明日から探しに行く。そう決めた翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。
会社に行かなくていい朝だった。
正確には、まだ会社員ではある。退職日までは籍が残っており、有休を消化しているだけだ。それでも目覚ましに急かされて起きる必要はなく、満員電車に乗ることも、上司の顔色をうかがうことも、意味があるのか分からない資料を直すこともない。
自由だった。
そう思った瞬間に胸が軽くなり、同時に胃のあたりが少し重くなった。本当に、会社を辞めるところまで来てしまったのだ。
部屋の床には、昨夜用意したリュックが置いてある。ヘッドライト、懐中電灯、手袋、ロープ、水、携行食、救急セットと、中身を一つずつ確認していくと、馬鹿げた遠足の準備をしているようにも見えた。
遠足なら、まだよかったのかもしれない。俺がやろうとしているのは、地図とネットの噂を頼りに、存在するかも分からない未発見のダンジョンを探しに行くことだ。冷静に考えればかなり痛い行動だったが、それでも玄関で靴ひもを結ぶ手は止まらなかった。
最初に向かったのは、川沿いだった。
ネットでは、ダンジョンの入口は水辺に現れやすいという噂が、それなりに広まっていた。理由を説明できる者はいない。ただ、公式発表前に出回っていた画像のいくつかが、山中の沢や古い水路の近くで撮影されていたため、そう言われているだけだった。
信憑性は低いが、最初から確実な情報などあるはずもない。
駅から二十分ほど歩いた場所にある川は、普段なら散歩中の老人か、自転車で通り過ぎる学生くらいしか見かけないような場所だった。川幅は広くなく、水も綺麗とは言い難い。護岸されたコンクリートの隙間から雑草が伸び、ところどころに空き缶やペットボトルが転がっている。
俺はスマホの地図を確認しながら、橋の下や排水口の周辺を一つずつ調べていった。
結果から言えば、何もなかった。橋の下はただの橋の下で、排水口の奥には錆びた金網があるだけだった。ライトを向けて近づけば泥の匂いが漂い、虫が飛び、靴底には湿った土がまとわりつく。ダンジョンらしいものは、どこにも見当たらなかった。
それでも俺は、昼過ぎまで川沿いを歩いた。怪しいと思った場所には近づき、地図に印をつけ、違った場所には小さくバツをつける。誰かに見られれば、完全に不審者だったと思う。
途中、犬を散歩させていたおばさんと目が合い、俺は反射的に会釈した。おばさんも会釈を返してきたが、その顔には少し警戒が浮かんでいた。
その瞬間、自分が何をしているのか急に恥ずかしくなった。
会社を辞め、平日の昼間から橋の下を覗き込んでいる三十歳の男。客観的に見れば、かなり危ない。
一日目は、何も見つからないまま終わった。
二日目は、もう少し郊外へ出た。古い工業地帯の近くに、使われなくなった地下通路があるという投稿を見つけたからだ。投稿者によれば、そこでスマホの電波が急に悪くなり、奥から冷たい風が吹いてきたらしい。
いかにもな内容で、いかにもすぎるせいで嘘くさかったが、それでも俺は現地へ向かった。
着いてみると、そこにあったのは地下通路ではなく、ただの歩行者用トンネルだった。壁にはスプレーの落書きがあり、天井の照明は半分ほど切れている。確かに雰囲気はあったが、通路の反対側には普通に道路が見えていた。
冷たい風は吹いていたものの、反対側から抜けてきているだけだった。スマホの電波も悪かったが、それもトンネルの中だからだろう。
「……だよな」
自分で呟き、自分で虚しくなった。
それでも周辺を歩き、古い倉庫の裏や封鎖された駐車場、コンクリートの裂け目、排水溝の奥まで、怪しいと思える場所はできる限り確認した。しかし、そこにあったのは何の変哲もない現実だけだった。
三日目には、少し慣れてきていた。慣れたくはなかったが、朝に地図を確認し、ネットから噂をいくつか拾い、現地へ向かって外れを確認する流れができてしまっていた。別の場所へ移動してまた外れ、帰宅後に地図の印を増やし、風呂に入って適当に飯を食い、再び検索を始める。
それを繰り返していると、まるで仕事のように思えてきた。
実際には、仕事の方がまだ成果がある。少なくとも決まった時間に行けば給料が出るが、今の俺には何の保証もなかった。
その日向かったのは、心霊スポットとして名前が出ていた廃道だった。
すでに有名な場所だったらしく、俺が着いた時には若い男たちが三人、スマホを片手に騒いでいた。
「ここマジで出るらしいっすよ」
「ダンジョンだったらやばくね?」
「入れたら動画伸びるって」
声が大きいため、少し離れた場所にいても会話が聞こえてきた。
彼らは肝試し半分、動画撮影半分といった様子で、ライトを振り回し、入口らしき場所の前でポーズを取りながら、笑って中を覗いている。
その奥にあったのは、崩れかけた古い道だった。少なくとも俺には、ダンジョンには見えない。
なぜ分かるのかと聞かれても答えられないが、そこにはニュースで見た黒い入口のような、こちらを引き込む違和感がなかった。ただ古く、暗く、危険な場所にしか見えなかったため、俺は近づかずに引き返した。
四日目になると、足が痛み始めていた。慣れない距離を歩き続けたせいでふくらはぎが張り、肩にもリュックの重さが残っている。靴擦れまではしていないが、足の裏がじんわりと熱かった。
体力がないのは当然だった。俺は探索者でも冒険者でもなく、デスクワーク中心の生活を送ってきた三十歳の元会社員にすぎない。そんな人間が急に毎日歩き回れば、身体に負担が出る。
