階段から離れた後、俺は広間を振り返らなかった。
宝箱、さらに下へ続く階段、巨大スライムが残した核らしき結晶。今日見つけたものだけで十分すぎる。これ以上進む理由があるとすれば好奇心だけで、今の俺にとっては、それこそが最も危険な不安要素だった。
来た道を引き返す。
黒い石の通路は静まり返っていた。下層で聞いた虫の脚音が耳に残っているせいか、何も聞こえないことがかえって不気味だった。壁の亀裂、床の凹凸、天井に落ちる影。ライトを動かすたび、どこかから虫型のモンスターが飛び出してくるような気がしたが、実際には何も現れなかった。
小型スライムの跡も、巨大スライムが広げた粘液も、ほとんど残っていない。ダンジョンの中で倒されたものは、時間が経つと消えるらしい。死骸も血も臭いも、少しずつなかったことにされていく。
背負ったリュックが重かった。
中には、巨大スライムが残した灰色の結晶、濁った核片、小さな瓶、砕いた記録カードが入っている。曲がったトレッキングポールも、リュックへ固定していた。どれも人に説明できないものばかりだった。
ここで処分するという選択肢もある。だが、置いていく気にはなれなかった。配信者のような人間が再び入ってくれば、消える前に見つけられるかもしれない。そもそも、外から持ち込んだ道具までダンジョンに吸われるように消えるのかは分からなかった。
水門へ続く横道が近づくにつれ、空気に湿り気が戻ってきた。黒い石と乾いた土の匂いが薄れ、苔、錆びた鉄、古い水の匂いへ変わっていく。
それだけで、少し現実へ近づいたような気がした。
実際には、何一つ解決していない。俺は未確認のダンジョンへ入り、配信者を助け、巨大スライムを倒し、虫型のモンスターが群れる下層を見つけ、正体不明の品を持ち帰ろうとしている。
日常へ戻るには、背中の荷物が重すぎた。
横道を抜けると、コンクリートの壁が現れた。水門内部の狭い足場、浅い水の流れ、天井から落ちる水滴の音。見た目だけなら普通の治水設備だった。
だが、もう以前と同じ場所には見えない。この先に黒い通路があり、さらに数十メートル進めば、巨大スライムのいた広間と虫だらけの下層がある。外から見れば、ただの水門にしか見えない場所に。
出口から入る光は、すでに昼間の白さを失っていた。赤みを帯びた灰色の光が、水面を鈍く照らしている。
開口部の手前で一度止まり、顔のメッシュが下りていることを確認した。手袋も外していない。暗い色の服のおかげで汚れは目立ちにくいが、近くで見られれば不自然さまでは隠せない。
今さらではあった。
外へ出ると、急に空間が広がった。
川と草の匂い、遠くを走る車、堤防を通る自転車のブレーキ音。何もかもが普段通りで、その落差に足元がわずかに揺れるような感覚があった。
水門から少し離れた草地に、先ほど別れたはずの配信者がいた。
男はコンクリートの斜面から離れた場所へしゃがみ込み、膝へ肘を載せている。撮影機材はバッグへしまわれ、虫捕り網も畳んで横に置かれていた。
こちらに気づくと、弾かれたように立ち上がる。
「あの、待ってました」
俺は足を止め、すぐに周囲を確認した。
堤防の上には人影があるが、こちらを見ている様子はない。警察や自治体の車も来ていなかった。少なくとも、すでに誰かを呼んだわけではなさそうだった。
男は誤解されたと思ったのか、慌てて両手を上げた。
「あ、まだ連絡してません。してないです。というか、先にあなたに言っておいた方がいいと思って。いや、あなたに許可を取る話なのかは分からないんですけど、何も言わずに通報したら、それはそれでまずい気がして」
相変わらず言葉は多い。
ただし、ダンジョン内で見せていた軽さは薄れていた。顔色はまだ悪いものの、目つきは少し落ち着いている。自分が死にかけたことと、あの場所を放置する危険を、ようやく別々に考えられるようになったらしい。
「最初は、そのまま帰ろうと思ったんです。正直、怖かったんで。でも、あれを放置したら、また誰か入りますよね。俺みたいな馬鹿が。いや、俺より馬鹿なやつも来るかもしれないですし、子供とかが入ったら本当にまずいですし」
俺は黙って男を見た。
子供の好奇心と言われると、昔の自分を思い出す。その記憶をきっかけに暗渠へ入ったことを考えれば、俺も大差はなかった。
それにしても、こいつは自然な流れで俺まで馬鹿の中へ含めていないか。
一瞬だけ、肩を掴んだ時よりも強く握ればよかったかという考えが浮かんだが、もちろん実行はしなかった。
「だから、警察に連絡します。ダンジョンを見つけたって。場所だけ言います。あなたのことは言いません。というか、顔も名前も知らないですし、記録もないですし。俺が水門の中で変な横道を見つけて、怖くなって出てきた。そう話します」
警察という言葉を聞き、身体がわずかに強張った。
だが、止める理由はなかった。
この入口はすでに配信者に見つかっている。男を黙らせて帰らせても、水門そのものが消えるわけではない。次に入った人間が、俺と同じように生きて戻れる保証もなかった。
下層には虫型のモンスターが群れ、広間には人間を丸ごと包めるスライムが潜んでいた。何も知らない人間が入れば、次は助けられないかもしれない。まして、子供ならなおさらだった。
