亀山という名前より、今では「亀さん」と呼ばれることの方が増えた。昔からそうだったわけではない。虫取り動画を上げていた頃は、コメント欄でたまに呼ばれる程度だった。水辺の虫、夜の灯火へ集まる蛾、用水路の魚、外来種の話。そんな地味な動画を出していた俺が、今では国公認のダンジョン配信者として、自衛隊の後ろを歩いている。
国公認ダンジョン配信者。
何度聞いても、肩書きが強すぎる。俺の中身は、少し前まで水門の中へ虫を探しに行き、死にかけたところを謎の男に助けられただけの人間だ。
「亀山さん、配信を開始できます」
「はい。始めます」
広報担当の職員に促され、胸元のカメラと手持ちカメラを確認する。表示は安定しており、映像も音声も途切れていない。水門ダンジョンの内部から生配信を行うと初めて聞いた時には無理だと思ったが、最近は事情が違うらしい。発生直後に比べ、内部の通信も映像も妙に安定してきている。
配信を始めると、すぐにコメントが流れ始めた。
『きた』
『亀さん生きてた』
『国公認虫取りおじさん』
『おじさんじゃないだろ』
『水門ダンジョンきた』
『画質いいな』
『本当に中からライブできるんだ』
おじさんではない。まだぎりぎり違う。たぶん。
「えー、本日は合同対策本部の許可を得て、水門ダンジョン内部の調査に同行しています。自衛隊および調査員の指示に従い、安全を確保した上で撮影します。配信を見て興味を持っても、絶対に個人で近づかないでください。ここは観光地でも、配信スポットでもありません」
用意された説明を口にする。最後の一文だけは自分の本音だった。俺が言うなという話ではあるが、俺だからこそ言えることでもある。興味本位で入り、実際に死にかけた人間なのだから。
水門の内部は、最初に入った時とは別の場所のようになっていた。コンクリートの足場には滑り止めが敷かれ、黒い横道の入口には仮設ライトと番号付きのマーカーが設置されている。ケーブルも通され、途中には中継機材らしきものまで置かれていた。
以前は、光を吸い込むような穴が開いているだけだった。それが今では、明確な調査現場になっている。それでも奥から流れてくる乾いた石の匂いだけは、あの時と変わらなかった。
「通信がかなり安定していますね」
俺が言うと、隣を歩く調査員が小さく頷いた。
「発生初期の不安定な状態から、内部空間が安定期へ移行しつつあるという仮説があります。まだ仮説ですが」
「安定すると、安全になるんですか?」
「それは別です。むしろ、内部生物の活動が安定する可能性もあります」
さらりと怖いことを言う。コメント欄もすぐに反応した。
『安定期って何』
『安定したら敵も増えるの?』
『怖いこと言うな』
『ダンジョンが馴染んできてるってこと?』
『それ安全じゃなくて悪化では』
俺も同じことを思った。通信が安定しているから配信できるだけで、安全になったわけではない。水門ダンジョンが、人間の都合に合わせて配信しやすくなってくれているはずもなかった。
「前方、スライム一体」
自衛隊員の声が飛んだ。
俺は反射的にカメラを向けた。今日の配信は、基本的に常時撮影する方針になっている。隠すより、管理された形で見せる。本当に映してはいけないものが出れば止められるのだろうが、少なくとも今はその合図がない。
黒い石の通路の先に、半透明の塊がいた。
小型のスライムだ。薄い青緑色の体内に、濁った核が浮かんでいる。床を這うというより、形をゆっくり変えながら進んでいた。あの日、俺が通路で目にしたものと同じ種類だと思う。もっとも、その時は大型スライムの印象が強すぎて、小型個体のことなど後から思い出したようなものだった。
コメント欄が一気に加速する。
『スライムきた』
『思ったより透明』
『かわいい……か?』
『いや核きもい』
『これ触ったら溶ける?』
『撃つの?』
「対象、停止。核位置、中央。撃ちます」
銃声は、思っていたより乾いていた。
一発目は体を揺らしただけだった。二発目が核の近くを削り、三発目で中心の濁った粒が撃ち抜かれる。スライムの体は大きく波打ち、そのまま床へ広がった。崩れた半透明の粘液は、しばらくすると少しずつ薄くなっていく。
処理が早い。迷いもない。
自衛隊は、やはり強かった。装備があり、人数がいて、連携も取れている。誰がどこを警戒し、誰が撃ち、誰が記録するのかが最初から決まっている。小型スライム一体は、彼らにとって未知の怪物から、対処手順のある対象へ変わり始めていた。
だからこそ、あの日のことを思い出す。