駅前のベンチに座り、コンビニで買ったおにぎりを食べながら、俺は地図を広げた。赤い丸とバツは少しずつ増えているが、それだけだった。何かを見つけた印は、一つもない。
スマホには、新しいダンジョン関連のニュースが流れていた。政府は未確認の入口への接近を控えるよう改めて注意喚起しており、登録制の調査員制度についても、近く詳細を発表する予定だという。
コメント欄は盛り上がっていた。
自分も探索者になる。会社を辞める。核で一発当てたい。どうせ上級国民だけが得をする。危ないから一般人を入れるな。
並んだ文字を眺めながら、俺は少し笑った。
会社を辞める。その冗談のような言葉を、俺はすでに実行してしまっている。それなのにダンジョンは見つからず、ただの無職へ近づいているだけだった。
そう考えた瞬間、胸の奥へ冷たいものが落ちた。
俺は、何をしているのだろう。
できるだけ考えないようにしていた問いだったが、一度浮かんでしまうと、なかなか消えてくれなかった。
会社を辞めたのに、次の仕事は決まっていない。親にもまだ話しておらず、友人に説明できるような理由もない。それでいて、やっていることはネットの噂を頼りに橋の下や廃道を覗き込むことだった。
自分でも笑えなかった。
その日は早めに帰るつもりだった。これ以上歩いても、まともな判断ができる気がしない。疲れた頭で危険な場所へ入れば、それこそ洒落にならないと思い、駅へ向かって歩き始めた。
その途中、川沿いの細い道を通った時、ふと視界の端に古い橋が入った。
車が一台通れるかどうかという幅の、低いコンクリートの橋だった。欄干には黒ずんだ苔がこびりつき、その下には今ではほとんど水の流れていない細い水路がある。
見覚えがあり、足が止まった。
そこは地図に印をつけていない場所だった。ネットにも名前は出ておらず、心霊スポットでもなければ、誰かが動画にしているわけでもない。検索したところで、恐らく何も出てこない。
ただ、俺が知っている場所だった。
子供の頃、近所の友達と探検ごっこをしながら、このあたりを何度か歩き回ったことがある。橋の下を覗き込み、石を投げ、暗い水路の奥を見ながら、誰が一番先まで行けるかと騒いだ。
大人からは、危ない、汚い、奥で迷えば出られなくなると注意されていた。それでも、近づくなと言われるほど気になった。
水路の奥には、人がかがめば入れるくらいの暗渠があったはずだ。小さなトンネルのような入口で、昼間でも内部は暗く、奥は途中で曲がっているため、外からでは先が見えなかった。
俺たちはそこを、秘密基地の入口のように扱っていた。
結局、奥までは行かなかった。誰かが怖がったのか、俺が怖がったのか、それとも本当に危険だったのか、記憶は曖昧だったが、途中で引き返したことだけは覚えている。
俺は橋の下へ降りた。草が伸びていて足元は悪く、湿った土の匂いがする。誰も手入れしていないのか、水路の周りには枯れた枝やビニール袋が溜まっていた。
暗渠は、今も残っていた。
思っていたより小さい。子供の頃にはもっと大きく見え、奥へ続く闇も怪物の口のように感じられたが、今見るとただの古い排水路だった。コンクリートは黒ずみ、入口の縁は欠け、内側には泥が溜まっている。
思い出補正というものだろうと、俺は苦笑した。こんな場所にダンジョンがあるはずはないと思ったのに、足は動かなかった。
ヘッドライトを取り出して額につけ、スイッチを入れると、白い光が暗渠の中を照らした。奥は狭く、壁は湿り、地面には浅く水が残っている。子供の頃に見た景色と、大きくは変わっていなかった。
俺は少しだけ中へ入った。腰をかがめなければ進めず、リュックが壁に擦れ、靴の下で泥が鳴る。進むにつれて、外の音が少しずつ遠くなっていった。
ここで怪我をすれば馬鹿らしい。ただの暗渠で滑って転んだところで、笑い話にもならない。頭のどこかでは引き返せと考えていたが、もう少しだけ進み、何もなければ帰ればいいと自分に言い聞かせた。
曲がり角を越えた時、冷たい風が吹いた。
暗渠の中で空気が動くこと自体は、おかしくない。どこかに出口があれば風は通り、水路ならなおさらだった。
ただ、その風は妙だった。湿った泥とも、外の草や川とも違う、もっと冷たく乾いた、古い石の奥から流れてくるような匂いがした。
俺は立ち止まり、ライトを向けた。
そこに横道があった。
「……こんなの、あったか?」
声が暗渠の中で小さく反響した。
記憶の中にはない。子供の頃、ここには何度も来ていた。奥まで入れなかったとはいえ、入口から曲がり角までは繰り返し覗いていたため、こんな横道があれば絶対に覚えている。
壁の一部が、ぽっかりと抜けていた。コンクリートの割れ目でも、工事で設けられた排水管でもない。そこだけが別の場所へつながっているように見えた。
ライトを向けても奥は見えず、闇が光を飲み込んでいるようだった。
俺はスマホを取り出して画面をつけた。圏外ではないが、コンパスの針が落ち着かない。北を示すはずの表示がゆっくり回ったかと思えば、急に逆方向へ跳ねる。
喉が鳴った。
何日も歩き回り、橋の下も、排水口も、廃道も、地下通路も、すべて外れだった。それなのに最後に思い出しただけの場所で、子供の頃に怖くて奥へ行けなかった場所で、俺は恐らく見つけてしまった。
横道の奥から、もう一度冷たい風が吹いた。
逃げろと思う一方で、行けという気持ちもあった。
俺はリュックの肩紐を握り直した。心臓はうるさく、足も震えていたが、それでも視線だけは横道の奥から外せなかった。
探していたものは、ここにあったのかもしれない。
俺は一歩、横道へ足を踏み入れた。