巨大スライムは、すぐには飛びかかってこなかった。
床へ落ちた衝撃で半透明の身体を大きく波打たせながら、広間の中央寄りから入口側へゆっくりと形を整えている。その幅も高さも、人間一人を包み込むには十分すぎた。
俺は、なぜ配信者へ直撃しなかったのかを考えた。
広間は二十メートル四方ほどあり、巨大スライムは中央付近の天井から入口近くへ落ちてきた。おそらく、広間へ踏み込んだ配信者を狙ったものの、わずかに距離が足りなかったのだ。
配信者はライト付きの撮影機材を握ったまま、目の前の巨大な塊を見つめていた。落下の衝撃で飛び散った薄い青緑色の液体が、靴の先へまとわりついている。身体はまだ動くはずなのに、本人はその場で固まっていた。
「え、いや、え? これ、本物……? いや、本物だよな。え、これ逃げた方がいいやつ……?」
逃げるべきに決まっている。
だが、俺は声を出さなかった。顔はメッシュで隠せても、声は撮影機材へ残る。胸元の小型カメラがどちらを向いているかも分からず、録音が続いている可能性もあった。
それでも、巨大スライムの身体はすでに配信者の足元へ伸び始めている。動きは遅いが、あの中へ取り込まれれば助からない。呼吸を塞がれるだけで済むのか、服や皮膚まで溶かされるのかも分からなかった。
ここで死なれると困る。カメラや音声が残り、行方不明になれば警察も動く。それ以前に、目の前で人間が飲み込まれるところを見ながら背を向けるほど、俺は割り切れていなかった。
俺は右手のトレッキングポールを握り直した。
広間を見つけた時点でリュックから外し、伸ばしてロックをかけてある。もとは水路や暗い通路で足元を確かめるための登山用品だが、先端のゴムキャップを外せば金属製の石突きが出る。
周囲の動きが、急に細かく見えた。
巨大スライムは配信者の足元へ身体を広げ、その内側では濁った球体が揺れている。先ほどの小型にもあった核だ。ただし、こちらは直径十五センチほどある。
落下の衝撃と、身体を前へ伸ばす体液の流れが重なり、普段は深い位置にあるはずの核が入口側へ寄っていた。
あそこなら届く。
左手がポールの先端へ動いた。ゴムキャップへ爪をかけ、ひねりながら引き抜く。焦っているはずなのに、指は震えず、必要な動作だけを正確にこなした。
露出した石突きが、ライトを受けて鈍く光る。
配信者がようやく一歩下がろうとした。しかし、靴底に絡みついた粘液へ足を取られる。
「あ、やば、靴が――」
俺は床を蹴った。
身体が前へ撃ち出され、黒い石の床が一気に後ろへ流れる。足裏が地面を捉え、沈んだ膝が次の一歩を押し出す。メッシュ越しの視界が揺れ、顔を覆う布へ風が当たった。
広間へ踏み込んだと意識した時には、配信者の横まで来ていた。
左肩で身体を押しのける。
「うわっ!?」
配信者が後ろへ倒れ込んだ。
巨大スライムの表面が遅れて膨らみ、今度はこちらへ反応する。だが、まだ動きが鈍い。落下直後で形を整えきれず、核も浅い位置にある。
最後の一歩で腰を落とし、トレッキングポールを両手で握った。足、腰、背中、肩、腕の動きが一本につながり、全身の勢いが石突きの一点へ集まっていく。
先端が半透明の身体へ突き刺さった。
水ともゼリーとも違う粘りがポールへ絡み、押し込む力を奪おうとする。腕だけで突いていれば、途中で止まっていただろう。
足が床を捉えたまま腰を前へ送り、肩と腕がその動きに続く。粘液が裂け、石突きがさらに奥へ進んだ。
濁った核が目の前へ迫る。
柔らかな身体に包まれているが、核そのものは硬い。それでも、正しい角度から一点へ力を集めれば割れると、見ただけで分かった。
甲高い音が広間に響いた。
石突きが核へ当たり、表面へ白い亀裂が走る。続いて、濁った球体が内側から砕けた。ガラスを割ったような音と、湿ったものを押し潰す音が重なる。
巨大スライムの身体が全体で震え、持ち上がった体液が支えを失ったように崩れた。
俺はポールを引き抜こうとしたが、まとわりついた粘液が離れない。無理に引いた瞬間、先端近くから嫌な音がして、軸が曲がった。
ポールを手放し、後ろへ跳ぶ。足元へ広がる体液を避け、乾いた床へ着地した。
