暗がりの輪郭を拾えるようになったからといって、ライトを消す気にはなれなかった。見えるといっても、壁や床の形がぼんやり浮かぶ程度だ。色は分からず、細かな傷や罠まで判別できるわけでもない。それでも、これまで黒く潰れていた場所から壁の凹凸や床の傾きを読み取れるだけで、動きやすさはまるで違う。俺はライトを低く構え、左手に石、右手にこん棒を持ったまま進んだ。
通路の形には、少しずつ見覚えが出てきた。前回は逃げるだけで精一杯だったため、まともに覚えていないと思っていた。だが、壁に肩をぶつけた場所や、足を取られそうになった床の段差、息が詰まりそうなほど狭くなった通路など、体の方には断片が残っていたらしい。進むたびに、あの時の焦りが薄く蘇ったが、今はもう飲み込まれるほどではなかった。
途中で、ゴブリンを一体見つけた。通路の奥に立ち、こちらとは反対側を見ている。手にしているのは石刃ではなく、真っ直ぐな棒の先へ尖った石片を縛りつけた短い槍のようなものだった。粗末な作りではあるものの、先ほどまで見てきた石刃よりは、少しだけ武器らしい。
俺は足を止め、石を握った。
距離はある。相手はこちらに気づいていない。なら、やることは決まっている。
投げる瞬間、腕の奥が張った。先ほどより戸惑いは少なく、肩から指先までの力が一本の線になる。その線へ乗せるように放った石は真っ直ぐ飛び、ゴブリンのこめかみに当たった。小さな体が横へ弾かれ、壁にぶつかって崩れ落ちる。手から離れた槍もどきが、音を立てて床を転がった。
近づいて確認すると、死体はまだ残っていた。今回は白い糸も出てこない。出る時と出ない時に、どんな違いがあるのかは分からなかった。吸収するものを選んでいるのか、先ほどの一体で十分だったのか、それとも俺が知らないだけで別の理由があるのか。考えても答えは出ない。
俺は落ちている槍もどきには触れなかった。長さはあるが作りが悪く、まともに使えば一度で折れそうだった。
その後も、進行は思っていたより順調だった。ゴブリンは現れたが、距離があれば石で倒せる。近づかれそうになっても、こん棒で牽制できた。以前は逃げるしかなかった相手が、今では対処できる相手になっている。その事実には、まだ自分でも馴染めないような違和感があった。
ただし、奥へ進むほど、ゴブリンの様子が少しずつ変わっていることにも気づいた。
二体で行動する個体が増え、片方が前に出る間、もう片方は少し後ろに立っていた。手にする武器も、ただの石刃や棒ばかりではない。板切れのようなものを片腕へ縛りつけた奴もいた。盾と呼ぶには粗末だが、顔の前へ持ち上げれば投げた石を防げるかもしれない。実際に一度、俺の石はその板へ当たり、軌道を逸らされた。
俺はすぐに二投目を用意したが、ゴブリンはその間に声を上げようとした。喉を膨らませた瞬間、放った石が顎へ入り、声を出せないまま倒れる。その体の後ろで、もう一体がこちらへ向き直った。
そいつは逃げず、石刃を握って突っ込んできた。距離は近く、石を投げるよりも待ち構えた方が早い。
俺は半歩引き、こん棒を横へ振った。
石刃を持つ腕へ当たり、ゴブリンの体勢が崩れる。そこへ膝を入れるように踏み込み、頭へもう一撃を加えた。床へ倒れた体は、そのまま動かなくなった。
ゴブリンの動きは、以前よりも雑ではなくなっていた。急に強くなったわけでも、一体一体の力が劇的に増したわけでもない。それでも、武器は少しずつ整い、行動する数が増え、個体ごとの役割らしきものまで見え始めている。前へ出る奴、後ろから声を上げようとする奴、板を構える奴、通路の角に立って周囲を見張る奴。増えているのは数だけではなく、質も少しずつ上がっていた。
