暗い場所だった。
湿った石の匂いがあり、水音は遠い。完全に乾いているわけではなく、床の近くを冷たい空気が流れ、時折どこかの壁で水滴が弾ける音がした。
俺は、そこを這っていた。
正確には、這っているような視界だけがあった。自分の身体がある感覚は薄く、手足を動かしている実感もない。ただ、目の位置だけが床に近かった。人間がしゃがんだ時よりも低く、石の凹凸や砂粒、濡れた跡、壁際の亀裂までがやけにはっきり見える。
映画を最前列で見ているような夢だった。近すぎる画面の中を、暗く湿った洞窟の景色が揺れながら流れていく。自分がそこにいるのか、誰かの見ているものを覗いているだけなのかは分からなかった。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
右へ行こうと思えば視界が右へ流れ、止まれと思えば動きが止まる。前へ進もうとすると、石の床が滑るように近づいてきた。
夢の中だから、そういうものなのだろう。子供の頃に空を飛ぶ夢を見た時も、飛べる理由など考えなかった。今も同じだと思うことにした。
俺は暗い洞窟の中を、散歩でもするように進んだ。
視界の端で、細いものが揺れた。
最初は壁の亀裂だと思ったが、赤黒い脚だった。何本もの長い脚が並び、波のように動いている。
今日、ダンジョンの下層で見たゲジゲジに似ていた。犬ほどの長さがあり、床を流れるように迫ってきた虫型のモンスター。俺が石を投げ、トレッキングポールで動きを乱し、最後に胴を千切ったものだ。
その姿が、今は同じ目の高さにあった。
向こうもこちらに気づいたらしい。長い触角が、空気を探るようにゆっくり伸びてくる。先端が視界のすぐ前で揺れた次の瞬間、景色が跳ねた。
何かが前へ飛び出し、ゲジゲジの脚が一斉に広がる。触角が激しく乱れ、濡れた石の匂いが急に濃くなった。
そこで目が覚めた。
見慣れた白い天井に、薄い染みと丸い照明がある。
俺は布団の上へ仰向けになったまま、しばらく動けなかった。呼吸は荒くないが妙に浅く、心臓だけが速く動いている。喉も乾いていた。
指を動かす。自分の意思で動いた。足も二本ある。
「……夢、だよな」
声に出しても、思ったほど安心はできなかった。
俺の身体はこの部屋にある。暗い洞窟を這い回り、ゲジゲジと同じ高さから向かい合っていたわけではない。
ただの夢にしては、見え方が生々しすぎた。床の近さ、石の湿り気、視界の揺れ、触角が空気を探る動きまで、記憶の中にはっきり残っている。
俺は上体を起こした。
カーテンの隙間から薄い光が差し込み、スマホの時刻は朝と呼ぶには少し遅かった。昨日、家へ戻ってから何をしたのかを順番に思い出す。
水門から帰り、鍵を閉め、持ち帰ったものを机へ並べた。巨大スライムが残した灰色の結晶、青緑色の核片、小さな瓶、砕いた記録カード、曲がったトレッキングポール、拾った黒い石。
そこから先の記憶は曖昧だった。
風呂へ入る気力も、荷物を片づける余裕も、何かを調べる集中力も残っていなかったのだろう。服を着替え、手を洗ったような気はするが、どこまできちんとできたのかは怪しい。
眠ろうとして横になったというより、横になったところで意識が途切れたらしい。
水門の横道、小型スライム、配信者、巨大スライム、宝箱、下へ続く階段、虫型のモンスター、通報されることになった入口。そして、持ち帰ったもの。
一日で起きたこととしては多すぎた。
布団から出て机の前へ立つと、昨日の現実がそのまま残っていた。
ビニール袋に入れた灰色の結晶と青緑色の核片、小さな瓶、砕けた記録カード、曲がったトレッキングポール、黒い石。
どれも単体では大した大きさではない。灰色の結晶は手のひらへ収まり、核片はさらに小さい。小瓶の中の液体もわずかで、記録カードの破片など、事情を知らなければただのゴミにしか見えなかった。
それでも、すべて俺がダンジョンから持ち帰ったものだった。
自分の足で入り、自分の手で拾い、生きて外へ出た結果が机の上に並んでいる。
胸の奥に、小さな熱が生まれた。
恐怖も嫌悪感も消えてはいない。正体も使い方も分からず、危険物かもしれない。それでも、昨日まで何も持っていなかった俺の前に、確かな成果が残っている。
会社を辞めた時、俺は自分の中に消したくない火種があると思った。
あの時は、見つけたい、入りたい、知りたいという衝動しかなかった。今は、その火へ小さな薪が一本加わったような感覚がある。
机の上に並んでいるのは、財宝でも英雄の証でもない。正体不明の品と壊れた道具、処分に困る証拠のようなものだ。
それでも俺は、昨日までより少しだけ先へ進んでいた。
まずは、扱いの分かるものから片づけることにした。