俺の目の前へ落ちてきた、大型スライム。人間を丸ごと包み込めそうな巨大な半透明の塊を前に、俺は何もできなかった。カメラを手に持ち、口を半開きにしたまま固まっていた。
それを倒したのが、あの男だった。
レインウェアでも迷彩服でも、防護服でもない。虫除け帽子のようなメッシュで顔を隠した、妙な格好の男。
俺は今でも顔を知らない。名前も分からず、声もほとんど覚えていない。それでも、動きだけは鮮明に残っている。走り込んだ角度も、ポールを構えた姿勢も、巨大スライムの核へ向かった一瞬も覚えていた。
あれは無茶だった。間違いなく無茶だったが、何も考えずに飛び込んだわけではない。自分が通るべき線を、最初から知っていたような動きだった。
あれこそが探索者なのではないかと、時々思う。
国が今から制度を作ろうとしている探索者。登録制や講習、装備基準、保険、報酬といった言葉で囲われる前の、もっと原始的なもの。誰も知らない入口へ入り、持っているものだけで生き延び、目の前の怪物を倒す人間。
それを探索者と呼ぶなら、あの男は俺が初めて見た探索者だった。
いや、現代の忍者と言った方が近いかもしれない。水門の奥へ現れ、顔も名前も明かさず、俺を助け、記録カードを指で潰して去っていった。
いや、忍者は違う。忍者なら、たぶん名乗りを上げなければならない。古事記にもそう書いてあった気がする。
「亀山さん、次の広間に入ります」
「はい」
俺はカメラを構え直した。
この先は、水門ダンジョンのボス部屋。以前、大型スライムが落ちてきた場所だ。あの日はそこで死にかけたが、今日は一人ではない。前には自衛隊員がいて、横には調査員、後ろには広報担当までいる。頼もしすぎる布陣だった。
それでも、足は少しだけ重くなった。
広間は変わっていない。黒い石の床、高い天井、ライトの光が届ききらない奥。中へ入ると、空気がわずかに沈むような感覚があった。最初に来た時にも同じことを感じたのかは覚えていないが、今なら分かる。
ここは通路ではない。
何かを待つための部屋だ。
「天井、確認」
隊員がライトを上へ向ける。
さっきまでスライムを見て騒いでいたコメント欄も、少しだけ流れが遅くなっていた。画面越しでも、この部屋の嫌な空気が伝わっているのかもしれない。
その時、天井の一部が揺れた。
「大型個体!」
声が飛ぶ。
半透明の巨大な塊が、天井から剥がれ落ちた。
あの日と同じだった。薄い青緑色の体内に濁った核が浮かび、人間を丸ごと包めそうな質量がある。床へ落ちた音は水っぽさとは程遠く、どん、と重く響き、広間全体を震わせた。
コメント欄が爆発する。
『でかいでかいでかい』
『これスライム?』
『無理』
『逃げろ』
『自衛隊前!』
『亀さん下がって!』
『音やば』
『これ前に出たやつ?』
俺は後ろへ下がっていた。指示を受けるより早く、体が勝手に動いていた。情けないとは思わない。あれを目の前で見て、下がらない方がおかしい。
「三方展開。射線注意。核位置、中央やや右。距離維持」
自衛隊員たちが広がった。
四方から囲むのではなく、三方向から角度を取る。射線が重なれば、撃ち抜いた弾が味方のいる方向へ抜ける危険があるためだ。事前の説明で聞いてはいたが、実際に見ると、ただ囲んで撃てばいいわけではないことが分かる。
「撃て」
複数の銃声が重なった。
三方向から弾が撃ち込まれ、大型スライムの体が激しく波打つ。撃たれた弾のすべてが核へ届いているわけではなかった。粘性のある体内で勢いを殺され、途中で止まるものがある。内部で軌道を逸らされ、青緑の塊の中に黒い筋だけを残す弾もあった。
「効いてるのか、これ……」
思わず声が漏れた。
「核に届けば効きます。ただ、体表から核までに止まる弾が多い」
調査員は冷静な声で答えたが、その目に余裕はなかった。
自衛隊員たちは射撃を続ける。大型スライムが一方へ体を伸ばせば、その方向の隊員が下がり、別方向から撃ち込む。狙いは核に集められているが、体が分厚すぎた。弾は内部で止まり、逸れ、遅れて少しずつ進んでいく。
そのうちの一発が、偶然のように核へ届いた。
濁った粒が割れる。
大型スライムの体は大きく膨らみ、次の瞬間には一気に崩れた。床へ広がった半透明の粘液が波打ちながら薄れていき、銃声も止まる。
「対象、沈黙」
隊員の一人が告げた。
コメント欄には、ほとんど叫び声しか流れていなかった。
『うわあああ』
『倒した!?』
『弾幕で核割った?』
『自衛隊つよ』
『でも怖すぎ』
『これ一人で遭遇したら終わり』
『亀さんよく生きてたな』
そうだ。一人で遭遇すれば、普通は終わる。