巨大スライムはすでに形を保てなくなっていた。重い粘液となって床へ広がり、核が割れた場所から少しずつ薄くなっていく。量が多いため小型より時間はかかっていたが、再び形を作る様子はなかった。
配信者は尻餅をついたまま、こちらを見上げていた。顔は青ざめ、手から落ちた撮影機材が床へ転がっている。
胸元のカメラには、小さな赤い光が点いていた。
「……え、今、何が起きました?」
俺は黙ったまま、消えていく巨大スライムを見た。
走り、ポールを握り、核を突いたのは俺だ。しかし、あの踏み込みや角度、ためらいのなさまで、自分一人の動きだったとは思えなかった。
配信者は床と俺を何度も見比べ、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……助けてくれた、んですよね?」
少し迷ってから、短く頷いた。
「ありがとうございます……いや、ほんとに。今の、俺、普通に死んでましたよね?」
もう一度頷くと、配信者は乾いた笑いを漏らした。だが、その笑いはすぐに引きつった。足元へ残った粘液の跡を見て、ようやく自分がどれほど危険な場所へ踏み込んだのか理解したらしい。
俺は床へ転がる撮影機材を指差し、続けて胸元のカメラを示してから、首を横に振った。
「あ、撮影……そうですよね。止めます。止めます、今すぐ」
配信者は慌てて胸元のカメラを外し、震える指で操作した。床の撮影機材にも手を伸ばし、何度かボタンを押す。
「止めました。たぶん。いや、こういう時にたぶんって言うのもあれなんですけど……止めたと思います」
たぶん。
その一言で、腹の底が重くなった。
巨大スライムへ駆け寄り、トレッキングポールで核を砕いた場面が、すでに記録媒体へ残っている可能性がある。撮影を止めても、消去したことにはならない。
その間に、巨大スライムの身体はほとんど消えていた。床には砕けた核の一部と、拳より小さな結晶のようなものが残っている。小型のスライムが残したものより明らかに大きい。
配信者も、それに気づいた。
「……あれ、残ってますよね。ドロップってやつですか?」
俺は首を横に振った。知らないという意味だったが、正しく伝わったかは分からない。
それでも、配信者は残ったものへ近づかなかった。先ほどまでの無警戒さは、ようやく消えていた。
俺は曲がったトレッキングポールへ目を向けた。先端は消えかけた粘液の中に残り、石突きの周囲へ濁った核の破片が絡んでいる。登山用品として使える状態ではなかったが、あれがなければ配信者は助からなかっただろう。
助けたことで、安全になったわけではない。
相手が何者なのかも、どこまで撮影していたのかも分からない。俺をどう受け取ったのかも不明だった。巨大スライムを倒した結果、厄介ごとはむしろ増えている。
配信者は膝へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。先ほどまでの勢いは消えていたが、恐怖の中にはまだ興奮が残っている。広間と俺を交互に見ながら、遠慮がちに尋ねた。
「あの、俺、帰った方がいいですよね?」
俺は強く頷いた。
「ですよね。はい。帰ります。帰るんですけど……その、あなたは?」
答える代わりに、顔のメッシュ越しに男を見た。
巨大スライムは倒したが、それでこの広間の危険がなくなったとは限らない。入口まで戻れる保証もなく、残った核や結晶をどうするかも決めていない。さらに、撮影データの問題が残っている。
男は何か言いたそうに口を開いたが、結局そのまま閉じ、小さく頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
俺は通路の方を指差した。
帰れ、という意図は伝わったらしい。配信者は何度も頷き、床に落ちた撮影機材を抱え直した。今度は足元を確かめながら、来た道へ向かおうとしている。
俺は広間に残った結晶、曲がったトレッキングポール、男が抱えた二台のカメラを順番に見た。
この中で最も扱いに困るものは、核でも壊れた道具でもなかった。
撮影を止めたとしか確認できていない、二台のカメラだった。