寄生虫と行く現代ダンジョン   作:脳タリン

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第195話 救助線

 

石壁の向こうから聞こえる声は、次第に少なくなっていた。

現場指揮官は壁へ耳を当て、通信機を握った。

 

「第二梯団、生存者は応答しろ。人数と負傷状況を報告せよ」

 

雑音の中から、途切れた声が返る。

 

『……十二、いや……見える範囲で十二名。動けるのは……四名』

 

第二梯団は四十一名だった。

罠が作動する直前、救護、補給、通信、護衛を担当する全員が、階段と分岐の間へ入っていた。声の主が確認できているのは、落下した区画の一部だけだった。

 

「落下地点の深さは」

 

『八メートル前後。床が……斜めに崩れている。下に通路があります』

 

「敵影は」

 

返答が止まった。

遠くで銃声が鳴った。

一発。二発。続けて短い連射。

 

『来ています。さっきの甲殻型です。壁を降りて――』

 

悲鳴が混じり、通信が切れる。

現場指揮官は工兵を振り返った。

 

「穴を開けろ。人が通れなくていい。内部を見る」

 

工兵は携帯式の掘削機を石壁へ当てた。

 

刃が回転し、灰色の粉が床へ落ちる。壁は見た目以上に硬く、数センチ進むだけで刃先が赤くなった。

反対側では、四層から来た救助部隊が階段側の石壁へ取りついているはずだった。しかし、落下と同時に中継器が失われ、通信状態は安定しない。

 

『こちら第三救助班。接続部を確認した。壁の厚さは推定一・五メートル以上。通常工具では時間がかかる』

 

「破砕装薬は使えるか」

 

『小規模なら可能です。ただし、壁の向こうの状態が分かりません』

 

「掘削を優先しろ。穴が通った時点で内部を確認する」

 

命令を出した直後、壁の奥から低い振動が伝わった。

誰かが叩いている。

 

一度。

 

間を置いて二度。

その後は続かなかった。

工兵が掘削機を止めた。

 

「貫通します」

 

細い鉄棒を穴へ押し込む。

抵抗が消えた。

工兵は穴を広げ、先端に小型カメラを付けた線を差し入れた。

端末へ暗い映像が映る。

最初に見えたのは、斜めに折れ重なった石板だった。

その上に、補給箱、担架、通信機材が散乱している。数名の兵士が瓦礫の隙間で動いていた。立てる者はいない。

カメラを下へ向ける。

底には、さらに多くの人間が倒れていた。

動かない者。

片腕だけを上げている者。

脚を石板に挟まれ、身体を引きずろうとしている者。

崩れた石板の下にも、装備や身体の一部が見えていた。斜面の先は横穴へ続いており、さらに奥へ転落した者が何人いるのかは確認できない。

その間を、灰白色の甲殻を持つ生物が歩いていた。

 

五体。

 

六体。

 

奥の暗がりにも、同じ青白い裂け目がいくつも浮かんでいる。

一体が倒れた兵士へ乗り上げた。

重なった甲殻が左右へ開く。

その下から、黒い糸の束に似た器官が伸びた。

糸は兵士の首元と腹部へ絡み、裂けた戦闘服の内側へ入り込む。

倒れていた兵士の身体が跳ねた。

生きている。

端末を見ていた副官が息を呑んだ。

 

「撃てないのか」

 

「この穴からでは角度が足りません」

 

工兵が答える。

 

「壁を広げれば」

 

「どれだけかかる」

 

「手作業なら一時間以上。装薬を使えば早いですが、落下地点へ破片が飛びます」

 

カメラの映像で、別の甲殻型が死体へ取りついた。

黒い器官が傷口へ入り、甲殻の隙間がゆっくり膨らんでいく。

その周囲では、床の細い溝へ血が流れていた。

赤かった液体は溝を進むほど色を失い、石へ吸い込まれるように消えていく。

 

「装薬を使う」

 

現場指揮官が言った。

副官が彼を見る。

 

「生存者を巻き込みます」

 

「このままでも死ぬ」

 

「壁の構造が連動していた場合、残っている足場まで落ちます」

 

「では何を待つ」

 

答えられる者はいなかった。

穴の向こうから発砲音が聞こえた。

生存者の一人が、横になったまま銃を撃っている。甲殻型の一体へ命中したが、弾丸は外殻を削っただけだった。

二発目が甲殻の隙間へ入る。

生物が身体を震わせ、黒い器官を引き抜いた。

兵士は銃を別の個体へ向けようとした。

別方向から来た甲殻型が、その腕へ前脚を振り下ろした。

鉤爪が戦闘服を貫く。

銃が手から落ちた。

 