俺は、それを知っている。
そして、あの男は一人で遭遇しても終わらなかった。
三方向から銃撃を重ね、粘液の中で止まりきらなかった一発を核まで届かせて、ようやく倒した。自衛隊のやり方は正しく、合理的で、安全を考えた部隊としての戦い方だった。
だが、あの男は違った。
巨大スライムの体内にある核へ、一本の金属の先端を直接通したのだ。
無茶で、おかしい。
やはり、あの男だけ何かが違う。
「亀山さん」
調査員の声で我に返った。いつの間にかカメラを下げかけていたらしい。
「あ、すみません。映像、大丈夫です」
「大丈夫です。むしろ、よく撮れていました」
褒められても、あまりうれしくはなかった。大型スライムが崩れた跡を眺めていると、喉の奥が乾いてくる。
「発生初期なら、部屋の閉鎖性もまだ不安定だったのかもしれませんね」
別の調査員が、独り言のように呟いた。
俺はそちらを見た。
「現在は大型個体の処理前に離脱できるか分かりません。ただ、発生直後の不安定な状態なら、条件が固定されていなかった可能性はあります」
俺への説明というより、調査員同士で考えを共有しただけなのだと思う。それでも、その言葉は妙にはっきり耳に残った。
発生直後の不安定なダンジョンなら、ボス部屋から出られた可能性がある。
俺の証言に空いた穴を埋める仮説だった。
助かったと思う一方で、まずいとも感じる。その仮説が通れば、俺の嘘は少しだけ目立たなくなる。だが、調査が進めば別の穴が見つかるかもしれない。道中のスライムをどうしたのか。大型スライムが消えた後に何かが残らなかったのか。最初に持っていた記録カードが、なぜ空だったのか。
最初の頃は、空の記録カードを代用し、撮影できていなかったと言えばどうにかなった。発生直後はダンジョン内での機材トラブルも多く、現場全体が混乱していたからだ。だが、今は映像が安定し、調査も進んでいる。俺の言い訳だけが、発生直後の不安定さにぶら下がっていた。
今の俺は、まだお客さんのような扱いを受けている。
第一発見者で、通報者で、現地証言者。今では国公認の配信者でもある。使い道のある立場だからこそ、細かく問い詰められずに済んでいるのかもしれない。
それでも、いつか誰かがしびれを切らす可能性はある。
その一方で、このままうやむやになる気もしていた。水門ダンジョン一つだけでも、国の調査員たちは明らかに持て余している。通信の安定化、スライム、大型個体、ボス部屋、回収物、死体の消失。俺一人の証言の穴を埋めるより、目の前で起きている未知現象の方がはるかに大きい。
完全に安心できるわけではないが、少なくとも今すぐ追及される状況でもなさそうだった。
「亀さん、コメントが来ています。大型個体について説明できますか」
広報担当が小声で告げる。
俺は画面へ向き直った。
「えー、今のが大型スライム個体です。以前、俺が初めて水門ダンジョンを見つけた時にも、似た大型個体に遭遇しました。見ての通り体積が大きく、銃撃しても核まで届かない弾があります。今回は自衛隊の方々が三方向から射撃を行い、最終的に核を破壊したことで沈黙しました。繰り返しますが、単独で遭遇した場合は、まず助かりません。絶対に入らないでください」
『亀さんどうやって助かったん?』
『初回映像ないの惜しすぎ』
『撮り忘れってマジかよ』
『生きてるだけ偉い』
『あれソロ遭遇は無理』
『国公認で言われると説得力ある』
どうやって助かったのか。
本当は俺が一番よく知っている。
あの男が助けてくれた。
だが、俺は言わない。
配信はそのまま続いた。大型スライムの残骸は薄れて消え、床には小さな灰色の結晶と、青緑色の核片が残った。今回はそれを自衛隊員が防護容器へ収め、俺は回収の様子を撮影した。
あの日も、おそらく何かが残っていたはずだ。それを誰が持っていったのかも、俺は知っている。
言わない。
言えるはずがない。
大型スライムの処理を終えると、広間の奥にある階段へ向かった。ここから先が、いわゆる下の階層になる。事前の説明では、虫型モンスターは主にこの階層で確認されているらしい。上層はスライム、下層は虫型が中心で、完全に分かれているわけではないものの、今のところはそうした傾向が見られるという。
「下層へ進みます。足元に注意」
隊員の声が通路に響く。
階段を下りた瞬間、空気が変わった。
湿気はあるのに、水気を感じる匂いではない。古い殻が積もったような臭いがあり、ライトを向けると壁には亀裂や細い穴が増えていた。虫が隠れるには、いかにも都合のよさそうな場所だ。
コメント欄にも不安げな反応が流れる。
