背後の足音は、思っていたより早く近づいていた。
こちらは足元を確かめながら進んでいる。罠があるかもしれず、先ほどのスライム以外にも何かいる可能性がある。そもそも、ここは水門の横道からつながった正体不明のダンジョンだ。慎重にならない理由がなかった。
だが、後ろの男の足音には迷いがない。時折止まってはいるものの、警戒しているというより、カメラの向きを変えたり、目についたものを撮影したりしているようだった。
「いや、これ完全にダンジョンじゃない? 水門の奥でこんなの見つかることある? 虫探しに来たんだけどな……」
遠くから届く声を聞きながら、俺は内心で頭を抱えた。
虫を探しに来たのなら、虫だけ探して帰ってほしい。そもそも水門の中へ入り、黒い石の横道を見つけた時点で通報して離れるべきだ。
しかし、声の主は止まらない。むしろ、未知の場所を見つけたことを楽しんでいるようにさえ聞こえた。
俺は速足で進みながら、何度も後ろを振り返りたくなるのをこらえた。ライトを向ければ自分の位置を教えることになる。だからといって、このまま先へ進めば未知の奥へ踏み込むしかない。
左右は黒い石壁で、道は一本道だった。戻れば撮影中の男と鉢合わせ、進めば何がいるか分からないダンジョンの奥へ向かう。選択肢は二つあるように見えて、まともな方は一つもなかった。
通路は緩く曲がりながら続いていた。黒い石の壁はところどころ湿っているが、床は乾いている。水門から入ったはずなのに水の気配はほとんど消え、代わりに乾いた土と石の匂いが濃くなっていた。
目の奥に残る薄い熱と、左腕の古傷に生じる感覚が、ここを普通の地下通路として扱うことを許さなかった。
しばらく進むと、前方の闇の見え方が変わった。
ライトの光が壁へ当たらず、そのまま奥へ吸い込まれていく。俺は足を止め、手首を動かして光を左右へ振った。
通路の先が、明らかに広い空間になっていた。急に壁が遠ざかり、天井も高くなっている。ライトでは奥まで照らし切れず、床は平らに見えるものの、中央付近だけ深く沈んだように暗かった。
ボス部屋。
その言葉が浮かんだ。
ただ広いだけの場所かもしれない。異常空間の途中に広間があっても、それだけで危険とは限らない。そう考えたかったが、ここはすでに水門の内部ではなく、俺は先ほどスライムを倒して核まで拾っている。
楽観できる材料はなかった。
俺は広間の手前で立ち止まり、ライトの向きを下げた。何も考えずに踏み込んでいい場所には見えない。通路の端へ身を寄せ、背後の音へ意識を向ける。
男の足音はまだ見えない位置にあるが、先ほどより確実に近い。しかも、歩調はほとんど変わっていなかった。
こっちは広間を前に足を止めているのに、後ろの男は観光地でも歩くような速度で近づいてくる。危機感をどこへ置いてきたのか、本気で聞きたくなった。
このまま顔を見られるのはまずい。
俺はリュックを下ろし、虫除け用に入れていた日除け帽子を取り出した。つばが広く、首元まで布が垂れ、顔の前へ薄いメッシュを下ろせるタイプだ。水辺や草むらで虫を避けるために買ったもので、ダンジョン内で顔を隠すために使うとは思っていなかった。
帽子をかぶってメッシュを下ろし、ヘッドライトの位置を調整する。視界は少し暗くなったが、足元を確認できないほどではない。
鏡がないため自分の姿は分からない。それでも、水門の奥で虫除け帽子をかぶり、無言で立っている男が相当に怪しいことだけは想像できた。
素顔を撮られるよりはましだった。
背後の足音が止まり、曲がり角の向こうでライトの光が揺れた。男はもう近い。
俺は広間の手前で壁際に立ったまま、声をかけるべきか考えた。来るなと警告すれば、会話が始まる。そうなれば、ここで何をしているのか、先ほどの音は何だったのか、なぜ顔を隠しているのかを聞かれるだろう。
答えられることは一つもなかった。
迷っている間に、男が曲がり角から姿を現した。
二十代後半から三十代ほどに見える。アウトドア用の服を着て、足元は長靴に近い靴。肩から虫捕り網のようなものを下げ、腰には小型のケースをつけている。胸元には小さなカメラがあり、片手にはライト付きの撮影機材を持っていた。
