帰ると決めてからの足取りは、思っていたより安定していた。広間を出る時には何度も背後を確認したくなったが、振り返ったところで何かが分かるわけでもない。レッドキャップは消え、大柄なゴブリンも取り巻きも、床に広がっていた血さえ、ダンジョンへ吸い込まれるように薄れていった。残っているのは、壊れたトレッキングポールと、リュックの底へ入れた赤錆の山刀だけだ。
山刀は重くない。むしろ武器としては軽い部類に入るはずなのに、背負っていると妙な存在感があった。タオルとビニール袋で包んでいても、背中のすぐ近くに刃物があるという感覚までは消えてくれない。持ち帰るべきではないという理屈も、まだ頭の端には残っていたが、罪悪感があるわけではなかった。あの場所へ置いてくる方が嫌だった。それだけだ。
来た道を戻っていく。暗がりの輪郭を拾えるおかげで、ライトを奥へ向け続けなくても足元を見失わずに済んだ。壁の凹凸や床の段差、曲がり角の形まで、以前なら黒く潰れていた場所が薄い線となって浮かんでいる。便利になったと思う一方で、それを当たり前のように使い始めている自分には、まだ少し抵抗があった。
途中、ゴブリンの死体があったはずの場所を通った。そこにはもう、壁際へ粉のようなものが薄く散っているだけで、それが俺の倒したゴブリンの残骸なのか、ダンジョンに吸われた後に残ったものなのかも分からない。今は確認しないことにして、足を止めずに通り過ぎた。立ち止まれば、また余計なことを考え始める。
祭壇の部屋へ戻ると、空になった台座が相変わらず中央に置かれていた。黒い石も、そこで起きたことを説明するものも残っていない。ほんの少し前、この場所で懐かしさや寂しさのような感情が流れ込んできたことを思い出したが、今度は台座へ近づかなかった。
「帰るぞ」
足を止めずに言う。当然ながら返事はない。
「今日はもう無理だ。お前のことも、山刀のことも、赤い帽子のことも、全部明日だ」
体の中にいる何かへ話しかけているのか、自分へ言い聞かせているのかは分からなかった。たぶん、その両方なのだろう。答えが返ってこない以上、独り言と大して変わらない。それでも、頭の中だけで同じことを考え続けるよりは気が楽だった。
暗渠へ続く横道へ近づくにつれ、空気が少しずつ湿り始めた。乾いた石の匂いが薄れ、泥と苔、古い水の臭いが戻ってくる。ダンジョンの奥で何を見た後でも、この匂いが近づくと少しだけ安心できた。現実へ戻ってきたように感じるのだ。もっとも、この暗渠もすでに普通の場所とは言えないのだが。
暗渠へ入る前に一度立ち止まり、リュックの中身を確かめた。赤錆の山刀は、タオルとビニール袋に包まれたまま収まっている。壊れたトレッキングポールもあり、血の付いた手袋は外側へ触れないよう、予備の袋へ押し込んだ。腕の傷は浅く、背中と腹も痛むものの歩けないほどではない。骨が折れているような感覚もなかったので、おそらく大丈夫だと思うしかない。
今の俺が使う「たぶん」ほど、信用できない言葉もなかった。
それでも帰るしかない。病院へ行けば怪我の理由を説明する必要があるが、話せることなど何もなかった。ゴブリンと戦い、レッドキャップに蹴られ、首のない死体が動き出した末に山刀を持ち帰ったなど、誰かに話したところで信じてもらえるはずがない。
俺は暗渠の低い天井をくぐり、湿ったコンクリートの水路を戻った。まだ外の光は見えないが、空気は明らかに変わっている。遠くから車の走る音が届き、鳥の声も聞こえた。ダンジョンの奥ではあれほど遠く感じた日常が、もうすぐそこまで戻ってきている。
