寄生虫と行く現代ダンジョン   作:脳タリン

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第154話 未完了

 二層へ下りる石段は、途中から白い霧に覆われていた。

 

 足元の段差は見える。

 

 だが、十段ほど先になると輪郭が薄れ、その向こうに何があるのか分からない。

 

 亀山は前を行く正式五級の背中を画面の中央に置き、手すり代わりの岩壁へ左手を添えた。

 

「足元、滑ります」

 

 前方担当の声が下から届く。

 

「六人、います。そのまま進んでください」

 

 最後尾から深町が返した。

 

 亀山は振り返らなかった。

 

 前話の配信から見ている視聴者には、一層のボス部屋からそのまま二層へ移動しているように見える。実際には装備の交換と休憩を挟んでいるが、配信は途切れていない。

 

《霧すごいな》

 

《これ配信越しだと余計見えない》

 

《足元気をつけて》

 

《深町さんまだ後ろなんだ》

 

《六人確認》

 

 階段を下りきると、空間が横へ広がった。

 

 一層のような石造りの通路ではない。

 

 天井の高い洞窟だった。

 

 地面の大半を浅い水が覆い、ところどころに黒い岩が島のように突き出している。壁面には細長い結晶が伸び、霧の向こうで淡い青白い光を放っていた。

 

 水深は足首ほど。

 

 一見すると歩くのに困る深さではないが、水面の下には細かな石が多い。踏んだ場所によって足が沈み、靴底が横へ滑る。

 

「隊列を変更します」

 

 深町が前へ出た。

 

「前方担当、私、亀山さん、記録担当、審査員、後方担当。この層では前の確認を増やします」

 

「後ろは一人で大丈夫ですか?」

 

 亀山が尋ねる。

 

「霧で離れる方が危険です。距離を詰めてください。前の人の肩か装備が見えなくなったら、すぐに声を出してください」

 

「分かりました」

 

 深町は全員の位置を確認してから、前方担当の斜め後ろへ入った。

 

 二層の課程は、入口から中間地点まで進み、管理側が設置した標識を確認すること。

 

 指定された経路はある。

 

 ただし、一層より調査回数が少なく、敵性生物の分布も安定していない。通れることは確認されていても、同じ敵が同じ場所にいる保証はなかった。

 

「右の岩沿いを進みます」

 

 深町が進路を示す。

 

「中央は避けるんですか?」

 

「水面の揺れが見えません。岩沿いなら、少なくとも片側からは来ません」

 

 亀山はカメラを水面へ向けた。

 

 霧から落ちた細かな水滴が、無数の波紋を作っている。

 

 何かが水中を動いたとしても、見分けるのは難しそうだった。

 

《中央の方が歩きやすそうなのに》

 

《見えない水場は怖い》

 

《片側を壁で塞ぐのか》

 

《一層より慎重になってる》

 

 入口からしばらくは、接敵せずに進んだ。

 

 深町は数十歩ごとに止まり、足元と霧の動きを確認している。

 

 亀山には、白い霧の濃淡しか見えない。

 

 だが深町は、ときどき一方向を長く見たあと、進路を数メートルずらした。

 

「何か見えるんですか?」

 

「見えてはいません」

 

 深町は前を向いたまま答えた。

 

「霧が一定方向に流れている場所があります。大きな空間か、水路がある可能性があります」

 

「敵がいるかどうかも分かりますか?」

 

「そこまでは分かりません」

 

 分からないことを、分かるとは言わない。

 

 その返答にも、亀山は少し慣れてきた。

 

 二層最初の確認地点は、入口から二十分ほど進んだ場所にあった。

 

 岩壁へ打ち込まれた金属板と、その隣に置かれた小型の反射標識。

 

 記録担当者が位置と状態を確認する。

 

「標識、異常ありません。周囲に新しい損傷もなし」

 

 深町は水面へ目を向けたまま、うなずいた。

 

「確認終了後、三分休憩します」

 

「ここでですか?」

 

「壁を背にできます。次に同じ条件の場所があるとは限りません」

 

 亀山がカメラの残量を確認していると、水面の一部が不自然に盛り上がった。

 

 最初は、岩の陰から泡が出ただけに見えた。

 