砕いた記録カードは、もう機器へ戻して使える状態ではない。政府や警察が、俺の存在さえ知らない段階で、この破片を探しに来るとも思えなかった。
曲がったトレッキングポールも、外から見れば壊れた登山用品にすぎない。記録カードの破片は袋を二重にし、後で別のゴミへ混ぜる。ポールも分解して捨てればいい。
黒い石は普通の石にしか見えなかったが、道端へ戻す気にはなれず、ひとまず袋の中へ残した。
すべてを陰謀の証拠のように扱っていては生活できない。かといって、警戒を解く気にもなれなかった。その中間を探すしかない。
次に、小さな瓶へ目を向けた。
透明な液体と、蝋のような封。ポーションかもしれないものだった。
飲む気も、身体へかける気もない。今の俺には試す必要のある怪我もなかった。
指先をわずかに切り、液体を垂らせば効果を確かめられるかもしれない。
そんな考えが浮かんだところで、瓶へ伸ばしかけた手を止めた。
知りたいから、自分で試す。
昨日から何度も踏み込みかけ、そのたびに危険だと判断してきた考え方だった。
好奇心は、恐怖で動けなくなった時には背中を押してくれる。しかし、放っておけば簡単に足元を踏み外させる。
俺は小瓶を袋へ入れたまま台所へ運び、冷蔵庫を開けた。
卵、ペットボトルの水、半分残った総菜、使いかけの調味料。その一角へ、ダンジョン産の液体が入った小瓶を置く。
あまりにも場違いだった。
「……とりあえず冷蔵庫って、人類の知恵だよな」
口に出しても、何の根拠にもならなかった。
机へ戻ると、灰色の結晶と青緑色の核片が残っていた。
灰色の結晶は見た目より重く、ライトを当てると、濁った内部で光が沈むように揺れる。価値があるかもしれない。金になる可能性も、研究対象になる可能性もある。
いつか公的な売却ルートができれば、表へ出せる日が来るかもしれない。それまで、どう保管するかが問題だった。
袋越しに指で押し、すぐに離す。まだ素手で触る気にはなれなかった。
次に、青緑色の核片を見る。
小型と巨大、二体のスライムが残したものの一部だった。時間が経ったためか、表面のぬめりは昨日より薄れている。割れた飴玉のようにも見え、色だけなら綺麗と言えなくもなかった。
そう思った時、右手の人差し指に違和感が走った。
痛みでもかゆみでもない。爪の奥から、細い何かに押されるような感覚だった。
「……は?」
人差し指の爪の隙間から、白いものが伸びていた。
髪の毛よりも細く、意識して見なければ光の反射か、爪の端についた埃にしか見えないほどの白い糸だった。それが数本、ゆっくりと爪の間から現れている。
糸の先は、まっすぐ核片へ向かっていた。
「おい」
声を出し、手を引こうとする。
だが、その前に白い糸が青緑色の欠片へ触れた。
核片の色が、内側から変わり始める。
水の中へ絵の具を落としたように青緑色が薄れ、白い濁りがじわじわと広がっていく。透明感が消え、膜に覆われたように全体が白くなった。
俺が手を引くと、糸はするりと爪の隙間へ戻り、跡形もなく見えなくなった。
人差し指は、何事もなかったように普通の指へ戻っている。
机の上では、真っ白になった核片へ細かな亀裂が走っていた。
ほどなく、音も立てずに崩れ始める。砂糖菓子を指で潰したように形が失われ、元の体積よりもはるかに少ない白い粉だけが残った。
俺は粉と人差し指を、しばらく交互に見た。
「……報酬は山分け制度……」
口から出たのは、ひどく間の抜けた言葉だった。
それでも、黙っていればもっと嫌な声が出ていた気がする。
命がけで持ち帰った核片を、俺の中にいるものが勝手に持っていった。
食べたのか、吸収したのか、分解して別の何かに変えたのかは分からない。ただ、俺の意思と関係なく、指先から伸びた白い糸によって核片が消えたことだけは確かだった。
「いや、お前、家賃を払う側じゃないのか」
返事はなかった。
頭の中に声が響くことも、目の奥や左腕に反応が起きることもない。机の上に、核片だった白い粉が残っているだけだった。
昨日の探索で成果を持ち帰り、少し前へ進めたと思った。その成果の一部を、自分の中にいるものも利用した。
俺が火へ薪を加えたつもりでも、その熱を使うのが俺だけとは限らないらしい。
それが俺を生かすために必要なのか、いずれ身体そのものを奪うための準備なのかは分からない。少なくとも、相手の都合で俺の身体を動かせる範囲が、傷の修復だけではないことは分かった。
机の上には、まだ灰色の結晶が残っている。冷蔵庫には小さな瓶があり、俺の指からは白い糸が伸びた。
昨日持ち帰ったものを整理するだけのはずだった朝に、俺は新しい記録を一つ増やすことになった。
寄生体は、スライムの核片を吸収する。