暗渠の中は、前に来た時と同じように湿っていた。
泥と苔、古い水の匂い。低い天井と、人一人が歩ける程度の狭い幅。ライトを向けると、コンクリートの壁を伝う水滴が細く光った。
外から見れば、ただの古い水路だ。
だが、俺はその奥に、本来あるはずのない場所が続いていることを知っていた。正確には、知っているつもりでいるだけなのかもしれない。
足元を確かめながら進む。
前回より、歩き方は落ち着いていた。あの時は暗さと狭さだけで頭がいっぱいだったが、今は滑りやすい場所を避け、壁へ肩をぶつけないよう身体をずらし、ライトを足元と横の亀裂へ順番に向けている。
ほんのわずかではあるが、探索らしい動きが身体へ染みつき始めていた。
やがて、記憶にある横道が見えた。
暗渠の壁へ、別の空間を無理やり差し込んだような穴。コンクリートの縁は途中から黒い石へ変わり、奥から乾いた空気が流れてくる。
前回は、この横道を見つけただけで胸の内側が熱くなった。怖いのに見たい。戻るべきだと分かっているのに、足が前へ出た。
今も恐怖は残っている。
ただ、何も分からないまま引き寄せられていた時とは違った。
俺は横道の前で足を止め、背後を振り返った。暗渠の出口はまだ遠くない。戻ろうと思えば戻れる。車も近くの駐車場に置いてあり、着替えや予備の水も積んである。
帰る手段が残っていることを確認してから、黒い石の通路へ入った。
空気が切り替わる。
湿った水路の匂いが薄れ、乾いた石と土の匂いが強くなった。ライトの光は黒い壁へ吸い込まれるように見え、奥まで届きにくい。
足元に落ちていた石をいくつか拾った。
拳より小さく、角があり、握りやすいもの。軽すぎず、投げた時に力を乗せられそうなものを選び、ポケットへ入れる。
水門で虫型を倒して以来、石を見る基準まで変わっていた。
今度、趣味を聞かれたら「石選び」と答えよう。鼻で笑われるところまでが一組かもしれない。
通路は静かだった。
曲がり角の位置や壁の色、床の凹凸を記憶と照らし合わせながら進む。もっとも、前回は逃げるだけで精いっぱいだった。記憶そのものが曖昧で、ダンジョンの構造が常に同じだという保証もない。
しばらく進んだところで、乾いた爪が石を擦るような音が聞こえた。
俺は足を止め、ライトの向きを下げた。正面を照らし続ければ、こちらの存在を先に知らせるかもしれない。
壁際へ寄り、曲がり角の向こうへ耳を澄ます。
足音は一つではなかった。
甲高く濁った声も聞こえる。言葉には思えなかったが、二つの声が何かをやり取りしているような調子だった。片方の足音は軽く、もう片方はわずかに重い。
ゴブリンが二体いる。
俺は静かに息を吐いた。
前回は一体に追われ、行き止まりまで逃げた。左腕を斬られ、黒い石へ手を伸ばし、そこで殺されかけた。
今、その時と同じ場所に近い通路を、二体のゴブリンが歩いている。
数が増えたのか、最初から別の個体もいたのかは分からない。少なくとも、この場所を前回と同じ状況だと考えるべきではなかった。
ポケットから石を一つ取り出し、手の中で重さを確かめる。
曲がり角までの距離、相手の足音、こちらを向くまでにかかる時間。ライトを向ける角度と、腕を振れる幅。
以前なら、相手の数を知った時点で引き返していただろう。
今の俺は、攻撃できる距離を測っていた。
水門で石を投げた時も、当てることを優先し、力を出し切る余裕はなかった。今回の相手は小さいとはいえ人型で、武器を持っている。存在に気づかれれば、こちらへ襲いかかってくる可能性が高い。
先に倒す必要がある。
俺は曲がり角の手前から、顔と肩だけをわずかに出した。
ライトの端に、緑がかった灰色の皮膚が映る。一体は粗末な石刃を持ち、もう一体は短いこん棒を握っていた。二体ともこちらには気づかず、通路の奥へ顔を向け、何かを探しているようだった。
俺は石を握り、肩を引いた。
その瞬間、右腕の内側で細い束が一斉に張りつめた。