それが分かったところで、進むのをやめる理由にはならなかった。むしろ、今のうちに確かめておくべきだと思った。ここで引き返しても、俺の中にいるものの正体は分からない。水門の奥で何が起きているのかも、最初の場所に何が残っているのかも分からないままだ。
やがて、通路の先が小さく開けた。
足を止めた俺の前にあったのは、見覚えのある部屋だった。
六畳ほどの黒い石室。低い天井と、同じ黒ずんだ石でできた壁と床。その中央には、石を積み重ねたような簡素な台座がある。
祭壇。前回、あの黒い石が置かれていた場所だ。
俺はしばらく動けなかった。怖いという感覚とは、少し違う。ここで石を手に取り、ゴブリンに斬られ、必死になって逃げた。そして、この場所から俺の人生は完全に違う方向へ曲がった。そんな場所へ、もう一度戻ってきたのだ。
台座の上に、黒い石はなかった。あれは割れ、中にいた白いものは俺の中へ入ったのだから、残っているはずがない。それでも、空になった台座を目にすると、胸の奥が妙に静かになった。
本当に、祭壇だけが残っている。
俺は台座へ近づいたが、すぐには触れなかった。ライトを当てる角度を変えながら、その周囲を確かめる。黒い殻の欠片らしきものはほとんど見当たらない。床の隅に黒っぽい粉が残っているようにも見えたが、石についた汚れとの区別はつかなかった。文字も絵もなく、ここで何が起きたのかを示す説明もない。
見た目だけなら、ただの台座だった。だが、そう言い切るには、ここで起きたことが大きすぎる。
その時、胸の奥へ、知らない感情が落ちてきた。
最初に浮かんだ言葉は、懐かしい、だった。
俺にとって、ここは懐かしむような場所ではない。死にかけ、人生を勝手に変えられた場所だ。それなのに胸の奥では、長い間離れていた場所へ帰ってきたような感覚が広がっていた。
帰ってきたのに、もう何も残っていない。そんな薄い寂しさまで、ほんの一瞬だけ流れ込んでくる。
気づけば、俺は息を止めていた。
言葉でも記憶でもなく、誰かの声が聞こえたわけでもない。ただ、感情の切れ端だけが自分の中へ混ざったような感覚だった。俺のものではないと分かるのに、完全な他人事として切り離すこともできない。胸の奥へ落ちたそれは、すぐに薄れていった。
「……お前、ここを知ってるのか」
返事はなかった。
当然だ。今までだって、まともな返事をされたことは一度もない。俺の中にいる何かは、体を補助し、傷を塞ぎ、死体を吸収し、能力らしきものを増やしてきた。だが、会話はせず、こちらの問いにも答えない。
それでも、今の感覚はこれまでとは違った。
ただの本能に、懐かしさなどあるのか。寄生虫が、何も残っていない場所を見て寂しさを覚えるのか。
答えは分からない。それでも俺は初めて、自分の中にいるこいつそのものへ興味を持った気がした。自分の体がどう変えられるのかという疑問だけではない。こいつは何を失い、なぜここにいて、何を覚えていないのか。考えるほど、疑問ばかりが増えていく。
祭壇は、何一つ答えを返さなかった。
俺は台座をもう一度見つめた。手を伸ばしかけたが、途中で止める。今ここで、不用意に触る必要はない。
写真を撮ることも考えたものの、スマホを取り出すのはやめた。記録が残れば便利だが、その記録が厄介なものになる可能性もある。必要なら後で紙に描けばいい。今は形や位置、部屋の広さ、台座の高さを頭へ入れておけば十分だった。
ここにいても、これ以上のことは分からない。そう判断するしかなかった。
なら、先へ進む。
祭壇の奥には、前回俺が逃げ込んだ通路がある。台座の横を抜け、さらに深い暗がりへ続いていた。あの時は、ゴブリンから逃げるために走っただけだった。今度は、自分から何かを探すために進む。
俺はこん棒を握り直し、左手の石を確かめた。ライトの光を奥へ向けると、その外側にも暗がりの輪郭がわずかに浮かび上がる。
空になった祭壇を背にして、俺はその先へ進んだ。