという間に色鮮やかな紅葉の季節を通り抜けた。11月も終わりに近づいた今、街を包む木々は葉を落とし、白み始めた空の下でどこか寒々しい枝を晒している。息を吐けば、かすかに白い塊となって空気に溶けた。
あの日から、3ヶ月。
季節の移り変わりに取り残されるように、俺——宿海仁太の時間は、止まったままだった。
「じんたん! 待ってってば!」
放課後の校門を出たところで、後ろからドタバタと走り寄ってくる足音が聞こえる。
振り返ると、マフラーに顔を埋めた安城鳴子が、息を弾ませて俺の隣に並んだ。あの夏を経て、あなるはやたらと俺に絡んでくるようになった。ノートを貸せだの、一緒に帰るだの。かつての疎遠だった距離を埋めるみたいに、あるいは俺がまたあの狭い自室に閉じこもってしまわないか見張るみたいに。
「まったく、足早いんだから。……ねえ、今日寒くない? コンビニで肉まん買ってこうよ」
「俺はいい。別に腹減ってねえし」
「もう、素直じゃないんだから」
呆れたように笑うあなるに視線を返しつつ、俺はあてもなく歩を進める。
学校には通うようになった。引きこもりもやめた。だが、そこに大層な希望や目標なんてものは存在しない。ただ朝が来たら起きて、制服を着て、決められた時間を過ごすだけの惰性な日々。めんまがくれた「学校へ行く」というきっかけの先で、俺は何を目指せばいいのか分からないままだった。
進み始めているのは、あなるだけじゃない。
ゆきあつとつるこは、あの夏に互いの長年の想いや歪んだ執着をぶつけ合い、一時期は見るからにギクシャクした雰囲気を漂わせていた。だが最近は、どこか吹っ切れたような穏やかな距離感に戻りつつある。進学校に通う二人は、冬の受験シーズンを控えて模試や補習で忙しそうだが、図書室で並んで勉強する二人の姿は、どこかあたたかい。
ぽっぽも変わった。あの事故の罪悪感から逃げるように世界中を飛び回っていたあいつは、秩父に腰を落ち着かせた。秘密基地を拠点にしながらバイトのシフトを詰め込み、毎日のように泥のように働いている。「当分は日本で稼ぐわ!」と笑うあいつの顔には、かつての焦燥感はなかった。
みんな、傷を抱えながらも「あの日」の先を生きようとしている。
変われていないのは、俺だけだ。
めんまが空へ還り、超平和バスターズの「止まっていた時間」は動いたはずだった。それなのに、俺の胸の真ん中に開いた暗い穴からは、今も冷たい冬の風が吹き抜け続けている。
## 第一話:あの夏の空白
放課後の教室に夕暮れが差し込む時刻になると、世界の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
オレンジ色と紺色が混ざり合う空の下、武甲山の荒々しい山肌が、冷たい影となって秩父の街を見下ろしていた。11月も終わりに差し掛かり、街を吹き抜ける風は日ごとに鋭さを増している。数ヶ月前まであれほどうるさく鳴き立てていたセミの声を覆い隠すように、今はただ、カサついた木枯らしの音だけが校庭を駆け抜けていくだけだ。
俺——宿海仁太は、自分の席で、頬杖をついたままぼんやりと黒板を眺めていた。
学校には、来るようになった。
あの日、めんまが消えてしまったあの夏が終わってから、俺は止まっていた針を動かすように、再びこの制服を着て、この教室に通い始めた。引きこもりを脱出し、普通の高校生としての日常を取り戻した——表面上は、確かにそうなのだと思う。
だが、胸の真ん中に開いた穴は、どれだけ時間が経っても塞がる気配がない。
それどころか、寒さが厳しくなるにつれて、その空洞を吹き抜ける風の冷たさばかりが強く意識された。
部活へ向かう運動部員たちの威勢のいい声。
くだらない雑談に花を咲かせるクラスメイトたちの笑い声。
それらすべてが、厚いガラスを何枚も隔てた「遠い世界の出来事」のように思えた。自分だけが透明な箱の中に閉じ込められ、ただ景色が過ぎ去っていくのを眺めているような感覚。何を見ても心が動かず、何を食べても味が薄い。目標も、夢も、行きたい場所もない。俺はただ、朝が来たら起き、決められた時間を消化し、夜が来たら眠るという「作業」を繰り返しているだけだった。
「……じんたん。ねえ、じんたんってば!」
突然、鼓膜を揺らす声とともに、俺の机がガタッと揺れた。
