その夜、また夢を見た。
今度は、どこかを動き回る夢ではなかった。
俺は岩と岩の隙間、黒い石壁にできた割れ目の奥から、外を覗いていた。視界は人間のものとは思えないほど低く、床に近い。石の表面にある小さな凹凸まで、壁のように大きく見えた。
ただじっと隠れている。
息を潜めているような感覚はあるが、実際に呼吸しているのかも分からない。身体の輪郭は曖昧で、あるのは狭い隙間から見える景色だけだった。
割れ目の外には、黒い石の通路が続いている。
見覚えがあった。水門の横道から入った先にあった、乾いた石の匂いがする通路だ。夢の中なのに、その匂いを鼻以外の場所で感じている。
通路の奥から、白い光が揺れながら近づいてきた。
懐中電灯やヘッドライトの光だが、俺が持っていたものより数が多い。足音も一人分ではなかった。
迷彩服を着た人間たちが、慎重に通路を進んでくる。
自衛隊員だと思った。
全員が同じ動きをしているわけではないが、それぞれの役割が決まっているらしい。ライトを床と壁へ分けて向け、一定の間隔で立ち止まり、後ろへ手信号を送っている。銃のようなものを構えた隊員もいた。
昨日、封鎖線の外側から見た迷彩服の人間たちが、今は俺のいたダンジョンの中へ入っている。
「前方、異常なし」
「足元、粘液痕なし」
「右壁面に亀裂あり。接触するな」
水門から続く場所のはずなのに、水音はほとんど聞こえない。隊員たちの声だけが黒い石へ反響し、通路の奥へ細く伸びていった。
俺は割れ目の奥から見ていた。
動こうとは思わなかった。思ったとしても、この視界の持ち主が俺の意思で動けたのかは分からない。
迷彩服の隊員たちに続き、装備の異なる人間が現れた。
白衣ではないが、自衛隊員とは明らかに雰囲気が違う。ヘルメット、防護服に近い上着、背中のケース、手にした記録端末。研究者か、調査員のように見えた。
彼らは護衛されながら、壁や床を細かく観察している。怯えているというより、わずかな異常も見落とすまいとする目だった。
「先ほどの洞窟とは違いますね」
一人が壁面へライトを向けたまま言った。
「湿度も違います。壁の質感も、上層とは別物に見える」
「水門内部から連続しているのに、環境が切り替わりすぎています。通常の地下構造では説明できません」
「説明できないから、ここにいるんだろう。説明できないということが説明できる。ヨシ」
「なんでこの人、いまだにクビになってないんですか」
自衛隊員の一人が低い声で返した。
気心の知れた相手同士の軽口らしい。ふざけているようで、視線もライトも止まってはいなかった。緊張を和らげながら、確認するべきところは外していない。
先ほどの洞窟。
その言葉が夢の中の俺に引っかかった。
この人間たちは、すでに別の場所を調べている。俺が通った上の通路や、スライムのいた広間のことかもしれない。
水門の奥は、ただ一続きの異常空間としてではなく、環境の異なる場所へ区分され、調査対象になり始めていた。
視界が一瞬ぶれた。
岩の割れ目から見ていたはずの景色が滑り、気づけば床の上を移動していた。
低い視点のまま、通路の端を進んでいる。石の凹凸を避け、壁際の影から影へ移る。視界に入るのは、人間たちの足元ばかりだった。
迷彩服の裾、硬そうな靴、揺れるライトの光、床に落ちた細かな砂。それらが、人間だった時よりも近く、大きく見えた。
「待て」
自衛隊員の声が鋭くなった。
視界が止まる。
俺が命じたのではない。この夢の中にいる何かが、ぴたりと動きを止めたのだ。
「色が違う個体がいる。右の壁際だ。気をつけろ」
「どれだ」
「通常個体より白い。脚の根元と、体節の間に白いものが見える」
複数のライトが、こちらへ向いた。
視界が白く焼ける。
眩しさから逃れるように景色が動いた。壁の亀裂、床の隙間、石の陰へ、身体を滑り込ませるように進んでいく。
人間たちの足音が乱れた。
「逃げた」
「追いますか」
「待て。無理に追うな」
「特殊個体かもしれません。今のものは、他の虫型と行動が違います。こちらへ向かってくるのではなく、明確に避けました」
「映像は」
「一瞬だけです。白っぽい付着物のようなものが見えました」
