オラリオ一の治療院であるディアンケヒト・ファミリア、その治療室は戦場のような様相を呈していた。
「腹部の出血が激しい!止血帯!ありったけ!」
「頭骨にヒビが入ってる!上位回復薬を用意!」
「傷口の異物は除去完了!魔法使って!」
切羽詰まった叫びが壁一枚を隔てて響く。この壁の向こう側でレオンが死と戦っている。輝夜はそれを見ることさえできない。己を苛む無力感に怒りがこみ上げるが、それすらも無為なことであるという諦観が同時に押し寄せ、力なく項垂れた。
「アストレア・ファミリアのみんなには私から伝えたよ」
「すまない。アーディ」
力なく答えた輝夜の隣に座り込みながらアーディは首を横に振った。気丈にふるまってはいるがその顔には常の快活さがなく、気落ちしていることは明白だ。
「ううん。これくらいはやらないと、レオンにもみんなにも悪いもん」
「そんなことはない。お前が伝えてくれて助かった」
二人の間に沈黙が落ちた。もともと多くの言葉を交わす間柄ではないが、この沈黙はそれが理由のものではない。お互いがお互いに負い目を感じている。それゆえの沈黙だった。
「……ごめんね。もっと早く見つけられたなら、こうはなってなかったかもしれないのに」
「謝るな。それを言うなら、誰よりも早く私が見つけなければいけなかった」
「…………ごめん」
鼻を啜る音が廊下に響く。
輝夜にはアーディを責める気持ちなど少しも存在しない。彼女は自分よりも先にレオンを見つけ、最低限の治療を施したうえでそのことを輝夜に伝えてさえくれた。それだけでなく、本来輝夜がしなくてはならない仲間への報告まで買って出てくれたのだ。そんな彼女をどうして責めることができるだろうか。故にこの無力感も怒りも、すべては己に向けられたものだ。もっと早く本拠地を出ていれば。いや、そもそも深夜の巡回に自分もついていっていれば。しかしレオンですら負ける相手に私がついていって何ができる?ならばレオンを巡回に行かせなければよかったのか?そんなことよりレオンの傷は治るのか?もしこのまま治らなかったらどうすればいい?
この思考に意味などない。それを理解していても、考えることをやめてしまったら押し寄せる恐怖に身がすくんでしまいそうで考えるのがやめられない。自分はどうすればよかったのか。自分はこれからどうすればいいのか。隣で震えるアーディに尋ねても答えてくれそうにはない。石造りの冷たい廊下から伝わる足音がなんとも不吉なように思えて、輝夜は己をかき抱く。
これ以上、何もおこらないでくれ。
祈りにも近いその願いが意味を持たないということを、輝夜は薄々悟っていた。
涼やかだった朝の空気が今は寒気のように感じられてしまう。弱っているからだ、と心の中で吐き捨てる。今の自分は弱っている。屈辱でしかないその事実を輝夜は自覚する。レオンが居なければ私はこんなにも弱いのか。これではまるで、男によりかからなければ何もできない愚かで惨めな手弱女ではないか。自分を叱咤するための言葉。しかしそれがなぜだか、すとんと腑に落ちた。ああ、そうだ。私は信頼していたのではない。依存していたのだ。あの太陽のように笑う男に。
そしてその結果がこれだ。レオンは死にかけ、自分は敵を討つことも傷を癒してやることもできない。
許されるのなら、死んでしまいたかった。もしもこの場に輝夜一人であったのなら。もしもこの身がレオンの身代わりになることができたのなら。輝夜は悔恨と哀しみの果てに自裁していたかもしれない。
それほどまでに今の輝夜は脆く、歪んでいた。それは何も今回の件だけが原因ではなく彼女の生来の性質と生い立ち、そして何よりレオンのありようが彼女にとって太陽そのものだったから起きたことだ。
正義とは何か。人生の中で幾度となく自問し続けた問。人に問えども、己に問えども答えはなく。正しく善良なものを喰い物にして、悪逆の徒が生を謳歌する。幾たび目にしたかわからない、この世の摂理。いついしか輝夜は迷い、嫌悪し、卑屈になった。真の正義を求める心に蓋をして、
そんな彼が死にかけて、卑劣な私が生きている。それは酷くおかしなことに思えた。
彼の代わりに、死んでしまえ。そんな声がどこかから聞こえた。
「輝夜!」
「……ア、リーゼ?」
紅玉の髪と若草の瞳。アストレア・ファミリアの現団長であるアリーゼ・ローヴェルが、ガネーシャ・ファミリアの案内人を振り切る勢いで駆けこんできた。その後ろにはほかの団員が全員続き、最後には主神であるアストレア自身まで息を切らして入ってくる。
「レオンは、レオンは無事なのですか!?」
全員の総意を代表するかの如くリューが叫ぶ。その顔は切羽詰まっており、白磁の肌が青白ささえ帯びている。輝夜は力なく首を振った。
「わからん。今も治療が続いているが……最悪の場合も考えられる」
努めて冷静に、自分で吐いた言葉は痛いほどの空虚さを伴って灰色の廊下にひびく。私の体のどこかにある螺子を、私でない誰かが締めている。そんな錯覚を覚えた。あるいはそれが正しいのかもしれない。そうでないのなら私が泣かない理由が何なのか、私自身にもわからない。弱り切った心の端がそんなことを宣った。