 次の瞬間、泥色の頭部が水中から飛び出した。

 

「前、接敵!」

 

 前方担当が盾を構える。

 

 水中から現れたのは、太い尾を持つ蜥蜴型だった。

 

 体長は尾まで含めて二メートルほど。胴は低く、四本の脚が身体の横へ張り出している。濁った水と似た色をしており、頭だけを出している間はほとんど見分けがつかない。

 

 一体ではなかった。

 

 最初の個体の右側から二体。

 

 さらに左の岩陰から一体が姿を現す。

 

「四体」

 

 深町が短槍を構えた。

 

「亀山さん、記録担当と岩壁へ。審査員も下がってください」

 

「はい」

 

 亀山は後方へ動きながらカメラを向け続けた。

 

 蜥蜴型の一体が、水を蹴って前方担当へ突進する。

 

 盾へ頭部をぶつけ、そのまま口を開いた。

 

 噛みつくより先に、前方担当の短棒が上顎へ入る。

 

 頭が横へ流れた。

 

 深町が側面へ回り、短槍の穂先を前脚の内側へ差し込んだ。

 

 蜥蜴型の身体が沈む。

 

「一体、止めます。左を見てください」

 

 深町は倒しきらず、前方担当へ次の個体を示した。

 

 二体目が岩壁側へ回り込もうとしている。

 

 前方担当が盾を引き、進路を塞いだ。

 

 後方から来た三体目に対し、最後尾の正式五級が短槍を突き出す。

 

 水中から顎が伸びる。

 

 槍の柄を噛ませ、そのまま身体を捻った。

 

 蜥蜴型の頭部が横へ向いたところへ、石突きが眼窩の近くへ落ちる。

 

 四体目は、隊列の中央ではなく、倒れた一体の横を抜けて深町へ向かった。

 

 深町は槍を引き抜いた。

 

 蜥蜴型の口が開く。

 

 深町は正面から穂先を入れず、身体を半歩ずらした。

 

 噛みつきが脇を抜ける。

 

 首の付け根へ柄を当て、そのまま岩壁側へ押し込んだ。

 

「前方、二体目を」

 

「了解」

 

 深町が押さえた個体へ、前方担当が盾の縁を叩き込む。

 

 首が下がったところへ短槍が入った。

 

 最初に脚を傷つけた個体が、再び身体を起こそうとする。

 

 深町は足元の水の動きだけで気づいたらしい。

 

 振り返らずに槍の石突きを後方へ伸ばし、顎の下へ当てた。

 

 頭が上を向く。

 

 そのまま向きを変え、露出した喉元へ穂先を入れた。

 

 後方担当も、自分が受け持った一体を岩へ追い込み、動きを止める。

 

 最後の一体が逃げるように水中へ潜ろうとした。

 

「追わないでください」

 

 深町が止めた。

 

 前方担当が足を止める。

 

 蜥蜴型の尾が霧の中へ消えた。

 

「三体停止。一体離脱」

 

 記録担当者が告げる。

 

「全員、位置を維持してください。水中を確認します」

 

 深町はすぐに死骸へ近づかなかった。

 

 霧の奥と水面を見回し、追撃がないことを確認してから武器を下げる。

 

《四体いた》

 

《一体逃げたぞ》

 

《追わないのか》

 

《追ったら隊列崩れるだろ》

 

《水の中に入られたら見えない》

 

《深町さん後ろ見ずに当てた?》

 

《一層と違う敵でも普通に対応してる》

 

 亀山は三体の死骸を映した。

 

「逃げた一体は、そのままでいいんですか?」

 

「追う目的がありません」

 

 深町は短槍の刃を水で軽く流した。

 

「追えば岩沿いの隊列を崩します。水中で待たれていた場合、こちらが不利です」

 

「戻ってくる可能性は?」

 

「あります。休憩場所を変更します」

 

 深町は周囲を見回した。

 

「このまま五分進み、次の岩場で止まります」

 

《目的が討伐じゃないからな》

 

《三体倒して十分だろ》

 

《逃げた奴が仲間呼ぶとかある?》

 

《そういう可能性も含めて移動か》

 

 隊列はすぐに動き出した。

 

 戦闘で息が上がっている者はいない。

 

