あの日見た花を僕達は幽世(かくりよ)の果てまで探しに行く 作:すぷれっど
「……次は、私の論を聞いてちょうだい」
ノートパソコンの画面を見つめていたつるこが、静かに、しかし芯のある声で口を開いた。
カタカタとキーボードを叩く手が止まり、彼女は眼鏡のふちを静かに押し上げる。その真剣な眼差しに、俺とゆきあつは自然と背筋を伸ばし、耳を傾けた。
「一般的に、人は死後、その人物が生前に望んだ場所や、深い縁のある場所へと向かう……という言説はオカルトや民俗学でもよく語られるわ。その前提に立って、まずは本間家の『宗教的背景』から考えてみたの」
つるこは画面をこちらに向け、秩父市内の寺院分布を示すマップと、仏教の宗派に関する資料を表示させた。
「秩父という地域は、昔から『曹洞宗』の寺院が非常に多い土地柄よ。そして……私、以前本間家にお焼香に伺った際、仏壇の中を拝見したの。中央に祀られていたのは釈迦如来像。間違いないわ、本間家のお仏壇は曹洞宗の様式だった」
「……さすがだな、つるこ。よく見ている」
「すげぇな、つるこ……そんなところまで覚えてたのか」
俺とゆきあつの感心の声を受け止めながら、つるこは表情を崩さず、言葉を続けた。
「問題はここからよ。曹洞宗の教義において、人は死後、即座に悟りを開いて成仏するとされているの。つまり、一般的なお盆の時期に『霊として現世に帰ってくる』という概念自体が存在しないのよ。さらに言えば……仏教的な輪廻転生、つまりめんまが口にしていた『生まれ変わり』という思想も、厳密には曹洞宗の教義とは相容れない部分が多いわ」
「……待て」
ゆきあつが腕を組み、不機嫌そうに眉根を寄せた。
「つまり、本間家が曹洞宗であるならば……めんまが現世にとどまり、ましてや『生まれ変わりするの』と言って消えていった現象そのものが、教義上の矛盾を抱えているということか?」
「そうよ。めんまの存在は、純粋な曹洞宗の教義の枠組みだけでは説明がつかない。……ということは、めんまは仏教的な意味での成仏をしたわけではないか、あるいは……本間家の宗派とは全く別の『何か』が干渉している可能性があるわ」
「別の何かの干渉……」
ゆきあつは顎に手を当て、しばらく壁の巨大ディスプレイを見つめながら思考を巡らせた。部屋の中に、ノートパソコンの排気音だけが静かに響く。
「……あり得ない話じゃないな。仏教的な死生観だけで解釈できないとなれば、より古く、この土地に深く根付いた『別の法則』が働いていると考えた方が合理的だ」
「別の法則……?」
俺は二人のハイレベルな議論に取り残されそうになりながらも、必死に頭を回転させた。めんまが暮らしていたこの秩父の街。山に囲まれ、古い神社や祠がたくさんあるこの場所。
「……なぁ。だとしたらさ、もっと身近にある『何か』じゃないか?」
「身近にある何か、だと?」
ゆきあつが俺を見つめる。俺は思いつくまま、感じたままを言葉にした。
「だってさ、めんまは俺たちの目の前に現れたんだぞ? 遠い天国とか地獄とかじゃなくて、この秩父の街の、秘密基地や俺の部屋にいたんだ。……そういう、この近辺に昔からいるような……たとえば『秩父の神様』みたいなやつとかさ?」
俺の突飛な発言に、ゆきあつは一瞬目を見開いた。だが、すぐにその瞳に鋭い光が宿る。
「……なるほど。土地の神か。宿海、たまにはまともな着眼点を持つじゃないか。仏教が伝来する以前からこの地に存在する『神道』、あるいは『自然信仰』の領域だな。秩父は古来より修験道や山岳信仰の霊場だ。……よし、検索のベクトルを変更する。ターゲットを『秩父固有の神社および神道伝承』に絞って情報を集めるぞ」
