あの日見た花を僕達は幽世(かくりよ)の果てまで探しに行く 作:すぷれっど
寒けの立つ夜気から逃げ込むように引き戸を開けると、玄関の土間から立ち上る我が家の匂いが、かじかんだ俺の鼻腔をくすぐった。
「ただいまー……」
薄暗い廊下に声を落とす。返ってきたのは、居間の奥から聞こえるテレビの低い効果音と、トントンとまな板を叩く規則的な音だった。
居間の引き戸を引くと、石油ストーブの匂いとダシの湯気が混ざり合ったあたたかな空気に包まれる。
「おかえり、じんたくん。遅かったねぇ」
半纏はんてんを羽織った親父——宿海篤史が、どこか呑気な声をかけて振り返った。鍋の様子を見ながら、いつものように目元を緩めている。
「……親父、ちょっといいか?」
「おや、どうしたんだい? 改まって」
親父は菜箸を置くと、丸椅子を引き寄せて腰を下ろした。大学で考古学を教えている専門家らしい知的な眼差しが、一瞬だけメガネの奥で光る。その食えない笑顔の下に、少しだけ俺を心配するような色が混じるのを俺は見逃さなかった。
俺はカバンを畳の上に置くと、胸のつっかえを押し出すように口を開いた。
「……三峯神社について、何か知ってるか?」
「三峯さんかい?」
親父はほう、と感心したように息を吐き、自分の顎を撫でた。
「知ってるよぉ。あの奥秩父のてっぺんにある神社だろう? お犬様——狼を祀ってる所で有名じゃないか」
「……詳しいのか?」
「当たり前じゃないか。地元の民俗やフィールドワークは僕の専門分野だしねぇ。それにしても、じんたくんが三峯さんに興味を持つなんて珍しいね」
「いや……ちょっと、気になっただけ」
俺は視線を泳がせた。めんまの言う狼とは何か。
「……狼って、悪い奴じゃないのか? 人を襲うとか、そういう」
「んー、物語の中じゃ悪者扱いされがちだけどねぇ」
親父は優しく首を振った。
「あそこでは、とっても良い神様なんだよ。昔々、日本武尊ヤマトタケルノミコト様が深い山道で迷われた時にね、どこからともなく現れた一頭の白い狼が、正しい道へと導いて差し上げたんだ。それ以来、悪霊や火難を祓う『お犬様』として大切にされてきたんだよ」
道を……導いた……。
暗い山道で迷った者を導く、聖なる狼。
(じゃあ……あいつが言っていた『狼』も……めんまをどこかへ導こうとしてるのか……?)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。めんまがどこか遠くへ去ってしまうかもしれないという不安と、それが彼女にとっての救いなのかもしれないという矛盾が、俺の心をかき乱す。
「……そっか。ありがとう、親父」
「どういたしまして。ふふ、なんだか今日のじんたくんは、ちょっと物知りになりたいお年頃かい? かわいいねぇ」
「っ、やめてくれよ、子供扱いすんな」
俺は顔を背け、誤魔化すように鼻を鳴らした。だが、親父のその緩い温もりのおかげで、喉の奥に詰まっていた息が少しだけ吐き出せた気がした。
立ち上がりかけた俺だったが、思い直したように足をとめた。ずっと確かめられずにいた、一番奥底の問いを絞り出す。
「……あ、それと……親父」
「ん?」
「めんまの……芽衣子のお墓って、どこにあるか知ってるか?」
居間の空気が、一瞬だけピンと張り詰めた。ストーブの爆ぜる音だけが小さく響く。
親父は一瞬だけ目を見張り、それから静かに柔らかな表情を取り戻した。
「芽衣子ちゃんのかい? ……そうだねぇ。本間家のお墓とは別に、あの子自身が眠っている場所なら……白泰やまの奥にある『両面神社』の裏手にあるって聞いたかな」
「えっ……神社……?」
思いも寄らない言葉に、俺は思わず声を裏返した。
「うん。あのあたりの古い山岳信仰の風習でね。山で亡くなった幼い子供は、集落の墓地ではなく、山の神様に近い神聖な境内の墓地に納められるという決まりがあったんだよ。山へ還す、という意味合いもあったのかもしれないねぇ」
「山の神様に……還す……」
言葉が出なかった。めんまは、そんな人の手の届かない山奥の、神様の下に眠っているのか。
冷たい冬の山、寂れた神社の裏手にぽつんと佇む小さな墓標の光景が頭に浮かび、指先が冷たく震えた。
「そ、そうか……。ありがとう、親父」
「お墓参りでも、するのかい?」
親父が静かに尋ねてくる。その瞳には、俺の背負う重荷をすべて包み込んでくれるような深い温もりがあった。
「……まあ、その内」
俺はそう誤魔化すと、背を向けた。
「夕飯、すぐできるからねぇ」という親父の声を背中で聞きながら、自分の部屋へと続く階段を上る。
ギシギシと鳴るステップを踏みしめるたび、俺の頭の中では「白い狼」と「両面神社」の二つの言葉が、冷たい冬の風のようにぐるぐると渦巻いていた。