 それでも深町は、予定していた休憩を省かなかった。

 

 五分先にあった大きな岩場へ移り、全員の装備と呼吸を確認する。

 

 前方担当の予備盾には、蜥蜴型の牙が当たった浅い傷が残っていた。

 

「表面だけです。固定具にも異常ありません」

 

「継続できます」

 

 前方担当が答える。

 

「後方は?」

 

「問題ありません」

 

「亀山さんは?」

 

「大丈夫です」

 

 自分が聞かれることにも、亀山はもう驚かなかった。

 

 配信画面には、戦闘を振り返るコメントが流れている。

 

《二層でも戦えるのは分かった》

 

《一体逃がしたのがどう評価されるか》

 

《全部倒す試験じゃないって最初に言ってたぞ》

 

《判断が速い》

 

《ここまで一人も怪我してない》

 

 休憩が終わる直前、審査員が深町へ声をかけた。

 

「ここから状況を追加します」

 

 全員が審査員を見る。

 

「後方担当は、右足首を負傷したものとします。歩行は可能。ただし、走ることはできません」

 

 後方担当が短く返事をした。

 

「了解」

 

 深町は時刻を確認した。

 

「負傷の程度は固定ですか。悪化する想定はありますか」

 

「通常歩行を続ける限り、悪化なし。戦闘時も右足で強く踏み込むことはできません」

 

「分かりました」

 

 深町は後方担当の荷物を開いた。

 

 予備の水と採取容器を前方担当へ移す。救急用品は本人に残し、短槍もそのまま持たせた。

 

「武器は保持してください。中央へ移動します」

 

「後ろは誰が?」

 

「私が入ります」

 

 新しい隊列は、前方担当、亀山、負傷者役、記録担当、審査員、深町となった。

 

「亀山さんは、前との距離を二歩以内に。負傷者役が遅れた場合は、前方へ伝えてください」

 

「はい」

 

「負傷者役は右足で踏ん張らない。敵を倒す必要はありません。亀山さんと記録担当の間へ入れさせないことを優先してください」

 

「了解」

 

 記録担当者が変更後の配置を撮影する。

 

《負傷者想定来た》

 

《ここから試験らしくなった》

 

《深町さんが最後尾》

 

《荷物は減らすけど武器は持たせるんだな》

 

《完全に守られるだけにはしないのか》

 

 移動速度は明らかに落ちた。

 

 負傷者役は右足を庇い、左足を軸にして歩いている。

 

 演技ではある。

 

 それでも、全員が条件を本物として扱っていた。

 

 亀山も、自分の前だけでなく後ろの足音を意識するようになった。

 

 少し間隔が開けば、すぐに前方担当へ伝える。

 

「後ろ、少し遅れています」

 

「停止します」

 

 隊列が止まる。

 

 深町が最後尾から近づき、負傷者役の歩き方と装備のずれを確認する。

 

「右側の固定具が緩んでいます。止めます」

 

 腰の荷物を締め直し、再び進む。

 

 予定より遅れている。

 

 それでも、誰も急がなかった。

 

 二層の中間地点まで、残り三分の一ほど。

 

 進路は岩沿いから離れ、霧の濃い広場を横切る形になっていた。

 

 事前記録では、その先に細い石柱が並び、中央の一本へ確認標識が固定されている。

 

 亀山のカメラには、まだ何も映っていない。

 

 深町が突然、拳を上げた。

 

 全員が止まる。

 

「前方、水面に動き」

 

 霧の向こうで、波紋が広がっていた。

 

 一つではない。

 

 右から左へ。

 

 左から中央へ。

 

 複数の何かが、こちらの進路を横切っている。

 

「距離は?」

 

 前方担当が聞く。

 

「二十メートル前後。数は分かりません」

 

 深町は後ろを振り返った。

 

 来た道の霧にも、僅かな揺れがある。

 

「後方にも音があります」

 

 審査員が口を開きかけたが、深町は先に指示を出した。

 

「岩場まで戻ります」

 

「中間標識まで、もう近いはずです」

 

 亀山が思わず言った。

 

「近いからこそ、ここで止めます」

 

 深町の返答は早かった。

 

「隊列を反転。負傷者役を先に戻してください」

 

