自分の身体を観察すると決めた。そう決めたはずなのに、最初にしたのは体温を測ることでも、脈を数えることでもなかった。
体温計は洗面所の棚にあり、スマホには健康管理アプリも入っている。やろうと思えば、体温、脈拍、睡眠時間、歩数、消費カロリーまで細かく記録できた。数字を並べれば、少しは安心できるのかもしれない。
だが、そこまで考えてやめた。数字を集めても、目の奥へ入った白いものの正体は分からず、左腕の傷を塞いでいる膜が何なのかも判明しない。そもそも今の俺に必要なのは、健康診断の真似ではなかった。
昨日、俺は行き止まりへ追い詰められ、左腕を斬られ、目から何かに入り込まれた直後に、ゴブリンを殴り飛ばした。あの時の動きは、どう考えても普通ではない。
問題は、その異常が今も残っているのかどうかだった。
腕力を試す気にはなれない。左腕にはまだ傷があり、腕立て伏せや懸垂など論外だった。右腕だけで何かを殴るのも嫌だった。寄生虫の影響を調べようとして部屋の壁へ穴を開けたなど、人生の底を確認するような報告はしたくない。
だから、軽く走ることにした。距離は短く、無理はしない。
スマホの地図を開き、自宅周辺を確認する。昨日の橋がある方角には視線を向けず、そこへ続く道も選ばない。川沿いや水路沿いを避け、人通りがそれなりにあり、コンビニや住宅が並ぶ普通の道を走ることにした。何かあっても、すぐに足を止められる場所がいい。
俺はメモへ、新しく決めたルールを書き加えた。
昨日の橋には近づかない。暗渠、水路、橋の下には寄らない。腕は使わない。全力で走らない。異常を感じたら帰る。
ルールを文字にすると、頭の中だけで考えていた時よりも境界がはっきりした。少なくとも、どこまで試し、どこで切り上げるかは自分で決められる。
着替えながら左腕を確認し、包帯の上からゆったりした長袖を着る。動かせば鈍く痛んだが、日常動作に支障が出るほどではなく、昨日のような熱もかなり引いていた。
ありがたいとは思うが、頼んだ覚えはない。その感想に少しずつ慣れ始めている自分も嫌だった。
靴を履き、玄関の前で一度立ち止まる。鍵を閉める前に、もう一度メモを開いた。昨日の橋には近づかない。その一文を指でなぞった。
「行かない」
声に出してから、玄関を出た。
外はいつも通りだった。昼前の住宅街には遠くを走る車の音があり、どこかの家から洗濯物の柔軟剤の匂いが流れてくる。昨日、暗渠の奥でゴブリンに追い詰められた痕跡など、この街のどこにも残っていない。
しばらく歩いて身体を慣らし、それからゆっくりと走り始めた。
最初は、何も変わっていないように思えた。足が地面を蹴り、靴底がアスファルトへ当たる。息を吸って吐き、左腕を揺らさないよう身体の横へ固定する。
会社員だった頃、健康のために何度か走ろうとして三日でやめた時と、大きくは変わらない。そう思っていたが、五分ほど走ったところで違和感が出た。
呼吸は速くなり、心臓も普段より強く動いている。足にも負荷はかかっていた。それでも苦しくなるまでが遅く、胸が詰まるような感覚もない。肺の奥まで空気が入り、吐く時にも余裕が残っていた。
運動不足の三十歳としては、妙に調子がよかった。無意識にペースを上げそうになり、すぐに落とす。今日は検証であり、挑戦ではない。
次に気づいたのは、足元だった。
歩道の端の小さな段差、路面のひび割れ、乾いた小石、排水溝の蓋。そうしたものが妙にはっきり見えるだけでなく、踏む前に身体が自然に避けていた。
大げさな動きではない。足を置く位置が、ほんの少し変わるだけだった。その調整が、以前より滑らかだった。
昔なら、疲れてくるほど足元への注意が雑になり、段差へ靴先を引っかけたり、排水溝の蓋でわずかに滑ったりしていた。今日は、それがない。
足がよく動くというより、身体が地面をよく読んでいる。そんな表現が浮かんだ途端、無意識に速度を落としていた。
身体能力が上がっていると言い切れるほどではない。突然アスリートになったわけでも、車より速く走れるわけでもなく、普通の範囲からわずかに外へ出た程度だった。
だからこそ、不気味だった。
分かりやすい超能力なら、まだ異常だと判断しやすい。だが、今起きている変化は日常の中へ薄く混ざっていた。昨日より少し走れ、少しよく見え、少し反応が速い。その僅かな違いが、最も信用できなかった。
信号の手前で足を止める。赤信号の前を車が通り過ぎ、自転車が横を抜けていった。
呼吸を整えながら何となく自転車を目で追うと、回転する車輪のスポークが見えた。
一本ずつ数えられるほどではない。それでも、流れていく銀色の円にしか見えなかったものが、細い棒の集まりとして目に入ってくる。
視力が上がったのかもしれない。
道路の向こう側にある看板の小さな文字も、以前より読みやすかった。電線に止まる鳥が首を動かす細かな揺れや、風に煽られる葉の輪郭も、前より明瞭に見える。
単純に目が良くなったというより、動くものへ焦点を合わせやすくなっているようだった。その時、電線の鳥が羽ばたき、俺の視線が自然に引き寄せられた。
羽の角度、身体の傾き、空中で方向を変える時の動き、細い足、首の可動域。飛び去るまでの短い間に、小さな身体の構造が次々と目へ入ってきた。
俺は眉をひそめた。
