政府がダンジョンの存在を正式に発表したのは、平日の昼過ぎだった。
その日、俺は会社の休憩室で、冷めたコンビニ弁当を食べていた。壁に掛けられたテレビでは、芸能人の不倫やどこかの会社の不祥事、熊の出没情報といった、いつも通りの昼のニュースが流れている。だから最初は、画面の端に現れた速報の文字も、大げさに取り上げられる話題の一つだと思っていた。
『政府は本日、国内複数箇所で確認されていた異常地下空間について、正式に“ダンジョン”という呼称を用い、調査を進める方針を発表しました』
箸を持つ手が止まり、休憩室にいた何人かも同じようにテレビへ顔を向けた。
画面には灰色のスーツを着た官房長官が映っている。表情は硬かったが、その口から出てくる言葉には現実味がなかった。異常地下空間、未知の鉱物、内部環境の変質、民間人の無許可侵入の禁止、発見時の通報義務、危険区域としての暫定封鎖。いくつもの単語が並ぶにつれて、休憩室の空気が少しずつ変わっていく。
「ダンジョンって、あのダンジョンかよ」
誰かが笑った。その声には、呆れと困惑が混じっていた。
「ゲームじゃないんだからさ」
「でも、ネットで噂になってたやつだろ?」
「ああ、山の中に変な穴が出たとか、廃ビルの地下が広がってたとか」
「どうせデマだと思ってたわ」
周囲がざわつく中、俺だけは何も言えなかった。胸の奥が妙に熱を持っていたからだ。
ニュースは続き、現時点では外部への直接的な脅威が限定的であること、内部への立ち入りには危険が伴うこと、未確認の入口を発見した場合は速やかに自治体か警察へ通報することが説明された。政府主導の調査体制を整備し、一部の民間協力者を対象とした登録制度も検討しているらしい。
言葉だけを聞けば、危険な災害か、厄介な行政案件だった。普通なら近づかない方がよく、実際に休憩室の同僚たちも似たような反応を見せていた。
「近所に出たら嫌だな」
「土地の値段下がりそう」
「配信者とか絶対入るだろ」
「もう入ってるやついるんじゃね?」
本気でそこへ行きたいと言う者はいなかった。それが普通であり、俺もそう考えるべきだった。危ないから関わらない方がよく、自分には関係がない。それが三十歳の会社員として正しい反応だったはずだ。
けれど、画面に映る黒い入口を見た瞬間、俺の中へ何かが戻ってきた。
子供の頃は探検ごっこが好きだった。家の近くの水路や橋の下、暗いトンネルなど、大人から近づくなと言われた場所ほど気になった。怖さはあったが、それでも奥に何があるのかを見たかった。
そうした気持ちを、いつから失っていたのだろう。
仕事はあり、生活に困っているわけでもない。大きな借金もなければ、誰かに追われてもいない。ただ、夢も目標もなく、家庭も熱中できる趣味もなかった。
休日は動画を流しながら適当に飯を食い、気づけば夜になっている。給料日が来れば少し安心し、月曜日が来れば少し憂鬱になる。それを繰り返しているうちに一年が終わり、このまま何も起きずに歳を取るのだと思っていた。何者にもならず、何かに夢中になることもないまま、ただ生活だけを続けていくのだと。
それが悪いことだとは思わない。きっと世の中の大半は、そうやって回っている。それでもテレビの中の黒い入口を見た時、初めて思ってしまった。
今逃したら、一生後悔する。
その日は、仕事がまるで手につかなかった。午後の会議で何を話したのかも、ほとんど覚えていない。上司が資料の修正を指示していた気がするし、取引先への返答期限や来月のシフトについても話していたはずだ。それでも頭の中では、ニュースで見た黒い入口がずっとちらついていた。
退勤後、俺は真っすぐ家には帰らず、駅前の書店で登山用の薄い地図と埼玉県内の道路地図を買った。そのままアウトドア用品店にも立ち寄り、ヘッドライトと手袋を眺めた。
その時点では、まだ何も買わなかった。買ってしまえば戻れなくなるような気がしたため、その日は見るだけにした。
家へ帰ってパソコンをつけ、検索欄へ思いついた単語を打ち込む。
ダンジョン。未確認。入口。埼玉。噂。
数え切れないほどの投稿が表示されたが、その大半はデマだった。拾い画像を使った嘘の発見報告、ゲーム画面の切り抜き、心霊スポットの再利用、閲覧数稼ぎの動画、自称専門家の考察に加え、ダンジョンには選ばれた者だけが入れると語る宗教まがいの投稿まである。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、画面を閉じることはできなかった。