「準備しろ」

 

現場指揮官は繰り返した。

工兵が壁の穴を中心に、複数の小さな窪みを作り始める。

一度に大きく破壊するのではなく、壁の一部だけを内側へ崩す。生存者のいる位置から外し、破片が落下地点へ広がらないよう角度を付ける。

作業中も、救助を求める声は減り続けた。

左通路へ送った偵察班から報告が入った。

 

『前方の広間から、別の通路が三本伸びています。右へ回り込めば、落下地点の下へ繋がる可能性があります』

 

「距離は」

 

『不明です。床と壁に同じ溝があります。甲殻型を二体確認』

 

現場指揮官は端末の簡易図を見る。

壁を破るより、迂回路の方が早い可能性がある。しかし、未確認の通路へ救助要員を送り込めば、新たな罠にかかる。

 

「偵察を続けろ。二人一組。分岐ごとに一人残せ」

 

『了解』

 

副官が低い声で言った。

 

「人員を分けすぎです」

 

「迂回路が見つかれば装薬を中止する」

 

「見つからなければ」

 

「壁を開ける」

 

四層側から通信が入る。

 

『第三救助班。小孔が貫通した。接続部の内側は空洞です。階段の一部が崩れていますが、通行できる幅を作れます』

 

「作業を続けろ。第五層側へ入った後は、第二梯団の落下地点へ近づくな。先に第一梯団との接続を回復しろ」

 

『了解』

 

救助部隊は四層側から石壁を削り始めた。

第一梯団も反対側から作業を続ける。

閉ざされた二枚の壁を挟み、両側で同時に救助路が作られていた。

先に異変が起きたのは、左通路へ入った偵察班だった。

 

『接触!』

 

銃声が通信へ響く。

 

『甲殻型、前方から六――後方にもいる!』

 

「後退しろ」

 

『戻り道に出ています! さっきはいなかった!』

 

現場指揮官が左通路を見る。

偵察へ出た兵士が一人、広間から走って戻ってきた。

その背後を甲殻型が追っている。

一体ではない。

平たい胴体を床へ擦りつけ、六本の脚で石板を叩きながら、通路いっぱいに広がっていた。

兵士たちが射撃する。

先頭の一体へ弾丸が集中し、甲殻が剥がれる。それでも止まらない。

盾兵が前へ出て、低い位置から突進してきた個体を受け止めた。

衝撃で後ろへ押される。

別の個体が壁を走り、盾の横を抜けようとする。

工兵が長柄の工具を振り下ろした。

甲殻の隙間へ先端が入り、生物が床へ落ちる。

 

「壁際を空けろ! 通路中央へ集めろ!」

 

指揮官の命令で射線が揃う。

兵士たちは後退しながら撃ち続けた。

一体が止まる。

二体目が横転する。

倒れた個体の後ろから、さらに新しい甲殻型が現れた。

偵察班が確認した数より多い。

右通路の奥からも、石床を引っかく音が聞こえ始める。

 

「敵が集まっています」

 

副官が言った。

現場指揮官にも分かっていた。

銃声や血の臭いに引かれているだけではない。

これまで奥へ逃げていた個体が、今は人間のいる場所へ向かってくる。

罠の落下地点。

負傷者。

死体。

そこへ通じる壁の両側に、モンスターが集まり始めていた。

 

「装薬、準備完了!」

 

工兵が叫ぶ。

 

「起爆しろ」

 

兵士たちが壁から離れる。

短い爆発音が連続した。

石壁の中央に亀裂が入り、人が屈んで通れるほどの塊が内側へ崩れた。

穴の向こうから、血と火薬と腐った泥を混ぜたような臭いが流れ込む。

最初に工兵が入り、続いて救護要員が通過した。

落下地点の上部には、瓦礫へ引っかかっていた三名が残っていた。

一人は意識がない。

一人は腕を失っている。

もう一人は、自力で身体を起こそうとしていた。

 

「下にも生存者がいる!」

 

救護要員が穴の縁から底を覗く。

照明を向けると、甲殻型が一斉に顔のない前端を上げた。

青白い裂け目が並ぶ。

その数は、カメラで確認した時より増えていた。

 

「射撃!」

 

兵士が穴の縁から撃ち下ろす。

弾丸が甲殻へ当たり、火花と破片を散らす。

一体が倒れる。

だが、暗い横穴から別の個体が這い出してくる。

救護要員は上部の三名を引き上げた。

その間にも、底から助けを求める声が聞こえる。

 

「ロープを下ろします!」

 

「駄目だ」

 

現場指揮官が止めた。

 

「まだ生きています!」

 

「下へ降りれば戻れない」

 

「四人、動いているのが見えます」

 