「サンプルが欲しいな」
「近づいて採取できる相手なら、ですが。向こうも不意に遭遇したような反応でした。虫の幼体なら色素が薄い個体もいますが、大きさは通常個体と変わらないように見えました」
会話が少しずつ遠ざかる。
視界は、人間の手も道具も届きそうにない狭い隙間の奥で止まっていた。石の陰の向こうでは、まだ複数の光が揺れている。
追い込もうとはしてこなかった。
また、景色が変わった。
今度は少し高い位置だった。割れた石の上か、壁のくぼみから通路を見下ろしている。
自衛隊員と調査員たちのさらに後ろに、見覚えのある男がいた。
昨日の配信者だった。
カメラを持っているが、撮影している様子はない。両手で抱えるように機材を持ち、緊張した顔で隊員たちの後ろを歩いていた。
巨大スライムの前で固まっていた時に近い表情だったが、昨日のように自分の判断で勝手に進んでいるわけではない。質問された時だけ前へ出て、場所を指差している。
「たぶん、この先です。昨日、広い場所があって……その、落ちてきたのも、その辺りで」
「落ちてきた?」
「上からです。天井から。いや、正確には天井に張りついていたんだと思います。見てないですけど。見ていたら死んでいたので」
「その時、他に誰かはいましたか」
配信者は一瞬だけ黙った。
俺も夢の中で、息を止めたような気がした。
「……見てません。俺は一人でした。すぐに引き返して、逃げたので」
配信者はそう答えた。
調査員らしき人間が記録端末へ何かを入力し、自衛隊員は広間のある方向へ目を向けた。配信者はカメラを抱えたまま、わずかに肩を縮めている。
俺のことは話していない。
夢の中だというのに、そのことだけは妙にはっきりと理解できた。
次の瞬間、足元が揺れた。
岩の割れ目、壁の隙間、白っぽい身体、赤黒い脚、いくつものライト、迷彩服、配信者の顔。それらが混ざり合い、急速に遠ざかっていく。
目が覚めた。
見慣れた天井がある。
カーテンの外はまだ暗く、スマホの画面を点けると、夜明け前の時刻が表示された。
俺は布団の上で、しばらく動かなかった。
前に見た夢よりも、景色と会話がはっきり残っている。岩の割れ目、自衛隊員、調査員、配信者、白っぽい虫型の個体。
あれは水門の中だ。
夢に決まっていると言い切ることはできる。少なくとも、俺の身体は部屋の布団にあった。
それでも、見た景色は水門ダンジョンのものだった。俺が通った黒い石の通路、スライムのいた広間、虫型のモンスターがいる下層。そのいずれかに近い場所だ。
配信者が同行していた以上、別のダンジョンを夢に見ただけとは思えなかった。
今、実際に起きていることなのか。少し前に起きた出来事を見せられたのか。あるいは、水門へ置いてきた白いものが見た景色を、夢として受け取ったのか。
考えても答えは出なかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
水門の中には、俺が知らない白いものが残っている。
しかも、一つだけとは限らなかった。
色の違う個体。体節の隙間にある白い付着物。人間から逃げた虫型。通常個体とは異なる行動。
調査員たちの言葉が、頭の中で繰り返された。
俺は布団の中で右手を持ち上げ、人差し指の爪を見た。今は普通の指にしか見えない。白い糸も、皮膚の異常もない。
普通に見えるというだけでは、もう安心できなかった。
起き上がり、台所で水を飲んだ。
冷蔵庫には小瓶があり、棚の奥には灰色の結晶、密閉容器には白い粉がある。それらは昨日までに俺が持ち帰ったものだ。
だが、水門の奥には、持ち帰らなかったものが残っている。
あの場所は、すでに自衛隊と調査員の管理下へ入った。俺が入り直して確かめられる場所ではない。
なら、まだ調べられる場所はどこにある。
答えはすぐに浮かんだ。
最初の暗渠だ。
黒い石と祭壇を見つけ、ゴブリンに斬られ、白いものが目から入った場所。黒い殻の欠片を置いてきた場所でもある。
あそこなら、まだ封鎖されていない。
誰にも知られていない。少なくとも、水門のように公の調査対象にはなっていない。