 前方担当が後方へ向きを変える。

 

 その瞬間、霧の中から低い影が飛び出した。

 

 一層で出た四足型とは違う。

 

 前脚が鎌のように長く、身体の後方に節のある尾を持っている。尾の先端には、黒い棘が伸びていた。

 

 一体。

 

 少し離れて二体目。

 

 さらに霧の奥にも、同じ高さの影が動いている。

 

「三体以上」

 

 深町が短槍を前へ出した。

 

「前方担当、先頭を一体だけ止めてください。突破しません。戻るための距離を作ります」

 

《また敵》

 

《標識すぐそこじゃないの?》

 

《何体いるんだ》

 

《後ろにも音してる》

 

《三体以上って言った?》

 

 最初の個体が跳んだ。

 

 前方担当が盾を斜めに構える。

 

 鎌状の前脚が盾の表面を削り、金属片が飛んだ。

 

 衝撃で前方担当の身体が半歩下がる。

 

「受け続けないでください」

 

 深町が横から短槍を入れた。

 

 刃先が脇腹へ当たるが、浅い。

 

 敵は身体を捻り、節のある尾を振った。

 

「尾!」

 

 深町の声に、前方担当が頭を下げる。

 

 黒い棘が盾の上を通り過ぎた。

 

 深町は穂先を引き、今度は尾ではなく後脚の関節を払った。

 

 敵の姿勢が崩れる。

 

「今、戻ってください」

 

 亀山はカメラを向けたまま後ろへ下がった。

 

 負傷者役が先に進む。

 

 記録担当と審査員が続く。

 

 二体目が霧から出た。

 

 前方担当を避け、隊列の横へ回ろうとする。

 

「負傷者役、右」

 

 深町の指示に、中央の正式五級が短槍を構えた。

 

 右足は使えない想定だ。

 

 左足を軸にして槍を伸ばし、敵の顔の前へ穂先を置く。

 

 刺しにいかない。

 

 近づけば当たる位置を保ち、亀山たちへ回り込ませない。

 

 敵が槍を避けて横へ動く。

 

 その間に距離が開いた。

 

《負傷者役も止めてる》

 

《右足使ってない》

 

《倒すんじゃなくて近づかせない》

 

《亀さん下がって》

 

 最初の個体が起き上がる。

 

 深町が再び前へ出た。

 

 前方担当と並び、二本の短槍で敵の進路を狭める。

 

「亀山さん、画面より足元を見てください」

 

「はい」

 

 亀山はカメラを胸の位置まで下げた。

 

 映像から敵の全身が外れる。

 

 それでも今回は、完全に足元だけにはならなかった。

 

 画面の上端に、盾と短槍が何度も入り、鎌状の脚がそれらへぶつかる様子が映っている。

 

 深町たちは敵を倒そうとしていない。

 

 前へ出れば押し返し、止まれば下がる。

 

 距離を保ちながら、隊列全体を岩場へ戻していく。

 

 霧の奥から三体目が姿を現した。

 

 さらにその後ろで、水面が動いている。

 

「数、増えます」

 

 前方担当が言った。

 

「見えています。後退を継続」

 

「一体、仕留めた方が追跡を減らせます」

 

「止まれば後ろから来ます」

 

 深町は短く答えた。

 

 来た道の方からも、石を擦る音が近づいていた。

 

 何がいるかは見えない。

 

 前方の三体を処理している間に、後ろから挟まれる可能性がある。

 

「岩場まで十五メートル」

 

 記録担当者が距離を告げる。

 

「負傷者役と亀山さんから先に入ってください」

 

 亀山は前方担当の横を抜けた。

 

 岩場が霧の中から現れる。

 

 壁際へ身体を寄せれば、左右と背後の一部を岩で塞げる。

 

 負傷者役が先に入り、記録担当者と審査員が続いた。

 

 前方担当が盾を向けたまま下がる。

 

 深町は最後まで外側に残った。

 

 一体が飛び込んでくる。

 

 鎌状の前脚を槍の柄で外へ流し、身体の横を通過させる。

 

 倒れかけた敵の背を蹴り、霧の中へ押し戻した。

 

「前方担当、入ってください」

 

「深町さんは?」

 

「続きます」

 