筋肉が盛り上がったわけでも、皮膚の形が変わったわけでもない。肩から肘、手首、指先までが、石を投げるための位置へ急に整えられたような感覚だった。
「っ」
戸惑った時には、石は手を離れていた。
低い軌道で、ほとんど線のように飛ぶ。
自分が投げたものを見失いかけた次の瞬間、石刃を持ったゴブリンの額へ石がめり込んだ。
乾いた衝撃音が響き、小柄な身体が後ろへ弾かれる。壁へ背中を打ちつけ、そのまま声も上げずに床へ崩れた。
もう一体が振り返る。
その時には、俺の手は二つ目の石を握っていた。
今度は、腕の中で起きた変化を少しだけ追うことができた。肩から肘へ、肘から手首へ、力が通る道が先に作られていく。
俺は、その流れに石を乗せて放った。
こん棒を持ったゴブリンが口を開く。
声を出すより早く、石が顔の中心へ当たった。鼻か目か額かまでは見分けられなかったが、鈍い音とともに頭が後ろへ跳ねる。
身体が半回転し、こん棒を落としながら床へ倒れた。
石が転がる音が止まると、通路には元の静けさが戻った。
俺はしばらく、その場を動かなかった。
右腕には、投げた時の感覚だけが薄く残っている。痛みも疲労もない。石を放つ瞬間だけ何かが動作へ加わり、終われば引いていく。
見た目は変わらず、指も腕も問題なく動いた。
それでも、普通の投石でなかったことは明らかだった。
距離と石さえあれば、ゴブリンを先に倒せる。
前回のように、一体から逃げ続ける必要はない。こちらが先に相手を見つければ、二体でも接近される前に処理できる。
ただし、今の状況が有利だったことも忘れてはいけない。
ゴブリンはこちらに気づかず、通路はまっすぐで、射線を遮るものもなかった。石も手元にあり、投げる準備をする時間もあった。
曲がり角で鉢合わせれば、石を取り出す前に襲われる。背後から来られた場合も同じだ。
接近された時に使える手段が必要だった。
俺は倒れたゴブリンへ近づいた。
石刃には触れなかった。切れ味も耐久性も分からず、刃物を使った経験もない。粗末に見えても、前回はあれと似たものに左腕を深く斬られている。見た目だけで安全とは判断できなかった。
一方、もう一体が落としたこん棒には目が止まった。
人間用の武器というより、太い枝を削って握りやすくしたような形だった。短いが、片手で振るには十分な重さがある。
持ち帰るつもりはない。
この中で拾い、この中で使い、必要がなくなれば捨てる。
そう考えれば、手に取る抵抗は少し薄れた。
手袋越しに握ると、木とも骨とも言い切れない妙に乾いた感触があった。握りの部分には黒い汚れが染みついている。血か泥か、別の生き物の体液かは考えないことにした。
軽く振ってみる。
トレッキングポールより短く、相手との距離は取れない。その代わり、折り畳み式ではないため、近距離で力を加えても壊れそうな不安はなかった。重心も悪くない。
倒すための武器というより、接近された時に相手を止め、距離を作るための保険にはなる。
俺は二体のゴブリンを見下ろした。
以前は一体から逃げるしかなかった。
今は二体を、近づかれる前に倒した。
先へ進めるだけの力を得た証拠であると同時に、この先が前回より安全だという保証にはならない。二体で行動していた理由も、数が増えたのか、配置が変わったのかも分からなかった。
それでも、今の装備と身体なら、もう少し先までは確認できる。
ポケットに残った石を確かめる。あと三つ。足元にも、拾えそうな石は転がっている。
こん棒を右手へ持ち、折り畳んだトレッキングポールはリュックの横へ残した。相手との距離に応じて使い分けるしかない。
通路の奥から、小さな音がした。
足音というより、石が一つ転がったような音だった。風なのか、何かが動いたのかは分からない。
俺はライトを少し下げ、こん棒の握りを確かめた。
前回のように、恐怖だけで立ち止まりはしなかった。
倒れたゴブリンの横を抜け、音のした暗がりへ進んだ。