「分かったわ。秩父地域の神社誌と古文書のデータベースを再検索する」
つるこも小さく頷き、速やかに対象を絞り込んでキーボードを叩き始めた。
そこからは、息をのむような没頭の時間が続いた。
外の陽はすっかり落ち、巨大ディスプレイとノートパソコンの青白い光だけが、暗くなりかけたリビングを照らしている。ゆきあつの母親が途中で差し入れてくれた温かいお茶もすっかり冷めていた。
カチ、カチとマウスをクリックする音と、キーボードを打つ音だけが響くこと数時間。
「……見つけたぞ」
静寂を破り、ゆきあつが重々しい声で呟いた。
ゆきあつはスマートフォンを操作し、巨大ディスプレイにいくつか文章と古風な絵図を映し出した。
「みんな、聞いてくれ」
ゆきあつの声に張り詰めた熱が宿る。俺とつるこは身を乗り出して画面を凝視した。
「秩父には実に様々な神社が存在する。だが……その中でも、この秩父という特異な風土にしか存在しない、きわめて興味深い信仰形式がある」
ゆきあつがポインターで示したのは、深い霧に包まれた山深い神社の写真と、一匹の異形な動物の図絵だった。
「一つは、奥秩父に鎮座する『三峯神社』。ここではお使い神として、お犬様……つまり『大口真神(オオカミ)』が祀られている。災厄を祓い、人の想いを聞き届ける神の使いだ。そしてもう一つは、この秩父の『山そのもの』を神体として崇める、古代からの山岳信仰……」
ディスプレイに映し出された『大口真神』——凛とした佇まいの白い狼の図絵を見た瞬間、俺の背筋に冷たい電撃が走った。
(……白い、狼……!)
あの日、山道で俺の前に姿を現し、じっと俺を見つめていたあの不可解な存在。
あれは単なる野犬などではない。この秩父の地に古くから息づく、神の使い——。
めんまの「生まれ変わり」という言葉の真実、そしてあの夏に起きた奇跡の裏には、この秩父の神々が深く関わっている。俺たちの目の前に、ついに「本物の手がかり」が姿を現そうとしていた。
「……私も、そこに行き着いたわ」
巨大ディスプレイに映し出された図絵を見つめながら、つるこが小さく頷き、メガネの奥の瞳を光らせた。キーボードを叩く指が一瞬止まる。
「三峯神社の由緒を調べてみたの。主祭神である伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉册尊(イザナミノミコト)の使いとして、大口真神——つまり狼が、人間の願いや祈りを神へと届ける『メッセンジャー』の役割を果たしていたみたい。元々この秩父の地では、農作物を荒らすシカやイノシシを退治してくれる益獣として、狼は人々から深く感謝され、神格化されて歓迎されていた歴史があるのよ」
「使いとしての狼……人間の願いを届ける存在……」
俺がその言葉を噛み締めていると、ゆきあつが腕を組み、顎をさすりながら言葉を継いだ。その声には、持論が組み上がっていく時の静かな熱が宿っている。
「それだけじゃない。秩父の民俗学における死生観を掘り下げると、古くから『去来思想(きょらいしそう)』という概念が存在することが判明した。これは、死んだ人間の魂は遠い『あの世』や冥府へ行くのではなく、故郷の『高い山の頂』へと登って神となり、そこからずっと残された生者を見守り続けている……という信仰だ」
「高い山に登って、神になる……?」
俺がつぶやくと、ゆきあつはディスプレイ上の奥秩父の山々を示すマップを指し示した。
「そう提案すると、一つの仮説が成り立つ。……宿海、お前の言う『あの夏のめんま』は、単なる幽霊などではなく……最初から秩父の山に抱かれ、神に近い存在へと変化していたのではないか?」
「めんまが……最初から神様に?」