 前方担当が岩場へ下がる。

 

 深町も後退し、入口に立った。

 

 三体の敵性生物は追ってきたが、岩と壁に囲まれた狭い場所へ一度に入ることはできない。

 

 先頭の一体だけが前へ出る。

 

「ここでは戦いません」

 

 深町が言った。

 

「左奥に退路があります。順番に移動します」

 

《まだ戻るのか》

 

《ここなら一体ずつ倒せそう》

 

《後ろの音が何か分からない》

 

《留まったら挟まれるってことか》

 

《標識もう近かったのに》

 

《試験失敗になる?》

 

 左奥の細い通路へ、負傷者役から入る。

 

 亀山も続いた。

 

 背後では、盾へ硬いものが当たる音が続いている。

 

 深町と前方担当が交互に下がりながら、追跡を止めていた。

 

 細い通路へ入ると、敵性生物の数の利点が消えた。

 

 先頭の一体しか近づけない。

 

 前方担当が盾で押し返し、深町が足元へ短槍を伸ばす。

 

 進路を阻まれた敵は何度か追おうとしたが、やがて霧の中へ戻っていった。

 

「追跡、止まりました」

 

 前方担当が息を吐く。

 

「まだ止まらないでください」

 

 深町は振り返った。

 

「入口側まで戻ります。休憩は一層のボス部屋で取ります」

 

 それからは、一度も戦闘にならなかった。

 

 深町は往路で避けた広場を通らず、岩沿いの経路を選び直した。

 

 負傷者役の歩調に合わせ、何度も隊列を止める。

 

 逃げた蜥蜴型が戻ってくる可能性もあったが、姿は見せなかった。

 

 二層入口の階段が霧の中から現れた時、コメント欄に安堵の言葉が増えた。

 

《階段見えた》

 

《戻ってきた》

 

《全員いる?》

 

《負傷者役もいる》

 

《ここから一層か》

 

「人数を確認します」

 

 深町が階段の前で振り返った。

 

「一」

 

「二」

 

「三」

 

「四」

 

「五」

 

 亀山も声を出した。

 

「六」

 

 深町はうなずいた。

 

「上がります」

 

 一層のボス部屋へ戻るまで、誰も口数を増やさなかった。

 

 石段を上りきると、二層の冷たい霧が背後へ遠ざかる。

 

 甲虫型の死骸が残る広間で、ようやく深町が休憩を指示した。

 

 負傷者役の条件も、そこで解除された。

 

「右足首の負傷想定、終了します」

 

 審査員が告げる。

 

 正式五級は両足へ均等に体重を戻し、軽く足首を回した。

 

「異常ありません」

 

 亀山は壁際へ座り、ようやくカメラを持ち直した。

 

 コメント欄は、撤退判断を巡って二つに割れていた。

 

《あそこまで行ったなら標識見て帰れたんじゃないか》

 

《三体くらいなら倒せただろ》

 

《後ろの数が分からないって言ってたぞ》

 

《負傷者想定もいた》

 

《ボス倒せる班なのに慎重すぎない?》

 

《倒せるのと戦っていいのは別だろ》

 

《課程未完了なら不合格?》

 

《全員無傷で帰ってる》

 

 深町はコメントを見ていない。

 

 装備の確認を終えると、審査員の前へ立った。

 

「報告します」

 

「どうぞ」

 

「二層中間標識には未到達。前方に鎌状前肢と尾棘を持つ敵性生物を三体確認。霧内に追加個体と思われる水面変動あり。後方にも未確認の接触音がありました」

 

「三体は処理可能だったと思いますか」

 

「確認した三体だけなら、可能だったと思います」

 

「前方担当の盾は使用可能。候補者を含む三人に戦闘継続可能な余力があり、負傷者は想定上のものです。それでも撤退した理由は?」

 

「確認できていない数を、戦力へ含められないからです」

 

 深町は淡々と答えた。

 

「標識まで進んだ場合、前方の個体を処理する必要があります。その間、後方から接触された場合に、負傷者役、配信担当、記録担当、審査員を守りながら隊列を反転させるのは難しいと判断しました」

 

「審査員が戦闘介入する可能性は考えませんでしたか」

 