中には、妙に引っかかる情報もあった。入口の近くではスマホのコンパスが狂い、虫や鳥が近づかず、空気が冷たくなる。水辺や古い暗渠、使われなくなったトンネルの近くで目撃例が多いという話もあった。
公式発表前から流れていた噂と、今日のニュースに映っていた映像を照らし合わせていくうちに、俺の中で一つの考えが形になっていった。
見つけられる保証はなくても、探すことはできる。
発見した場合には通報し、無許可で入ってはいけないと政府は言っていた。それが正しいことは分かっている。けれど、もし本当に入口を見つけて報告すれば、そこはすぐに封鎖されるだろう。警察か自衛隊、あるいは研究機関がやってきて、俺はただの第一発見者として外側へ追い出される。
その先を見る機会は、二度と得られないかもしれなかった。
スマホを開いてAIを起動し、人生を左右する願いについて短く聞いた。
翌日、その願いを机の上へ慎重に差し出すと、上司は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした後、露骨に不機嫌な態度へ変わった。
「急にどうした?」
そう聞かれても、うまく答えられなかった。
ダンジョンを探したいから会社を辞めます。そんなことを、三十歳の男が真顔で言えるはずもない。
「少し、やりたいことができまして」
結局、口から出たのは曖昧な言葉だった。
上司は困った顔をしながら俺を引き止め、待遇への不満なのか、人間関係に問題があったのか、転職先は決まっているのかと、いくつも質問してきた。どれも違っていた。不満がまったくないわけではないが、会社が嫌で辞めるわけではなかった。
【やりたい事ができた】。それだけが、嘘ではない正直な理由だった。
やっと見つけた火種をここで消してしまえば、俺は恐らく、本当の意味で死んでしまう。自分でも奇妙だと思いながら、そうなるという確信があった。
退職日までの有休消化が決まると、妙に身体が軽くなった。
不安はあった。貯金は無限ではなく、次の仕事も決まっていない。ダンジョンを見つけられる保証も、どこにもなかった。冷静に考えれば馬鹿な選択であり、親にも言えるはずがない。それでも、後悔だけはなかった。
衝動で負の感情を打ち消すように、その日から準備を始めた。
まず、武器は買わなかった。ナイフや警棒のような物を持ち歩けば問題になることは分かっていたし、そもそも素人が刃物を持ったところで、ダンジョンの中で何ができるとも思えなかった。
そのため、揃える物は探索用品に絞った。
ヘッドライト、強力な懐中電灯、予備の電池とモバイルバッテリー、革手袋、防塵マスク、簡易救急セット、ホイッスル、マーキングテープ、チョーク、ロープ、水、携行食、雨具、トレッキングシューズ、そして折り畳み式のトレッキングポール。
どれも登山用品や防災用品として見れば不自然ではないが、並べてみると、どう見ても何かの中へ入るための装備だった。
いい歳をした大人が何をしているのかと、自分でも笑ってしまった。それでもリュックへ一つずつ詰めていくたびに、胸の奥が静かに熱を持った。
ニュースでは連日のようにダンジョンの話題が流れていた。危険だから近づくなと語る専門家がいれば、新しい資源になると主張する企業関係者もいる。探索者制度の必要性を訴える評論家、未発見のダンジョンを探す配信者、ゲーム感覚でギルドを作ろうとする若者たち、ダンジョンは神の試練だと叫ぶ宗教団体まで現れ、世界は少しずつ浮ついていた。
それでも、日常はまだ壊れていない。電車は動き、会社員は会社へ行き、学生は学校へ通っている。スーパーにも普段と変わらず客がいて、世間はダンジョンを恐れながらも、どこか他人事として見ていた。
俺も少し前まではその中にいたが、もう戻れない。
部屋の床に置いたリュックを見下ろす。これが正しいのかは分からず、自分が何を見つけるのかも分からない。有休が終わるまで何も見つけられず、ただ無職になっただけで終わるかもしれなかった。
それでも、行くと決めた。
俺はこの時、命の危険に晒されたわけでもないのに、初めて【死にたくない】と思った。
地図を広げると、赤いペンで印をつけた場所がいくつも並んでいた。川沿い、橋の下、古い暗渠、使われなくなった水路と、子供の頃ならきっと胸を躍らせた場所ばかりだった。
ヘッドライトの電池を確認し、リュックの口を閉じる。
明日から、誰も知らない入口を探しに行く。
俺の人生を変えるかもしれない場所を。