寄生虫と行く現代ダンジョン   作:脳タリン

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第17話 脚音

階段の一段目へ足をかけた瞬間、空気が変わった。

 

 上の広間も十分に異常だった。水門の奥にあるはずのない黒い石の通路、二十メートル四方はありそうな広間、天井から落ちてきた巨大スライム、宝箱、ポーションらしき瓶。どれも普通という言葉からは遠い。

 

 だが、階段の下から上がってくる空気は、それまでとは質が違っていた。

 

 冷たく乾き、砂や乾いた殻を思わせる匂いが混じっている。何かの死骸を長い時間をかけて乾かしたような、薄く鼻の奥へ残る匂いだった。

 

 俺は一度足を止めた。

 

 帰るなら今だった。

 

 ポケットには、床から拾った黒い石を三つ入れてある。曲がったトレッキングポールは右手に持っていたが、武器として頼れる状態ではない。杖か、せいぜい距離を測るための棒だった。

 

 それでも、何も持たずに進むよりはましだった。

 

 階段は狭く、黒い石の壁と天井が近い。水門から入ったはずなのに水音は聞こえず、上の広間からも配信者の声は届かなかった。残っているのは、自分の足音と服が壁へ擦れる音だけだった。

 

 十段ほど下りたところで、階段の先に通路が見えた。

 

 上と同じ黒い石で作られているが、天井は低く、壁の質感も違う。水に削られたような滑らかさはなく、表面には細かな凹凸があった。

 

 ライトを向けると、無数の小さな影が浮かび上がる。

 

 最初は石の模様かと思った。だが、壁のくぼみの中に、細い脚のようなものが見えた気がした。

 

 俺はライトを止めた。

 

 影は動かない。岩の亀裂にも、虫の脚にも見える。判別できないまま近づくことが、一番不安だった。

 

 少しだけ確認し、敵がいれば引き返す。

 

 そう決めて、階段から通路へ出た。

 

 床は乾き、上のスライムが残した粘液のような滑りはない。だが、一歩進むたび、どこかで小さく音がした。

 

 かさり、と乾いた紙を擦るような音だった。細い脚が石を叩いているようにも聞こえる。

 

 通路はまっすぐ続き、左右の壁には浅い横穴がいくつも開いていた。人が入れる大きさではなく、腕一本が通るかどうかという細い穴だった。

 

 覗き込む気にはなれなかった。

 

 その時、正面の闇から何かが飛んできた。

 

 反射的に身を引くと、ライトの中へ細長い影が入った。

 

 蚊に似ていた。

 

 ただし、体長は五十センチほどある。前方へ針のような口器を伸ばし、透明な羽を高速で震わせ、細い脚を垂らしたまま真っすぐこちらへ向かってきた。

 

 俺はポケットの石を握った。

 

 考えるより先に腕が動く。

 

 石はほとんど弧を描かず、一本の線を引くように飛んだ。蚊型の胴体へ命中し、乾いた殻を砕く音が響く。

 

 羽音が途切れ、モンスターは床へ落ちた。脚を数回痙攣させた後、動かなくなる。

 

 倒せた。

 

 だが、達成感より先に気味の悪さがきた。

 

 偶然ではない。俺は当たると思って投げ、実際に狙った場所へ当てた。

 

 床へ落ちた死骸から黒っぽい液体が滲んでいる。核らしきものは見当たらず、身体も消えなかった。上のスライムより、ずっと生き物らしい死に方だった。

 

 もう一つ石を拾おうとした時、右側の壁から音がした。

 

 ライトを向ける。

 

 体長一メートルほどのムカデが、壁を這っていた。

 

 太い胴へ赤黒い脚が密集し、頭部には大きな牙がある。その先端が濡れたように光っていた。

 

 毒があるのかもしれない。根拠はなかったが、噛まれて確かめる気はなかった。

 

 動きは速くないものの、頭は真っすぐこちらを向いている。無数の脚が石を叩き、身体の大きさに似合わないほどはっきりした音を立てていた。

 

 俺は曲がったトレッキングポールを左手へ持ち替え、拾った石を右手で投げた。

 

 狙ったのは頭ではなく、そのすぐ後ろにある胴の節だった。

 

 石が節の間へ当たり、ムカデの身体が壁から剥がれ落ちる。胴の一部が潰れ、脚が激しく暴れた。

 

 まだ生きているが、まともには動けない。

 

 近づかず、もう一つ拾った石を頭部へ投げる。硬い音が響き、ムカデの動きが止まった。

 

 一匹ずつなら対処できる。

 

 そう考えた直後、左側の横穴から別のものが滑り出した。

 

 細長い胴から、異様に長い脚が無数に伸びている。体長は一メートルほどで、巨大なゲジゲジとしか呼びようがなかった。

 

 ムカデより胴は薄く、装甲も弱そうに見える。その代わり、動きが速い。床を走るというより、石の表面を流れるように迫ってきた。

 

 俺は後ろへ下がりながら石を握る。

 