視線を落とすと、派手に巻かれた茶髪と、短すぎる制服のスカートが目に入った。安城鳴子が、両手を俺の机に叩きつけるようにして立ち、眉を八の字に曲げて俺を見下ろしている。
「……あなるか。なんだよ」
「『なんだよ』じゃないでしょ! 終礼終わったよ? みんなもう帰ったんだけど」
言われて教室内を見渡すと、いつの間にか人影はまばらになり、橙色の夕日が入射角を深めて床を長く染めていた。俺は無言でかばんに教科書を押し込み始める。
「ちょっと、学校でその名前で呼ばないでって言ってるでしょ……っ!」
周囲の目を気にして真っ赤になりながら、小声で「安城って呼びなさいよ」と抗議してくるあなる。だが、その照れ隠しの表情も長くは続かなかった。彼女は小さく溜め息をつくと、俺の前の席の椅子を反対向きに引き寄せ、ドカッと腰を下ろした。
「……ちゃんとご飯、食べてる?」
「食べてるよ。親父がテキトーに作ったやつ」
「嘘ばっかり。なんか、また少し痩せた気がする。制服、ダボダボになってきてるじゃん」
あなるの目は騙せない。彼女の視線には、隠しきれない明らかな不安と心配が宿っていた。
あの夏を経て、あなるはやたらと俺に絡んでくるようになった。ノートを貸せだの、一緒に帰るだの、くだらない理由をつけては俺の視界に入ろうとする。まるで、目を離したら俺がまた自室に閉じこもってしまうのではないか、あるいは、そのままどこか遠くへ消えてしまうのではないかと怯えているみたいに。
「……無理してさ、学校来なくていいんだよ? 辛いなら」
「無理なんてしてねえよ」
「うそ。じんたんの顔見ればわかるよ。ここにいるのに……心だけ、ずっとあの夏の場所に置いてきたみたいな顔してる」
言葉に詰まり、俺はかばんのチャックを閉める手に力を込めた。
痛いところを突かれたと思う。あなるの言う通りだった。学校へ通い、人並みに会話をし、社会に溶け込んでいるフリをしながら、俺の心はあの日のかくれんぼの朝から一歩も前に進めていない。
「……心配すんなって。俺は大丈夫だから」
それ以上あなるに追求させないよう、俺は立ち上がり、かばんを肩にかけた。
あなるを残して学校を出て、すっかり日の暮れた街を一人で歩く。
秩父の夜は早い。商店街の明かりがぽつぽつと灯る中、吐く息の白さに冬の訪れを実感しながら自宅へと向かう。
「ただいまー」
玄関の引き戸を開けると、廊下の奥から線香の香りが薄っすらと漂ってきた。
「おかえり、仁太くん。今日は早かったねぇ」
居間から顔を出したのは、ニットのベストを着た親父だった。相変わらずのんきな笑みを浮かべ、手には読みかけの文庫本を持っている。我が家はあの日から何ひとつ変わっていない。母さんの遺影があり、親父のマイペースな日常があり、俺がいる。
「晩飯、出来てるよ。今日は温かいお鍋にしようか」
「……後で食う。ちょっと部屋にいる」
親父の温かい気遣いに向き合うことすら億劫で、俺は逃げるように二階の自室へと階段を上った。
暗い部屋の電気をつける。
机、ベッド、押し入れ、そして床に散らばったゲームソフト。
部屋の配置は、あの夏と何一つ変わっていない。けれど、決定的に何かが違っていた。
ほんの三ヶ月前まで、ここには「あいつ」がいたのだ。
このベッドの上で無邪気に跳ね回り、俺のゲームプレイを横から覗き込み、かきたまラーメンを美味しそうに食べ、そして俺の前で涙を流していた、めんま。
俺はかばんを床に放り投げると、吸い寄せられるようにベッドへ倒れ込んだ。天井の木目をじっと見つめる。
(……めんま)
声に出さず、心の中でだけその名前を呼ぶ。
あの日、あのかくれんぼの朝。朝焼けの中に消えていっためんまの笑顔。
『見つかっちゃっ……た』
あの最後の声が、静まり返った部屋の中に鮮明に蘇る。
めんまは成仏した。願いを叶えて、超平和バスターズのみんなに笑顔を取り戻させて、空へ還っていった。それは間違いなく、ハッピーエンドだったはずだ。みんな前を向き始め、日常を取り戻し、大人になろうとしている。
なのに——どうして俺の胸は、こんなにも痛いのだろう。
めんまのいないこの部屋は、広すぎて、寒すぎる。
シーツに顔を押し当てると、かすかに残っているような気がした「あいつの匂い」も、冬の冷気の中に完全に消え去っていた。
俺は両手で顔を覆い、暗闇の中でじっと息を潜めた。
心に開いた大きな穴から、冷たい木枯らしが吹き抜ける音だけが、いつまでも俺の耳元で鳴り続けていた。