階段の一段目へ足をかけた瞬間、空気が変わった。
上の広間も十分に異常だった。水門の奥にあるはずのない黒い石の通路、二十メートル四方はありそうな広間、天井から落ちてきた巨大スライム、宝箱、ポーションらしき瓶。どれも普通という言葉からは遠い。
だが、階段の下から上がってくる空気は、それまでとは質が違っていた。
冷たく乾き、砂や乾いた殻を思わせる匂いが混じっている。何かの死骸を長い時間をかけて乾かしたような、薄く鼻の奥へ残る匂いだった。
俺は一度足を止めた。
帰るなら今だった。
ポケットには、床から拾った黒い石を三つ入れてある。曲がったトレッキングポールは右手に持っていたが、武器として頼れる状態ではない。杖か、せいぜい距離を測るための棒だった。
それでも、何も持たずに進むよりはましだった。
階段は狭く、黒い石の壁と天井が近い。水門から入ったはずなのに水音は聞こえず、上の広間からも配信者の声は届かなかった。残っているのは、自分の足音と服が壁へ擦れる音だけだった。
十段ほど下りたところで、階段の先に通路が見えた。
上と同じ黒い石で作られているが、天井は低く、壁の質感も違う。水に削られたような滑らかさはなく、表面には細かな凹凸があった。
ライトを向けると、無数の小さな影が浮かび上がる。
最初は石の模様かと思った。だが、壁のくぼみの中に、細い脚のようなものが見えた気がした。
俺はライトを止めた。
影は動かない。岩の亀裂にも、虫の脚にも見える。判別できないまま近づくことが、一番不安だった。
少しだけ確認し、敵がいれば引き返す。
そう決めて、階段から通路へ出た。
床は乾き、上のスライムが残した粘液のような滑りはない。だが、一歩進むたび、どこかで小さく音がした。
かさり、と乾いた紙を擦るような音だった。細い脚が石を叩いているようにも聞こえる。
通路はまっすぐ続き、左右の壁には浅い横穴がいくつも開いていた。人が入れる大きさではなく、腕一本が通るかどうかという細い穴だった。
覗き込む気にはなれなかった。
その時、正面の闇から何かが飛んできた。
反射的に身を引くと、ライトの中へ細長い影が入った。
蚊に似ていた。
ただし、体長は五十センチほどある。前方へ針のような口器を伸ばし、透明な羽を高速で震わせ、細い脚を垂らしたまま真っすぐこちらへ向かってきた。
俺はポケットの石を握った。
考えるより先に腕が動く。
石はほとんど弧を描かず、一本の線を引くように飛んだ。蚊型の胴体へ命中し、乾いた殻を砕く音が響く。
羽音が途切れ、モンスターは床へ落ちた。脚を数回痙攣させた後、動かなくなる。
倒せた。
だが、達成感より先に気味の悪さがきた。
偶然ではない。俺は当たると思って投げ、実際に狙った場所へ当てた。
床へ落ちた死骸から黒っぽい液体が滲んでいる。核らしきものは見当たらず、身体も消えなかった。上のスライムより、ずっと生き物らしい死に方だった。
もう一つ石を拾おうとした時、右側の壁から音がした。
ライトを向ける。
体長一メートルほどのムカデが、壁を這っていた。
太い胴へ赤黒い脚が密集し、頭部には大きな牙がある。その先端が濡れたように光っていた。
毒があるのかもしれない。根拠はなかったが、噛まれて確かめる気はなかった。
動きは速くないものの、頭は真っすぐこちらを向いている。無数の脚が石を叩き、身体の大きさに似合わないほどはっきりした音を立てていた。
俺は曲がったトレッキングポールを左手へ持ち替え、拾った石を右手で投げた。
狙ったのは頭ではなく、そのすぐ後ろにある胴の節だった。
石が節の間へ当たり、ムカデの身体が壁から剥がれ落ちる。胴の一部が潰れ、脚が激しく暴れた。
まだ生きているが、まともには動けない。
近づかず、もう一つ拾った石を頭部へ投げる。硬い音が響き、ムカデの動きが止まった。
一匹ずつなら対処できる。
そう考えた直後、左側の横穴から別のものが滑り出した。
細長い胴から、異様に長い脚が無数に伸びている。体長は一メートルほどで、巨大なゲジゲジとしか呼びようがなかった。
ムカデより胴は薄く、装甲も弱そうに見える。その代わり、動きが速い。床を走るというより、石の表面を流れるように迫ってきた。
俺は後ろへ下がりながら石を握る。