やがて、薄い昼の光と橋の下に落ちる影が見え、草の匂いが鼻に届いた。俺は前回のように転がり出ることもなく、ゆっくりと暗渠の外へ出た。膝は多少震えていたが、歩くことはできる。傍から見れば、少し疲れた散歩帰りの男に見えなくもないはずだと思いたかった。
周囲を見回したが、誰もいなかった。水門の時のような封鎖線も警察官もなく、犬を散歩させる老人や学校帰りの子供、配信者らしい人間の姿も見当たらない。ただ、古い橋と伸びた草、水の少ない水路があるだけだった。
俺は暗渠を振り返らずに橋の下を離れた。今ここで後ろを見れば、黒い石や祭壇、ゴブリン、レッドキャップ、大柄なゴブリンの死体を動かした何かについて、また考え始めてしまう。帰る前に整理できるような量ではない。今は家へ戻ることだけ考えればいい。
人通りの少ない道を選んで歩いた。リュックが背中へ当たるたびに山刀の存在を思い出したが、抱いているのは罪悪感よりも実用的な不安だった。途中で落としたらどうするのか。誰かに呼び止められたら、あるいは中身を見られたら、どう言い訳するのか。
幸い、何も起こらなかった。
コインパーキングまでの道は拍子抜けするほど普通だった。住宅街の端を歩き、停められた車の横を通る。少し離れたところで自転車のブレーキが鳴り、どこかの家からテレビの音が漏れていた。昼間の生活音に囲まれた、いつもの世界だ。その中を歩く俺だけが、リュックの底へ別の場所のものを隠している。
車へ着くと周囲を確かめ、後部座席のドアを開けてリュックを置いた。肩から重さが消えた分だけ体は楽になったが、今度は車の中に赤錆の山刀があるという事実が、別の重さとなって残った。
着替えを取り出し、汚れた上着を軽く払う。暗い色の服を選んでいたおかげで血は目立たず、痛む腕や脇腹も外から見ただけでは分からなかった。タオルで顔を拭き、靴に付いた泥もできる範囲で落とした。完璧とはほど遠いが、ここで長居する方が危ない。
運転席へ座ったものの、すぐにはエンジンをかけられなかった。手が震えているわけではなく、キーも回せるし、ハンドルやペダルを操作することもできる。ただ、フロントガラス越しに見える住宅街があまりにも普通で、頭の切り替えが追いつかなかった。
数十分前まで、俺は赤い帽子をかぶった怪物に殺されかけていた。それが今は軽自動車の運転席に座り、レンタカーの返却時間を気にしている。差が激しすぎて、どちらが現実なのか一瞬分からなくなりそうだった。
「もう処理能力が限界だっぴ……」
口から出た言葉は、かなり情けなかった。疲れすぎると、人間は変な語尾になるらしい。壊れてもいいじゃない、人間だもの。
笑いそうにはなったが、実際に笑うところまではいかなかった。それでも泣き出すよりはましだと思い、エンジンをかける。ナビの目的地は、家の前ではなく自宅から少し離れたコインパーキングへ設定した。そこから歩いて帰った方が目立たないだろうという程度の判断しか、もう残っていなかった。
帰りの運転は順調だった。信号で止まり、横断する歩行者を待ち、右折車を先へ行かせる。コンビニの前を通ると配送トラックが停まっており、学生が自転車で車の横を抜けていった。何も特別なことは起きないのに、赤信号で止まるたび、緊張が遅れて体へ戻ってくるような感覚があった。
後部座席のリュックには山刀が入っている。レッドキャップは消え、広間にあった器には触らず、大柄なゴブリンの棍棒も置いてきた。祭壇では何も見つからず、俺の中にいる何かは、俺の知らないところで死体を動かした。
どれも運転中に考えていい内容ではない。
俺は信号や前の車のブレーキランプ、横断歩道、制限速度といった、意味の分かるものだけを見ることにした。今すぐ答えの出ないことは、家へ帰るまで全部後回しにする。