「ごめんなさい、輝夜。あなたをつらい目に合わせてしまった」
「いいのです。アストレア様。むしろ見つけたのが私で幸いでした。他のものよりは慣れております」
皆をかき分けて先頭までやってきたストレアが輝夜を抱きしめる。それでも輝夜は鉄面皮を崩さない。それは副団長として団員に不甲斐ないところを見せられないからか。それとも、一度崩れてしまったらもう取り返しがつかないほどに滅茶苦茶になってしまうという、恐れとは異なる危機感があったからか。自分でも答えが出せないまま輝夜は心のヒビを塗り固めた。
「今はとにかく、アミッドたちが治療を終わらせるまで待ちましょう。大丈夫よ!彼女たちはすごいヒーラーだもの!きっとレオンの傷を治してくれるわ!もしかしたら、怪我をする前よりもっとかっこよくなって帰ってくるかもしれないわよ!」
「……アリーゼ、今はそういうことをいうべきでは」
「きっとレオンは私たちがこうやって沈んでるよりも、少しでも笑っていることを望むはずよ!団長仲間だから私、わかるわ!キラーン☆!」
「ったく。かわらねえな、うちらの団長は」
「もちろん!私はいつだって完璧美少女よ!」
アリーゼによって緊迫した空気が緩んだ。安心というわけではないが、先ほどまでの絶望的な雰囲気は払拭されている。その様子を認めてリューは座り込むアーディに手を差し伸べた。
「ありがとう、アーディ。あなたが見つけてくれなければレオンはもっと酷いことになっていたかもしれません。それだけでなく、治療の手配や私たちへの連絡まで。本当に、ありがとう」
「ううん、お姉ちゃんやファミリアのみんなにも手伝ってもらったから。それに、もっと早く見つけてたらこうはならなかったかもしれない」
「そんなことはありません。それを言うのなら私は彼を見つけることさえできなかった」
「ほら二人とも!そういうのは後よ!」
そういってリューの手を取って立ち上がったアーディと彼女の手を握ったままのリューへ、アリーゼがとびついた。
「ア、 アリーゼ!いきなり抱き着くのはやめてください!」
「リオンったらさっきから顔が暗いんだもの!笑うまでずっとこうよ!ほら!アーディも!」
「うわっ!アリーゼ、にゃにしゅりゅの!」
「こういう時こそ笑うのよ!ほら、にーっ!」
「病室の前で騒ぐんじゃねえよ……」
呆れながらもライラは強く咎めない。団長殿のおかげで沈んだ空気がいくらか持ち直したのだから、あえて水を差すこともないだろう。
願わくば、このまま何事もなくレオンが戻りみんなが元気を取り戻せたら。叶うことはないだろう。そう思いながらも、ライラは願わずにはいられない。
■■■■
「一時は危うかったですが、今はどうにか持ち直しました。最初に見つけた方の処置が良かったのでしょうね。毒が塗られた傷口も、応急処置のおかげでいくらか出血は抑えられていましたよ。その毒も出血を強いるだけのもので、即死に至るようなものではなかったのが幸いでした。全体的に不幸中の幸いだったといえるでしょう。」
少し年嵩の治療師が淡々と容体について語るのを、人が集まって狭苦しい病室の中で聞く。誰かが吐いた安堵の息がその場の全員にとっての総意だろう。全員を代表して、やや険の取れた表情のアストレアが訪ねた。
「意識が戻るのはいつになるのかしら?」
「詳しいことはわかりません。本人次第としか言えないですから。しかし、かなり早い勢いで傷は治っていっています。少なくとも、いつまでも寝たきりということはないでしょう」
アミッドが張り切っていましたから、と彼女はいった。その当人である銀糸の少女はレオンが横たわるベッドのわきで静かに寝息を立てている。年のころは12歳。いくら有望株として注目を受けている彼女であってもその体力はあくまで子供相応のものだ。予断を許さない緊迫した治療現場は彼女の体力を通常よりも激しく削ったのだろう。その眠りは深く、生半可なことでは起きないだろうことがうかがえる。それだけ全力を尽くしたのだろう。あどけない少女の寝顔にその場の面々は感謝したいやら庇護欲がそそられるやらでどんな顔をして直視すればいいのかわからなかった。
「ともかく、意識が戻るまでは当院で安静にしていてもらいます。意識が回復したら連絡しますから、それからのことはその時に話し合いましょう」
「ええ、この子のことをくれぐれもお願いします」
「それが我々の務めですから」
そういって治療師は病室を後にした。全員がその背中を見届けて、扉ががらりと閉じられるのと共に溜息を吐いた。緊張が一気にほどけたからだ。気が抜けて崩れ落ちたセルティを同じく魔導士のリャーナが支える。他の面々も程度の差はあれ同じ様子だ。なかには肩を寄せ合って涙をこらえる者たちもいる。そんな彼女らに寄り添って、アストレアは微笑む。その柔らかさは聖女じみていた。
「よかったわね、みんな」
その声にこたえる者はいなかった。それでも彼女は微笑んでいた。ひとまずの安寧が、星屑たちに与えられたのだ。
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