「その可能性は十分に高いわね」と、つるこが静かに頷く。「もし彼女が『神』あるいはそれに近い精霊のような存在になっていたのだとすれば、通常の幽霊とは違って現世の物質へ干渉できる力が強かったことにも納得がいくわ。食べ物を消化したり、文字を書いたり……何より、特定の条件のもとでその姿や声を私たちに届けられたことも」
「そうか……」
胸の奥で、カチリと小さなピースがハマる音がした。
あいつは消えてなくなったんじゃない。この秩父の山々や風の中に、神様みたいな温かい存在になって今もいてくれているのかもしれない。
「じゃあ……だとしたら、もう一度めんまと話す方法だって、絶対にあるはずだよな!?」
「ああ。だが……」
俺の身乗り出しに、ゆきあつは冷静に、けれどどこか心配そうな眼差しを向けた。
「お前自身が言っていた通り、あの最後の朝、あいつが急速に弱っていたのもまた動かしがたい事実だ。神に近い存在とはいえ、現世にとどまり続けるには相当な負荷がかかっていたのか……あるいは別の要因か」
「あ……」
弱っていためんまの姿。消えかけていた手。
そこまで思い返した時、俺の脳裏に、数日前のあの寒々しい山道での出来事が強烈にフラッシュバックした。
「……そういえば」
「ん? なんだ、宿海」
「お前たちと秘密基地に集まった……あの帰り道のことなんだけどさ。山道を歩いてる時……俺、大きな白い犬みたいな、狼みたいなやつに遭遇したんだ」
「……何だと?」
ゆきあつの眼光が鋭く光る。つるこも思わず膝の上のノートパソコンから顔を上げた。
「見間違いじゃないのよね、宿海?」
「ああ……暗かったけど、見間違いじゃない。ハスキー犬かと思ったんだけど、妙に神聖というか……全体が真っ白で、じっと俺のことを見つめてから、山の奥へ消えて行ったんだ」
一瞬、リビングに重密な静寂が降り立った。
壁のディスプレイに映し出された『大口真神』の白い描画と、俺が目撃した『白い狼』。偶然で片付けるには、あまりにもタイミングが合いすぎていた。
「……今の段階で、その白い狼と一連の現象に無関係だとは到底言えないな」
ゆきあつがゆっくりと口を開き、静かに思考を整理するように言った。
「だが、ネットや資料のデータだけではこれ以上の情報は不足している。……実際に三峯神社へ足を運び、現地で現地調査を行った方が、より確実な手がかりが見つかるかもしれん」
「そうね。現地の伝承や祠の様子を直接確かめる価値は大いにあるわ」
つるこも同意するように深く頷いた。ゆきあつはスマートフォンをポケットに仕舞うと、俺たちに向かって力強い目を向けた。
「それと……俺側でも、この仮説をもとに『検証してみたいこと』が他にもいくつかある。その詳細については、後日改めて話す」
「分かった……! ゆきあつ、つるこ、本当にありがとう。これ以上なく助かった」
俺が心からの感謝を伝えると、ゆきあつは不器用そうに「フン、礼を言われる筋合いはない」と鼻を鳴らし、つるこはそんなゆきあつを見て口元に小さな微笑みを浮かべた。
「それじゃあ、今日はこれで失礼させてもらうわね、ゆきあつ」
「ああ。わざわざすまなかったな、二人とも」
つるこが鞄を抱えて立ち上がり、俺もそれに続いた。
玄関でゆきあつに見送られ、重厚なドアをくぐる。
外に出ると、秩父の街はすっかり茜色から群青色へと移り変わる夕暮れ時に包まれていた。冬の冷たい風が頬を刺すが、胸の奥にはじんわりと確かな温もりが宿っていた。
立派な松雪家の門扉をあとにしながら、俺は深く息を吸い込み、夕闇に沈む秩父の山々を見上げた。
あの大口真神の潜む深い山のどこかに、そしてこの風の中に、めんまは確かにいる。
俺たちはもう一度、あいつに追いつくための第一歩を踏み出したのだ。