顔は興奮で少し紅潮している。
男はまず前方の広間へ目を向け、それから壁際にいる俺へ気づいた。
「うわっ、人いた!?」
それはこちらの台詞だった。
俺は声を出さず、壁際から男を見た。相手は驚いて一歩下がりかけたが、すぐに撮影機材をわずかに下げた。
「あ、すみません。撮影してますけど、顔は映さないようにします。えっと、もしかして探索者の方ですか?」
俺は答えなかった。
探索者ではなく、登録もしていない。ここが正式にダンジョンと認められた場所なのかも分からない。分かっているのは、俺がここでスライムを倒し、核らしきものを拾ったことだけだった。
沈黙が続くと、男は少し困ったように笑った。俺の顔を覆うメッシュへ目を向けた後、気まずそうに視線を外す。
「えーと……虫対策、ガチですね。いや、ここ、虫どころじゃないですけど」
なぜ和ませようとする。
会話を広げず、そのまま引き返してほしかった。だが、男は俺の沈黙を拒絶とは受け取らず、単に無口な先客だと判断したらしい。
視線はすでに俺から離れ、前方の広間へ向いていた。
「この先、広くなってます? ちょっとだけ見てもいいですかね。いや、すごいなこれ……」
止めるべきだった。
少なくとも、手を上げて制止するくらいはできたはずだ。
しかし、声を出せば録音される。腕を伸ばせば、相手と接触する距離になる。強く止めれば揉め、弱ければ無視されるかもしれない。相手はカメラを持ち、俺は顔を隠している。背後は一本道で、前方の広間には何がいるか分からない。
そんなことを考えた数秒の間に、男は俺の横を通り過ぎ、広間の入口へ近づいていた。
本人なりに警戒しているつもりなのだろう。ライトで足元を照らし、カメラの角度を調整している。それでも、ダンジョンへ踏み込んだ人間の動きには見えなかった。珍しい虫がいそうな場所を覗き込む時の慎重さでしかない。
「うわ、広っ。これ、マジで何なんだ……?」
男が広間へ一歩踏み入れた。
その瞬間、目の奥を強い熱が走った。
俺は反射的に天井を見上げた。
男は前方しか見ていない。広間の中央、床、壁、その先の暗がりへライトを向けたまま、上には意識を向けていなかった。
「上――」
声を出し切る前に、天井から巨大な塊が落ちてきた。
天井そのものが崩れたのではない。そこへ張りついていた半透明の生物が剥がれ、男の目の前へ落下したのだ。
先ほど倒したスライムを、そのまま何倍にも膨らませたような姿だった。薄い青緑色の身体がライトを受けてぬらりと光り、内部には大きく濁った核が浮かんでいる。
床へ叩きつけられた瞬間、広間全体を揺らすほどの重い衝撃音が響いた。
巨大なスライムが落ちたのは、男のほんの一歩前だった。あと少し進んでいれば、頭から身体の中へ取り込まれていたかもしれない。
床が震え、粘液状の身体が大きく波打つ。衝撃で飛び散った液体が、男の靴とズボンへかかった。
男は口を半開きにしたまま固まっていた。カメラもライトも巨大スライムへ向けたままで、先ほどまで興奮していた表情から、きれいに感情が抜け落ちている。
俺はメッシュの奥で顔をしかめた。
馬鹿が。
声に出していたら、たぶん怒鳴っていた。
巨大スライムの表面が、ゆっくりと波打つ。男のライトを受け、体内に浮かぶ濁った核が鈍く揺れた。
大きさは、人間一人を丸ごと包み込めそうなほどある。広間の天井から落ちてきたということは、俺たちが来る前から上に張りつき、下へ入ってくるものを待っていたのだろう。
男が、ようやく声を絞り出した。
「……ス、スライム?」
今さら確認している場合ではない。
俺は巨大スライムと男を交互に見た。助けるか、逃げるか、身を隠すか。複数の判断が同時に浮かんだが、考えをまとめる時間は与えられなかった。
巨大スライムは、すでに身体を動かし始めていた。
速くはない。それでも、目の前で動けずにいる男へ向かい、半透明の身体を確実に伸ばしている。
状況はまたしても最悪だった。
しかも今回は、巻き込まれているのが俺だけではなかった。