一方で、通報されれば、この場所は封鎖される。
警察、自治体、あるいは政府の関係者が来れば、俺が自由に近づける入口ではなくなる。自分が見つけた場所が、手元から離れていく。
その事実に、胸の内側がわずかにざらついた。
男は沈黙を拒絶と受け取ったのか、さらに早口になった。
「あなたのことは言いません。本当に。助けてもらったのに巻き込む気はないです。あと、さっきのことも話しません。証拠もないですし、たぶん信じてもらえないですし、何より俺が怖いんで」
最後の一言だけは、妙に素直だった。
俺はしばらく男を見た。メッシュ越しでは、こちらの表情はほとんど分からないだろう。それでも男は、判決を待つように身体を固くしている。
やがて、ゆっくりと頷いた。
男の肩から、目に見えて力が抜けた。
「あ、ありがとうございます。いや、俺が言うことじゃないんですけど。本当に今日はすみませんでした。虫を探しに来て、ダンジョンを見つけて、スライムに殺されかけて、謎の人に助けられて、記録カードを指で潰されるって、もう何から考えればいいのか分からないですけど……助けてもらったことだけは忘れません」
俺は答えなかった。
男は何か言いかけたが、そのまま口を閉じ、バッグを抱え直した。
「連絡は、あなたが離れてからにします。今すぐ電話したら、たぶん落ち着いて説明できないんで。それに、あなたが近くにいる状態で人を呼ぶのも違う気がするので」
予想していたよりまともな判断だった。巨大スライムの前に立たされたことで、遅れていた危機感がようやく追いついたのかもしれない。
俺がもう一度頷くと、男は深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
返事をせず、踵を返した。
通報が入るなら、ここへ長く留まるべきではない。水門から離れ、堤防の上ではなく、人通りの少ない側道へ向かう。
背後で男がスマホを取り出す気配がしたが、すぐには電話をかけなかった。俺が離れるまで待つという言葉は守るつもりらしい。
夕方の風が、顔の前のメッシュを揺らした。日中よりも空気は冷たく、空も暗くなり始めている。
普段なら、家へ帰って食事をし、風呂に入り、適当な動画でも流している時間だった。だが、背負ったリュックには、普通の生活へ持ち込むべきではないものがいくつも入っている。
それでも、行きより足取りが少し軽く感じられた。
助けた相手が生きて帰り、通報するという判断までした。そのことが、自分のした行動をわずかに肯定してくれたのかもしれない。
帰り道では人目を避けた。駅には向かわず、バスにも乗らない。大通りを外れ、住宅街の裏道を選ぶ。
何度か振り返ったが、誰かがついてくる様子はなかった。周囲を確認してから帽子を外す。
ポケットに残った黒い石が、歩くたびに小さく当たった。もう必要のないものだったが、道端へ捨ててよいのか判断できず、そのまま持ち帰ることにした。
家へ着く頃には、空はかなり暗くなっていた。
玄関の前で周囲を確認し、鍵を開けて部屋へ入る。ドアを閉じ、施錠し、チェーンをかけたところで、膝が急に重くなった。
無事に帰ってきた。
それだけで十分なはずだった。
しかし、床へリュックを下ろすと、ダンジョンで起きたことが重さを伴って戻ってきた。灰色の結晶、核片、小さな瓶、砕いた記録カード、曲がったトレッキングポール、拾った黒い石。布やビニール越しでも、そこにあることが分かる。
手袋をしたまま、持ち帰ったものを机へ並べた。
まず、砕いた記録カードを袋ごと二重に包む。廃棄するにしても、どこへ捨てるべきか考えなければならない。
次に、曲がったトレッキングポールを置く。先端付近は明らかに歪み、ロックも緩くなっていた。登山用品としてはもう使えないだろう。それでも、今日これがなければ、配信者が生きて戻れたかは分からない。
灰色の結晶は机へ置くと、小さく鈍い音を立てた。
見た目よりも重い。ライトを当てると、濁った内部で何かが沈むように光が揺れる。美しいとは思わなかったが、価値があるかもしれないとは思った。
核片は青緑色で、時間が経ったためか表面のぬめりが薄くなっている。それでも、素手で触る気にはなれなかった。
最後に、小さな瓶を取り出す。
透明な液体と、蝋のような封。ポーションかもしれないものだった。
本当に傷を治す薬なら、その価値は計り知れない。だが、飲み方も使い方も分からず、そもそも薬である保証さえない。今の俺には怪我もなく、試す理由もなかった。
理由を作ろうとすれば、いくらでも作れる。
その考えが浮かんだところで、瓶を机の奥へ押しやった。
ようやく手袋を外すと、指が小さく震えていた。
ダンジョンの中では、虫型のモンスターを前にしても、石を投げる手は正確に動いた。巨大スライムへ突っ込んだ時も、足や腕が迷うことはなかった。
家へ戻った今になって、その時には出なかった震えが指へ戻ってきている。
俺は机の縁へ両手を置き、並べたものを見下ろした。
今日、水門は俺だけが知る場所ではなくなった。
代わりに、机の上には、まだ世間の誰も存在を知らないかもしれないものが並んでいた。
それらが今後の人生をどこへ運ぶのか、本気で悩み始めるのは、もう少し後のことになる。