「審査員を戦力として計算する前提ではありません」

 

「負傷想定を解除するよう求める選択肢は?」

 

「想定を解除しなければ帰れない状況ではありませんでした。解除を求めて課程を続ける必要もありません」

 

 審査員は端末へ記録した。

 

「中間標識は、見えていましたか」

 

「霧の向こうに反射光を確認しました。標識である可能性は高いと思います」

 

「あとどの程度の距離だったと考えますか」

 

「三十メートル前後です」

 

 コメント欄が再び速く流れた。

 

《見えてたのか》

 

《あと三十メートル》

 

《それで帰ったのすごいな》

 

《俺なら行きたくなる》

 

《試験だから余計に行きたいだろ》

 

《不合格になったらどうするんだ》

 

 審査員が最後に尋ねた。

 

「課程を完了できなかったことについては?」

 

「私の判断です」

 

 深町は答えた。

 

「未完了として報告します」

 

「分かりました。審査結果は、これまでの活動記録と本日の映像を合わせて判断します」

 

「了解しました」

 

 合否について、それ以上のやり取りはなかった。

 

 帰還後、管理区域へ戻るまで配信は続いた。

 

 亀山は入口を出たところで、改めてカメラを自分へ向けた。

 

「全員、怪我なく戻りました」

 

《おかえり》

 

《亀さんも無事》

 

《深町さんたちも無傷》

 

《結局合否は後日か》

 

《未完了でも受かってほしい》

 

《四級って強さだけじゃないのは分かった》

 

《逃げたんじゃなくて帰る判断したんだな》

 

《三十メートルを残せるかどうかか》

 

 亀山はコメントを読みながら、二層で見えた光を思い出した。

 

 霧の奥にあった標識。

 

 あと少し進めば、課程は完了していた。

 

 深町たちなら、目の前にいた三体を倒せた可能性も高い。

 

 一層のボスを倒した戦闘を見たあとなら、視聴者がそう思うのも分かる。

 

 亀山自身も、あの場では少しだけ考えた。

 

 ここまで来たのだから、標識を確認してから戻れないかと。

 

 だが深町は、迷わなかった。

 

「今日の配信で、四級の審査がどういうものか、少しは伝わったと思います」

 

 亀山はカメラへ話しかけた。

 

「一層ではボスまで倒しました。でも、二層では目標を残して戻りました。どちらが評価されるかは、自分にも分かりません」

 

《両方見るんだろ》

 

《戦えるのは一層で分かった》

 

《引き返せるかを見る試験だったのかも》

 

《全員戻す方が大事》

 

《でも課程未完了は気になる》

 

「結果は後日、公式から発表されます」

 

 亀山は少し間を置いた。

 

「自分としては、またこうして現場へ戻り、最後まで配信を続けられたことにほっとしています。見ていただいて、ありがとうございました」

 

《お疲れ》

 

《戻ってきてくれてよかった》

 

《次も無理せず》

 

《亀さんも一歩進んだな》

 

《深町さんの結果待ってる》

 

 配信終了の表示が出た。

 

 画面からコメントが消える。

 

 亀山はカメラを下ろし、肩の力を抜いた。

 

 制度側の記録担当者は、すぐに保存映像の確認を始めている。

 

 深町は装備を返却する前に、前方担当と後方担当から気づいた点を聞き取っていた。

 

 試験が終わったからといって、急に候補者らしい顔をするわけでもない。

 

 亀山は自分の映像を開いた。

 

 二層で最初に戦った蜥蜴型。

 

 負傷者役を中央へ移した場面。

 

 霧の中から鎌状の脚が現れた瞬間。

 

 そして、標識を確認せず隊列を反転させたところ。

 

 派手な映像だけなら、一層のボス戦の方がはるかに多い。

 

 けれど審査側が長く確認するのは、二層で引き返した場面なのだろう。

 

 強いことを見せるなら、戦えばいい。

 

 目標を残して帰る判断は、戦える人間にしかできない。

 

 亀山は映像を止めた。

 

 画面には、霧の向こうに見えていた小さな反射光が残っていた。

 

 届かなかったのではない。

 

 届く前に、戻ると決めた。

 

 その違いが四級に必要なのかどうかは、これから国側が決めることだった。

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