祭壇の奥へ続く通路は、前に逃げ込んだ時よりも長く感じられた。実際に距離が伸びているのか、それとも俺の足取りが遅いだけなのかは分からない。あの時は左腕から血を流し、右手に黒い石を握りしめ、背後から迫るゴブリンから逃げるために走っていた。今は石とこん棒を持ち、ライトを構え、自分の意思で奥へ進んでいる。
それだけの違いなのに、通路の見え方は大きく変わっていた。黒い壁も、床の細かな段差も、頭上を圧迫する低い天井も、前回は逃げ場のなさを突きつけてくるものにしか見えなかった。今は、敵が潜めそうな場所や石を拾える場所、後退しながら戦える幅があるかを確かめている。自分がそんな目でダンジョンを見るようになったことに、少しだけ苦笑しそうになった。
「なあ」
声は思ったより小さく出た。
誰に向けた言葉なのかは、考えるまでもない。ここには俺以外の人間はいない。正確に言えば、俺の中に何かがいるだけだ。
「さっきの祭壇、お前の場所だったのか」
返事はなかった。
分かっていたことだ。頭の中へ声が響くことも、言葉で答えてくれることもない。それでも口に出してみると、ただの独り言とは少し違う感覚があった。相手へ問いかけているのに、答えは最初から期待していない。
「懐かしいって感じたのは、俺じゃない。たぶん、お前だろ」
通路は静かなままだった。こん棒を持つ手には、先ほどまで付着していた血の重さが、まだ残っているような気がする。俺は足を止めずに続けた。
「答えなくていい。どうせ答えられないんだろうし」
口にしてから、妙な気分になった。話しかけている相手は寄生虫だ。勝手に体へ入り込み、傷を塞ぎ、死体を吸収し、俺の腕を強くした何か。普通なら、会話の相手として扱うような存在ではない。
だが、祭壇で流れ込んできた感情を思い出すと、単なる道具や病気のようにも思えなかった。
あの懐かしさと寂しさが、本当にこいつのものなら、内側には何かがある。言葉にできないだけで記憶が残っているのかもしれないし、記憶を失っても感情だけが残ったのかもしれない。
「お前、何なんだろうな」
やはり返事はなかった。
代わりに、前方から小さな物音が届いた。
俺は足を止め、口を閉じた。通路の先は緩やかに曲がっている。ライトを向けると、光を受けた奥の壁が黒く鈍く反射した。聞こえてくるのはゴブリンらしい軽い足音だが、今回は妙に間隔が整っている。
見張りかもしれない。
曲がり角の手前で身を低くする。暗がりの輪郭を拾えるおかげで、ライトを真正面へ向けなくても壁の位置は分かる。俺は床に落ちていた石を拾って左手に握り、右手のこん棒を下げたまま、わずかに角の向こうを覗いた。
そこにはゴブリンが一体いた。
ただ立っているのではなく、壁際へ身を寄せ、通路の手前を見張っている。手には短い槍を持ち、足元には拳ほどの石がいくつかまとめて置かれていた。偶然転がっているようには見えない。
嫌な感じがした。
今までのゴブリンは、こちらを見つければそのまま襲ってきた。だが、こいつは何かを待っている。少なくとも、通路の入口を監視する役割を与えられているように見えた。
俺は石を握り直した。気づかれる前に倒すと決めた瞬間、ゴブリンの耳がぴくりと動く。こちらを見たわけではないが、何かに気づいたらしい。
間を置かずに石を投げた。
腕の奥が張り、放たれた石が真っ直ぐ飛ぶ。こめかみを狙ったものの、ゴブリンは直前にわずかに体を引いた。完全には避けきれず、石が額の端へ当たり、皮膚を裂きながら弾ける。ゴブリンは倒れたが、短い悲鳴が漏れた。
舌打ちしかけた俺は、すぐに前へ出た。
奥で足音が増えている。やはり、あれは見張りだったらしい。
二体、いや、三体。
通路の奥から走ってくる音を聞きながら、俺は次の石を握った。最初の一体が姿を現した瞬間に投げる。石は胸へ当たったが、相手は倒れなかった。体の前に構えていた板が砕け、勢いを殺したらしい。ゴブリンはよろめきながらも足を止めず、そのまま迫ってくる。
すでに近い。
俺はこん棒を構えた。
振るわれた石刃を半歩引いてかわし、横からこん棒を叩きつける。武器を持つ腕が弾かれた。続けて頭を狙おうとしたところで、奥から二体目が飛び出してくる。そいつは短い棒を突き出すように構え、俺の足元を狙っていた。
動きが雑ではない。
前の一体を押し倒すように蹴り、俺は横へ逃れた。足を狙った棒が石の床を打つ。左手の石を投げるには近すぎたため、そのまま叩きつけるように腕を振った。石は二体目の頬へめり込み、顔の半分を潰す。そいつは声も上げずに倒れた。
最初の一体が起き上がろうとしている。
俺は頭へこん棒を振り下ろした。鈍い音が響き、体から力が抜ける。
残る一体は少し後ろで立ち止まり、喉を膨らませていた。仲間を呼ぶつもりだ。
床の石を拾っている時間はない。そう判断した俺は、右手のこん棒を投げつけた。
こん棒は綺麗な軌道では飛ばず、回転しながら壁へ当たった。跳ね返った先端がゴブリンの肩へぶつかり、喉の膨らみが崩れる。声が途切れた隙に走り寄り、落ちていた板の破片を蹴り飛ばしながら踏み込んだ。