レンタカーを返す前に、一度だけ人気のない場所へ車を停めて荷物を確認した。山刀を包んだタオルとビニール袋は解けておらず、血の臭いが外へ漏れている様子もない。壊れたポールも袋の中へ収まっている。それだけ確かめてから店へ向かい、車を返した。
店員に何かを言われることはなく、返却手続きはいつも通りに進んだ。車体の状態を確認し、精算を済ませ、最後にありがとうございましたと声をかけられる。それだけで終わったことが、かえって不思議に感じられた。
俺はついさっきまで、とんでもない場所にいたはずだ。それでも社会は俺の事情など知らず、決められた手続きを行い、そのまま動き続けている。
店を出た後は、リュックを背負って自宅まで歩いた。人通りの少ない道を選んだつもりだったが、スーツ姿の男や買い物袋を提げた女、スマホを見ながら歩く若者とは何度かすれ違った。誰も俺を気に留めない。目に入ったとしても、そのまま通り過ぎるだけで、リュックの底へ赤錆の山刀が入っているとは思いもしないだろう。
玄関の前へ着いた時、ようやく自分の呼吸が浅くなっていることに気づいた。鍵を取り出すのに少し手間取り、鍵穴へ差し込んで回す。扉を開けて中へ入り、すぐに閉めた。鍵をかけ、チェーンまで掛けたところで、どうにか帰り着いたのだと体が理解した。
俺は背中を扉へ預け、そのままずるずると玄関の床へ崩れ落ちた。
膝が震え、肩が重い。背中も腹も腕も、急に存在を主張し始めた。ダンジョンの中ではまだ動けると思っていたし、車も運転できた。ここまで歩いて帰ってくることもできた。それなのに、部屋へ入り鍵を閉めた途端、体が一気に限界を思い出したらしい。
「無理。もう無理。閉店。今日の俺は閉店しました」
玄関へ座り込んだまま、しばらく動けなかった。肩からずり落ちたリュックが、床へ横たわっている。その中には赤錆の山刀があり、これから保管方法を考えなければならない。怪我の処置も必要で、レッドキャップを吸収した影響や、広間にあった器、祭壇で流れ込んできた感情、大柄なゴブリンの死体を動かしたことについても整理する必要がある。さらに水門や暗渠、政府の制度まで考え始めれば、今日中に終わる量ではなかった。
「大変なことは、明日の俺に任せる」
明日の自分には悪いが、今日の俺にはもう処理できない。そう決めてしまえば、少しだけ体を動かせる気がした。
とはいえ、最低限のことだけは済ませなければならない。俺は床に手をつき、どうにか立ち上がると、リュックから赤錆の山刀を取り出した。タオルとビニール袋に包んだ状態から開かず、さらに大きな袋へ入れて部屋の隅に置く。机の上へ出せば、絶対に眺めて考え始めてしまう。
壊れたトレッキングポールも袋へ入れたまま置き、服は脱げるところまで脱いだ。傷を詳しく確認する気力はなかったが、出血がひどい様子はなく、深い傷でもなさそうだった。
さっとシャワーを浴び、シャンプーで髪も体もまとめて乱暴に洗った。泡が出るなら、今日はもう何でもいい。体を拭いても鏡は見なかった。傷や痣を確認し始めれば、また余計なことを考える。
冷蔵庫に入れた小瓶も、棚の奥の結晶も、白い粉も、今日は確認しない。目に入れなければ、少なくとも今夜は考えずに済む。
どうにか布団までたどり着き、そのまま倒れ込んだ。きちんと着替えられたのか、半分しか着替えていないのかも曖昧だった。背中が痛むため横向きになると、今度は腹が痛み、腕の傷も少し熱を持っている。それでも、すべてを上回る勢いで眠気が押し寄せてきた。
目を閉じる直前、体の奥で何かが静かに動いたような気がした。レッドキャップを取り込んだ影響なのか、大柄なゴブリンを動かしたものの残りなのか、それとも俺自身の疲労による錯覚なのかは分からない。
それも明日だ。
今日の俺は、もう閉店している。
そう決めて、俺は眠った。