 投げるには近く、手や足で払うには危険すぎる。細い牙も見えた。

 

 石を放つと、ゲジゲジは横へ跳ねるように動いた。完全には避けられず、長い脚の何本かが弾け飛んだが、勢いは止まらない。

 

 俺はトレッキングポールを横へ振った。

 

 曲がった先端が進路へ入り、ゲジゲジの身体が一瞬だけ乱れる。その隙にもう一つ石を投げ、胴体の中央へ当てた。

 

 湿ったものを叩き潰す音が響き、ゲジゲジの身体が途中で千切れた。前半分が床を滑り、残った後半分では長い脚がばらばらに動き続けていた。

 

 俺は喉の奥まで込み上げたものをこらえた。

 

 俺が強くなったのか、この階層の個体が弱いのかは判断できない。それでも、小型のモンスターなら、今の投石だけで十分な凶器になる。

 

 狙った場所へ飛び、以前とは比べものにならない力が乗る。

 

 その時、通路のあちこちから音が増え始めた。

 

 かさり、かさりと重なり、すぐに乾いた脚音の連続へ変わる。

 

 通路の奥、左右の横穴、天井近くの亀裂。ライトの届く範囲だけでも、いくつもの影が動いていた。

 

 蚊型の羽音、ムカデの胴が壁を擦る音、ゲジゲジの長い脚が床を走る音。三匹や四匹ではなく、少なくとも十匹以上いる。光の届かない奥には、さらに多く潜んでいるはずだった。

 

 このまま進めば処理しきれない。

 

 一匹ずつなら倒せる。石も床から拾えるし、動きも追える。

 

 だが、壁、床、天井から毒を持つかもしれない虫型が同時に来れば、すべてを投石で落とすことはできない。今の俺には、そこまでの余裕はなかった。

 

 俺は踵を返した。

 

 階段へ戻るため、足元を確かめながら後退する。横穴だけに意識を向ければ正面を見失う。天井を警戒すれば、床を走るものへの反応が遅れる。

 

 背後で音が増えた。

 

 群れのすべてではないが、数匹が追ってきていた。

 

 右側の横穴からゲジゲジが飛び出す。

 

 拾った石を投げると、胴へ当たり、長い脚が散った。

 

 続けて、天井付近から蚊型が降りてくる。手元に石は残っていない。俺は横へ踏み込み、口器を避けながらトレッキングポールを振った。

 

 先端が羽へ当たり、飛行の軌道が崩れる。

 

 床へ落ちたところを、そのまま靴で踏み潰した。

 

 硬い殻と柔らかい中身を同時に押し潰す感触が、靴底へ残った。

 

 階段の手前には、別のムカデがいた。

 

 いつの間に回り込んだのか分からない。頭を持ち上げ、牙を開いて進路を塞いでいる。

 

 俺は足元の石を拾い、ほとんど反射のまま投げた。

 

 石は頭部へ当たり、牙ごと砕く。ムカデは階段の端で激しく痙攣したが、その脇に人一人分の道が開いた。

 

 俺は階段へ飛び込んだ。

 

 上へ向かって駆け上がる間も、背後では虫の音が続いていた。だが途中から、乾いた脚音は少しずつ遠ざかっていく。

 

 追ってこないのか、階段を越えられないのかは分からない。振り返って確かめる気にはなれなかった。

 

 息を抑えながら上り続け、広間へ戻ったところでようやく速度を落とした。

 

 噛まれても、刺されてもいない。目立った傷もない。

 

 それでも背中には冷たい汗が張りついていた。

 

 身体能力が上がったことは間違いない。だが、少し戦えるようになったからこそ、退く判断が遅れかけた。

 

 俺は階段を見下ろした。

 

 下から虫の音は届かず、暗闇は何もいないように静まっている。だが、少し下りただけで、あれだけの個体がいた。奥へ進めば、数も種類も増える可能性が高い。

 

 一人で踏み込んでよい場所ではなかった。

 

 俺は階段から離れ、帰ることにした。

 

 広間を抜け、来た通路へ戻る。リュックの中で、拾った核らしき結晶と瓶がわずかに揺れた。右手のトレッキングポールは曲がったまま重く、ポケットには使わなかった石が一つだけ残っている。

 

 使い切る前に戻れた。

 

 最後の一つまで必要になる状況へ追い込まれていたら、生きて帰れなかったかもしれない。

 

         ◇

 

 戸張の足音が階段から遠ざかっていく。

 

 その後、下層の通路の端で、白いものが一つ、床へ落ちていた。

 

 糸の切れ端にも、濡れた小さな虫にも見えるものだった。しばらくは動かなかったが、やがて、ぴくりと身じろぎする。

 

 近くには、胴を千切られたゲジゲジの死骸が残っていた。割れた殻の隙間から、黒い体液が滲んでいる。

 

 白いものは迷う様子もなく死骸へ近づき、その傷口から内側へ滑り込んだ。

 

 数秒後、動くはずのない脚が一本だけ持ち上がった。

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