投げるには近く、手や足で払うには危険すぎる。細い牙も見えた。
石を放つと、ゲジゲジは横へ跳ねるように動いた。完全には避けられず、長い脚の何本かが弾け飛んだが、勢いは止まらない。
俺はトレッキングポールを横へ振った。
曲がった先端が進路へ入り、ゲジゲジの身体が一瞬だけ乱れる。その隙にもう一つ石を投げ、胴体の中央へ当てた。
湿ったものを叩き潰す音が響き、ゲジゲジの身体が途中で千切れた。前半分が床を滑り、残った後半分では長い脚がばらばらに動き続けていた。
俺は喉の奥まで込み上げたものをこらえた。
俺が強くなったのか、この階層の個体が弱いのかは判断できない。それでも、小型のモンスターなら、今の投石だけで十分な凶器になる。
狙った場所へ飛び、以前とは比べものにならない力が乗る。
その時、通路のあちこちから音が増え始めた。
かさり、かさりと重なり、すぐに乾いた脚音の連続へ変わる。
通路の奥、左右の横穴、天井近くの亀裂。ライトの届く範囲だけでも、いくつもの影が動いていた。
蚊型の羽音、ムカデの胴が壁を擦る音、ゲジゲジの長い脚が床を走る音。三匹や四匹ではなく、少なくとも十匹以上いる。光の届かない奥には、さらに多く潜んでいるはずだった。
このまま進めば処理しきれない。
一匹ずつなら倒せる。石も床から拾えるし、動きも追える。
だが、壁、床、天井から毒を持つかもしれない虫型が同時に来れば、すべてを投石で落とすことはできない。今の俺には、そこまでの余裕はなかった。
俺は踵を返した。
階段へ戻るため、足元を確かめながら後退する。横穴だけに意識を向ければ正面を見失う。天井を警戒すれば、床を走るものへの反応が遅れる。
背後で音が増えた。
群れのすべてではないが、数匹が追ってきていた。
右側の横穴からゲジゲジが飛び出す。
拾った石を投げると、胴へ当たり、長い脚が散った。
続けて、天井付近から蚊型が降りてくる。手元に石は残っていない。俺は横へ踏み込み、口器を避けながらトレッキングポールを振った。
先端が羽へ当たり、飛行の軌道が崩れる。
床へ落ちたところを、そのまま靴で踏み潰した。
硬い殻と柔らかい中身を同時に押し潰す感触が、靴底へ残った。
階段の手前には、別のムカデがいた。
いつの間に回り込んだのか分からない。頭を持ち上げ、牙を開いて進路を塞いでいる。
俺は足元の石を拾い、ほとんど反射のまま投げた。
石は頭部へ当たり、牙ごと砕く。ムカデは階段の端で激しく痙攣したが、その脇に人一人分の道が開いた。
俺は階段へ飛び込んだ。
上へ向かって駆け上がる間も、背後では虫の音が続いていた。だが途中から、乾いた脚音は少しずつ遠ざかっていく。
追ってこないのか、階段を越えられないのかは分からない。振り返って確かめる気にはなれなかった。
息を抑えながら上り続け、広間へ戻ったところでようやく速度を落とした。
噛まれても、刺されてもいない。目立った傷もない。
それでも背中には冷たい汗が張りついていた。
身体能力が上がったことは間違いない。だが、少し戦えるようになったからこそ、退く判断が遅れかけた。
俺は階段を見下ろした。
下から虫の音は届かず、暗闇は何もいないように静まっている。だが、少し下りただけで、あれだけの個体がいた。奥へ進めば、数も種類も増える可能性が高い。
一人で踏み込んでよい場所ではなかった。
俺は階段から離れ、帰ることにした。
広間を抜け、来た通路へ戻る。リュックの中で、拾った核らしき結晶と瓶がわずかに揺れた。右手のトレッキングポールは曲がったまま重く、ポケットには使わなかった石が一つだけ残っている。
使い切る前に戻れた。
最後の一つまで必要になる状況へ追い込まれていたら、生きて帰れなかったかもしれない。
◇
戸張の足音が階段から遠ざかっていく。
その後、下層の通路の端で、白いものが一つ、床へ落ちていた。
糸の切れ端にも、濡れた小さな虫にも見えるものだった。しばらくは動かなかったが、やがて、ぴくりと身じろぎする。
近くには、胴を千切られたゲジゲジの死骸が残っていた。割れた殻の隙間から、黒い体液が滲んでいる。
白いものは迷う様子もなく死骸へ近づき、その傷口から内側へ滑り込んだ。
数秒後、動くはずのない脚が一本だけ持ち上がった。