戻るしかない。
迷いは思っていたほど大きくなかった。
恐怖が消えたわけではない。だが、何も知らないまま避け続ける段階は、もう過ぎていた。
俺の中にいるものは何なのか。水門で何を始めているのか。虫型のモンスターへ広がっているのか。
手がかりが残っているとすれば、すべてが始まった暗渠だった。
俺は夜が明けるまで、ほとんど眠れなかった。
朝になり、最低限の装備を用意した。
ヘッドライト、懐中電灯、予備電池、手袋、水、救急セット、ホイッスル、ビニール袋。トレッキングポールは昨日曲げたものではなく、予備として買っていたもう一本を出した。
石を投げればいいとも思ったが、棒が一本あるだけで選択肢は増える。
明確な武器を持ち込むつもりはなかった。それでも、何も持たずに戻るほど、もう無知ではなかった。
装備をリュックへ詰めた後、着替えとタオル、予備の袋、水をもう一本追加した。
前回は、帰り道で人目を避けるだけでも苦労した。今回は服が汚れるかもしれず、怪我を負う可能性もある。何かを持ち帰ることも考えられた。
徒歩や電車で戻るより、移動手段を用意した方がいい。
スマホで近くのレンタカー店を探し、軽自動車を予約した。大きな車は必要なかった。
部屋を出る前に、冷蔵庫を一度だけ開けた。
小瓶は卵の横に置かれたままだった。棚の奥にある密閉容器も確認する。灰色の結晶も、白い粉も、目に見える変化はない。
見たからといって安心できるわけではない。それでも、確認せずに出発する気にはなれなかった。
鍵を閉め、外へ出た。
朝の空気は少し冷たい。通勤する会社員、制服姿の学生、犬を連れた老人が、いつも通りの道を歩いている。
水門で自衛隊がダンジョンを調査していても、俺の身体に正体不明のものがいても、暗渠の奥に黒い祭壇が残っていても、朝は変わらず始まっていた。
駅前のレンタカー店で手続きを済ませ、小さな軽自動車へ乗り込む。荷物は後部座席へ置いた。
ナビへ入力したのは暗渠のある橋ではなく、少し離れた住宅街の端にあるコインパーキングだった。目的地を直接記録へ残さない程度の警戒は、さすがに身についていた。
車を走らせている間は、余計なことを考えないようにした。
道路は普通に混み、信号で止まり、横断歩道の歩行者を待ち、対向車を先に通す。ダンジョンへ向かっているとは思えない、ごく普通の朝の運転だった。
コンビニの配送車、自転車で走る学生、犬の散歩をする人、職場へ向かう会社員。少し前まで、自分もあちら側にいた。
コインパーキングは、橋から少し離れた住宅街の端にあった。
平日の朝だからか空きは多い。俺は一番奥の枠へ車を停め、エンジンを切らずにしばらく運転席へ座っていた。
ここなら、戻ってきた時に人目を避けやすい。着替えも置いておける。何かあれば、すぐに車で離れることもできた。
エンジンを切り、荷物を持って外へ出る。
リュックを背負い、畳んだトレッキングポールを側面へ固定した。見た目だけなら、散歩か軽いハイキングへ向かう人間に見える。
人通りの少ない道を選び、川沿いへ向かった。
橋の下にある古い暗渠。子供の頃に見た水路。横道を見つけ、すべてが始まった場所。
近づくにつれて、胸の内側が静かになっていった。
緊張はある。それでも頭は妙に冷えている。走っている時と同じように、今は足を動かし、目的地へ向かうことだけを考えていた。
やがて、見覚えのある橋が見えた。
低いコンクリート製の橋。その下で、薄汚れた暗渠が黒い口を開けている。
水門のような規制線はない。警察官も、自衛隊の車両も、現場を見物する人間もいなかった。
外から見れば、ただの古い水路だ。
俺だけが、その奥に何があるのかを知っている。
いや、知っているつもりになっていただけなのかもしれない。
だから、確かめるために戻ってきた。
橋の下へ下りると、湿った土の匂いがした。伸びた草が靴へ擦れ、暗渠の入口は以前と変わらず黒く沈んでいる。
あの先に、本来は存在しない横道がある。
俺の生活を変えた場所が残っている。
ゆっくり息を吐き、ヘッドライトを点けた。
右手でトレッキングポールを握り直す。
俺は、暗渠の中へ足を踏み入れた。