普通なら、鳥が飛んだと認識して終わる。せいぜい、カラスか鳩かを考える程度だ。それなのに今は、種類より先に動き方や身体の形を追っていた。
なぜそんな部分ばかり見ていたのか、自分でも分からないまま、信号が青へ変わった。俺は歩き出し、それから再び軽く走った。
鳥のことは考えない。今日は橋に行かず、水路にも寄らず、生き物を追わない。ただ走って帰る。それだけだ。
そう決め直した直後、散歩中の犬とすれ違った。
柴犬だった。短い足取りで歩きながら、時折リードの先で鼻を地面へ近づけている。飼い主の老人の速度に合わせつつも、意識は周囲へ向いていた。
最初に思ったのは、かわいい、だった。
その直後、肩の動き、後ろ足の蹴り、首の太さ、顎の形、周囲へ反応する速さが、まとまった情報のように目へ入ってきた。地面へ向けた鼻の動きから、次にどちらへ進もうとしているのかまで分かる気がした。
俺は反射的に視線を外した。
犬に見られたと思ったわけではない。自分の目を通して、中にいる何かへ犬の姿を渡しているような感覚があった。
犬は何も知らずに通り過ぎ、飼い主もこちらを気にしていない。ただ、散歩中の犬と軽く走っている男がすれ違っただけの場面だった。そこへ、それ以上の意味を持ち込みたくなかった。
俺は足を止めた。呼吸は少し荒く、汗も出ている。それでも、まだ走れた。予定していた距離の半分にも達していない。
だが、異常を感じたら帰ると決めている。俺は来た道を引き返し、帰りは走らずに歩いた。
途中、草むらで小さな虫が跳ね、視線が吸われそうになった。俺は正面を向いたまま、意識して見ないようにする。
見ないと決めれば、視線を向けずにいられた。
完全に安心できるわけではない。それでも、自分で決めた地点より前に検証を切り上げ、寄り道をせず帰ることはできた。
部屋へ戻ると、玄関で靴を脱ぎ、鍵を閉めてチェーンをかけた。昨日と同じ動作だったが、今日は少し意味が違う。
逃げ込んだのではない。予定を変え、自分で帰ってきた。
洗面所で顔を洗い、左腕の包帯を確認する。走ったせいで少し汗ばんでいたが、血は滲んでおらず、痛みも増していなかった。
部屋へ戻り、スマホを開いた。
メモアプリへ直接書くのはやめた。寄生、身体補助、行動操作といった単語が並ぶ記録を、そのまま残しておくのは危険に思えた。
代わりにAIを起動し、会話のタイトルを変更する。
『自作小説 メモ』
あまりにも雑な偽装だった。
それでも誰かに見られた場合、身体に得体の知れないものが入った男だと思われるより、痛い創作メモを残している男だと思われる方がまだましだった。
俺は入力欄へ、今日のことを箇条書きで打ち込んだ。
『主人公の変化メモ
・軽く走ったら普段より息が上がりにくい
・足元の段差や小石を自然に避ける
・動いているものがよく見える
・鳥や犬を見た時、かわいいとか怖いじゃなくて、動きや体の作りを観察してしまう
・自分の意思とは別の視線が混ざる感じ
設定として整理して』
送信すると、しばらくして画面へ返答が表示された。
『設定として整理するなら、かなり使いやすい変化です。主人公の身体能力は、急激に超人化したというより、基礎性能が少し底上げされた状態に見えます。特に変化が出ているのは、持久力、足場判断、動体視力、周辺の生物への観察能力です。
腕力などの直接的な強化は、常時発動ではなく、危険時や戦闘時に強く出る設定にすると自然です。普段は「少し調子がいい」程度で、命の危険がある時だけ補正が大きくなる形です。
鳥や犬を見た時の反応は、主人公本人の感情とは異なる認識が混ざっている描写として扱えます。かわいい、怖い、気持ち悪いといった感情より先に、対象の動き、骨格、反応速度などを観察してしまう。そうすると、主人公の中に別の観察主体がいることを読者へ伝えられます。
ただし、この段階では完全な操作ではなく、視線や注意が引っ張られる程度に留めるとよいです。主人公が自分の意思で視線を外せる、帰る判断ができる、危険な場所に近づかない、という描写を入れると、まだ自制できていることを示せます。』
俺は画面を見つめた。
自分で入力し、自分で整理させた。ただの文章であり、AIが俺の身体を見たわけでも、傷口や昨日の暗渠を知っているわけでもない。
それでも、最後の部分は今日の行動と一致していた。
昨日の橋には近づかなかった。水路にも寄らず、犬から目を外し、途中で走るのをやめて帰ってきた。
少なくとも今日、決めたルールは守れた。俺はスマホを置き、床へ座った。
左腕の奥が、かすかに熱を持っているような気がする。痛みともかゆみとも違う、そこに何かがいることを思い出させるような熱だった。
返事でも同意でもなく、ただの反応かもしれない。それでも、俺は小さく息を吐いた。
「今日は行かなかったぞ」
誰に向けた言葉なのかは分からない。自分へ言ったのかもしれず、中にいるものへ話したのかもしれない。あるいは、昨日の暗渠がある方角へ向けた言葉だったのかもしれない。
返事はなかった。俺はAIの返答の下へ、短い一文を打ち込んだ。
『今日は橋に近づかなかった。自分で帰ってきた。』
送信はせず、会話を閉じる前に、その文章の先頭へ日付と時刻を加えた。それが、自分の身体について残した最初の観察記録になった。