『雰囲気変わった』
『下の階やばそう』
『虫ってここから?』
『亀さんの本職エリア』
『本職って言うな、死ぬぞ』
『壁の穴きもい』
俺も気持ち悪いと思う。
虫が好きでも、壁の穴から大型の何かが飛び出してくるかもしれない場所は普通に嫌だった。
「左壁面、虫型一」
声がした直後、ライトの端で何本もの脚が動いた。
ムカデに似た赤黒い体が、壁の亀裂からゆっくりと出てくる。長く、太い。無数の脚が石を叩く音は、カメラ越しにも入っているだろう。
コメント欄が一気に壊れた。
『ぎゃあああああ』
『無理無理無理』
『足足足足』
『画面閉じたい』
『亀さんこれ好きなの?』
『好きでもこれは無理だろ』
『デカすぎる』
『頼む撃って』
俺も、頼むから撃ってくれと思った。
「虫型モンスターです。見た目は既存の節足動物に似ていますが、通常の生物とは異なる点が多く、絶対に接触しないでください。毒性についても調査中です」
説明しながら、自分の声が少し硬くなっていることに気づいた。虫は好きだ。だが、好きな虫と、人間の太ももほどの太さがありそうなムカデは別の話だった。それでも、どんな構造をしているのかという好奇心が少し出てくる自分もいて、余計に嫌になる。
「射線確保。撃ちます」
銃声が鳴った。
壁にいたムカデ型が体を跳ねさせ、数発目で頭部を砕かれて床へ落ちた。切れた脚がしばらく動き、それから止まる。
さらに奥から、今度はゲジゲジに似た脚の長い個体が、流れるように出てきた。細い脚を波のように動かし、床を滑るような速さで迫ってくる。
隊員たちは距離を取りながら射撃した。脚が散り、胴が裂け、最後には動かなくなる。
やはり、自衛隊は強い。
けれど、ここまで来ると、俺の頭には別の話も浮かんでいた。
夢や自分の証言ではない。後から調査員に聞いた、初期調査の記録だ。白っぽい特殊な虫型個体らしきものが、一度だけ確認されたという。脚の根元や体節の隙間に、白い付着物が見えたらしい。映像に残ったのはほんの一瞬で、追跡もできず、それ以降は一度も確認されていない。
初期調査の後から、まったく姿を見せなくなった特殊個体。
調査員たちは、幼体か、変異個体か、あるいは光の反射だった可能性もあると話していた。俺はその話を聞くたび、少しだけ嫌な気分になった。理由は自分でも分からない。それでも、水門の奥には、俺の知らない何かがまだ沈んでいるような気がしてならなかった。
下層での撮影は短時間で終わった。虫型を二体処理し、壁面と床のサンプルを回収して、隊は引き返す。深入りはしない。配信用にも調査用にも、今日はここまでと決まっていた。
水門の外へ戻る頃には、夕方が近づいていた。機材の確認を終え、広報担当から礼を言われる。俺は何度か頭を下げ、現場から少し離れた場所でようやく腰を下ろした。
スマホを開くと、配信のアーカイブはすでに伸び始めている。
『国公認・水門ダンジョン内部LIVE 大型スライム確認』
再生数は、虫取り動画では見たことのない数字になっていた。コメントも増え続けている。
『亀さんすごい』
『自衛隊同行は安心感ある』
『虫型きつすぎ』
『大型スライム怖すぎ』
『初回の動画ないの?』
『撮り忘れたの一生言われそう』
『ボス部屋からよく出られたな』
最後のコメントで、指が止まった。
ボス部屋からよく出られたな。
その通りだ。
俺もそう思う。
返信欄を開きかけたが、何を書いても嘘になるため、そのまま閉じた。何も書かないのが一番いい。
代わりにメモアプリを開く。配信用ではなく、自分だけが見る記録だ。
水門ダンジョン内部の通信は、かなり安定していた。上層ではスライムが中心に確認され、ボス部屋には大型スライムが再出現している。自衛隊は三方向から射撃を行い、体内で止まりきらなかった弾が核へ届いたことで撃破した。
下層では虫型を確認したが、視聴者からの評判は最悪だった。初期調査で一度だけ目撃された白い特殊個体は、その後も未確認のまま。俺がボス部屋から離脱できた理由については、発生直後の空間が不安定だったという仮説で説明される可能性があるものの、証言にはまだ穴が残っている。
最後に、記録と撮れ高は違う、と書いた。
俺はスマホを伏せた。
配信者は、見たものを撮り、言葉にして、誰かへ見せる仕事だ。
それでも、あの日の出来事だけは、まだ動画にできない。
見られていないことにしたい人がいる。
そして、一度見せてしまえば、もう元には戻せないものもある。
水門の奥から風が吹いた。
湿った水路の匂いに、ほんの少しだけ乾いた石の匂いが混じっていた。