一瞬、拳で殴ることをためらったが、右手はすでに動いていた。こん棒を拾い直す余裕はない。俺はゴブリンの顔を壁へ押し込むように殴りつけた。
拳に硬い感触が返り、遅れて痛みが走る。それより先に、骨らしきものが砕ける感覚が伝わった。ゴブリンの体は壁に跳ね返され、そのまま床へ崩れ落ちた。
息が上がり、右腕にも痺れが残っていた。
投石だけで済む状況なら、もっと楽に倒せる。距離があり、相手がこちらへ気づかず、射線が通っていれば問題はない。だが、一度その流れが崩れると、一気に面倒になる。盾代わりの板を持つ奴、見張る奴、仲間を呼ぶ奴、足元を狙う奴。一体ずつなら弱くても、役割を組み合わせられるだけで手間が増える。
俺は倒れた三体を見下ろした。
先ほどまでのゴブリンとは違う。単純に強いというより、戦いにくくなっていた。
「……お前らも、奥に行くほどまともになるのか」
返事の代わりに、通路の奥から空気が流れてきた。
俺は投げたこん棒を拾い上げた。壁へぶつけたせいで先端が欠けている。まだ使えるものの、それほど長くはもたないだろう。現地で拾ったものとしては十分だ。使えなくなれば、その時に捨てればいい。
今回は白い糸が出てこなかった。
三体の死体はそのまま残り、俺の中からも反応はない。吸収すると思っていたが、食う気がないのか、すでに必要がないのか、それともこいつにも好みがあるのか。
「好き嫌いするのか、お前」
当然、返事はない。
それでも、声をかけること自体には少し慣れてきていた。誰もいない通路で、体の中にいる何かへ話しかけている。傍から見れば、かなり危ない人間に見えるだろう。けれど、実際に俺の中には何かがいるのだから、話しかけるくらいはおかしくないと思うことにした。
俺は三体の横を抜け、さらに奥へ進んだ。
しばらく敵は現れなかった。通路は緩やかに下っているらしく、床の傾きが少しずつ変わり、壁の黒さも濃くなっていく。空気は乾いていたが、奥から微かに別の匂いが漂っていた。ゴブリンの血や体臭とは違う。土と石の匂いに、焦げた木のような臭いが混じっている。
やがて、通路の幅が広がり始めた。
俺は足を止めた。
嫌な予感がした。
水門の時と同じだった。通路の先へライトを向けても、光が壁へ当たらず奥へ吸い込まれていく。天井も高くなり、床が左右へ広がっていた。
広間だ。
そして、ボス部屋という言葉が自然に浮かんだ。
以前なら、そう考えても認めたくなかったかもしれない。だが、すでに水門で経験している。狭い通路が突然開け、空気の重さが変わり、奥まで見通せない場所には、何かがいる。
俺は広間の入口の手前で止まり、足を踏み入れずに内部を調べた。ライトを動かし、床、壁、天井の順に確認する。水門にいた大型スライムは天井へ潜んでいた。今回は最初から頭上を警戒する。
見える範囲の天井には、何もいない。
それでも警戒は解かなかった。
広間の中央に、何かが立っている。
ゴブリンではある。だが、これまでの個体より明らかに大きかった。子供ほどの背丈しかなかった連中とは違い、小柄な大人に近い。背中は曲がり、腕が不自然なほど長い。緑がかった灰色だった他のゴブリンよりも皮膚は黒く、肩には獣の皮らしきものを掛けていた。
手にしているのは太い棍棒だ。木の枝や石片をそのまま使ったものではない。先端へ黒い石のような塊を埋め込んだ、見るからに重そうな武器だった。
そいつは広間の中央に立ち、こちらへ背を向けている。
周囲には、小さなゴブリンが二体いた。片方は板を持ち、もう片方は短い槍を構えている。護衛か取り巻きかは分からないが、これまで通路で遭遇した連中とは明らかに配置が違った。
俺は呼吸を浅くした。
ここがボス部屋なら、踏み込んだ瞬間に戦闘が始まる可能性がある。水門の広間では、配信者が一歩入った途端に大型スライムが落ちてきた。ここも同じ仕組みとは限らないが、決められた場所を越えることが何かのきっかけになる可能性は高い。
引き返す考えは、当然浮かんだ。
祭壇は確認できた。寄生虫のものらしき感情にも触れ、奥へ進むほどゴブリンの質が上がっていることも分かった。ボスらしき存在まで見つけた以上、帰る理由は十分にある。
だが、広間の奥に何かが見えた。
台座ではなく、水門で見た宝箱とも少し違う。黒い石壁には縦長の亀裂が走り、その手前に箱か壺、あるいは石の器のようなものが置かれている。距離があるため形までは判別できなかったが、自然に転がった岩ではなかった。
あれを確かめずに帰れるか。
自分へ問いかけた時には、すでに答えが出ていた。
「……行けると思うか」
体の中の何かは答えない。
俺は左手の石を握り直し、右手のこん棒を持ち上げた。
まだ広間へは入らない。まず、入口からどう崩すかを考える。
距離があれば石を使い、接近されたらこん棒で迎える。光の届かない場所では、暗がりに浮かぶ輪郭を頼りにする。今の俺が持っている手札は、それだけだった。
これで足りるのか。
広間の中央で、黒い獣皮をまとった大きなゴブリンが、ゆっくりと顔をこちらへ向けた。
目が合ったような気がした。
俺は一歩も動いていない。まだ、広間の中へ足を踏み入れてすらいない。
それなのに、そいつは笑うように口を開いた。