「その周囲に何体いる」

 

救護要員は答えなかった。

甲殻型が、倒れた人間の上へ折り重なっている。

一体が摂取を終えたのか、黒い器官を引き戻した。

灰白色だった甲殻の隙間に、赤黒い筋が浮かんでいる。

その個体はしばらく動きを止めた後、身体を大きく震わせた。

甲殻の後部が割れる。

内側から、濡れた薄い殻を持つ小さな個体が二体、床へ落ちた。

生まれたばかりのような個体は数秒で脚を伸ばし、近くの死体へ向かって歩き始める。

誰も言葉を発しなかった。

 

「収容した三名を先に送れ」

 

現場指揮官が命じる。

 

「残りは」

 

「救助路を確保してからだ」

 

それができないことは、全員が理解していた。

右通路からも甲殻型が現れた。

兵士たちは壁に開けた穴を守りながら射撃する。

弾薬の残量が報告される。

残り三割。

補給物資の大半は、第二梯団とともに穴の底へ落ちていた。

四層側の救助部隊から連絡が入った。

 

『接続部を開放。人員一名ずつなら通行可能』

 

「負傷者から退避させろ」

 

『第一梯団は』

 

「順次撤退する」

 

副官が現場指揮官を見る。

 

「底の生存者は」

 

「回収不能だ」

 

穴の下から声がした。

 

「置いていくのか!」

 

通信機ではない。

底にいる兵士が、こちらへ叫んでいた。

 

「まだ生きてる! ロープを――」

 

声の途中で、甲殻型が飛びかかった。

銃声が響く。

誰が撃ったのか分からなかった。

甲殻型の身体が跳ね、兵士の横へ落ちる。

しかし、その銃声に反応するように、横穴の青白い光が増えた。

 

「撤退開始」

 

現場指揮官が言った。

救護要員が三名の負傷者を運ぶ。

工兵、盾兵、射撃要員が順番に壁の穴を離れる。

最後まで残った兵士が、落下地点へ手榴弾を投げようとした。

副官が腕を掴む。

 

「何をしている」

 

「生きたまま食われるよりは」

 

「下に弾薬がある」

 

兵士は手榴弾を握ったまま動かなかった。

底からは、もう助けを求める声が聞こえない。

代わりに、硬い脚が石板を叩く音だけが続いていた。

手榴弾は使われなかった。

第二梯団四十一名のうち、五層から引き上げられたのは三名だけだった。

残る三十八名は、死亡を確認することも、遺体を回収することもできないまま、落下地点とその奥へ取り残された。

第一梯団は、四層側の救助部隊が開けた狭い穴を通って撤退した。

最後に現場指揮官が五層を離れる。

石壁の向こうでは、甲殻型が倒れた仲間の遺体を踏み越え、こちらへ集まっていた。

ダンジョン由来の死体には見向きもしない。

人間の血が流れた場所だけを探している。

四層へ降りると、空気が変わっていた。

本来なら四層の奥にいるはずの大型個体が、遠くの通路を横切る。

低層で確認されていた群れが、互いに争わず同じ方向へ進んでいる。

上だった。

第三層へ続く経路へ向かっている。

 

「四層の敵が移動しています」

 

監視要員が報告した。

 

「数は」

 

「確認できません。複数方向から集まっています」

 

「退路を確保しろ。各中継班へ撤収を伝えろ」

 

部隊は負傷者を運びながら上層へ急いだ。

 

第三層でも、同じことが起きていた。

 

奥にいるはずの個体が浅い区画へ現れ、入口方向へ移動している。

人間を追っているようにも見える。

だが、撤退部隊が分岐を曲がっても、モンスターは最短経路で上を目指した。

 

第二層。

 

第一層。

 

階層を上がるほど、押し出されるように個体数が増えていく。

地上の管理施設には、第五層での事故と救助失敗だけが報告されていた。

内部全体で何が起きているのか、まだ誰も理解していない。

入口前の警備部隊は、予定より早く戻ってきた攻略部隊を収容するため、担架と医療班を前へ出していた。

最初の負傷者が境界を越える。

次に救護要員。

泥と血に汚れた兵士たちが、次々に地上へ出てくる。

警備責任者は人数を数えながら、入口の奥を見た。

まだ誰かが走ってくる。

人間より低い。

地面へ張りつくような姿勢。

灰白色の甲殻。

 

「敵影!」

 

警備兵が銃を構える。

誰かが叫んだ。

 

「入口から離れろ!」

 

甲殻型は境界の直前で一度、動きを止めた。

青白い裂け目を地上へ向ける。

そして六本の脚を動かし、ダンジョンの外へ踏み出した。

 

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