申請開始までは、まだ少し時間がある。それまでに、表向きに使える未発見ダンジョンを見つける。
文章にすると簡単だった。簡単すぎて腹が立つ。未発見ダンジョンを見つける、なんて言葉が、買い忘れた卵をスーパーで探すくらいの軽さで頭の中に置かれている。
実際にそんなものを発見した場合、警察か自治体へ通報するのが普通だ。普通の人間ならそうする。俺も普通の人間なので、通報するために見つけることにした。言い訳としては、まだ形を保っている。
ただ、問題があった。
どうやって探すのか。
地図アプリを開き、近場の緑地や古い施設、閉鎖された道、工事中の空き地を眺める。以前、水門を見つけた時には、何となく引っかかる感覚があった。あれが俺自身の勘なのか、寄生体の反応だったのかは分からない。それでも、今の俺が頼れそうなものは、それくらいしかなかった。
「頼むぞ、寄生虫レーダー」
口にした直後、すぐに嫌になった。
体の中にいる正体不明のものをレーダー扱いする三十歳無職。人生の落ち方にもいろいろあると思うが、これはかなり知らない角度だった。
とはいえ、便利なら使う。そう決めた。便利という言葉を使った瞬間、胸の奥が少し気持ち悪くなったものの、今さら一つ一つ傷ついている余裕もない。
スマホとモバイルバッテリー、懐中電灯、軍手、水、最低限の応急用品を鞄へ入れる。赤錆の山刀は持っていかない。持っていけるはずがなかった。あれを持って街中を歩いた時点で、ダンジョンより先に社会に殺される。
代わりに、折りたたみ傘を入れた。武器としては頼りないが、何もないよりはましだろう。いや、こん棒代わりに傘を用意している時点で、かなり駄目かもしれない。
俺は傘の柄を見つめ、何とも言えない気持ちになった。
外へ出ると、昼過ぎの街はいつも通りだった。車が走り、宅配のトラックが停まり、どこかの家から掃除機の音が聞こえてくる。世界は今日も、俺の事情など知らない顔で回っていた。
その普通さに少し安心し、同時に腹も立った。こちらは机の上へ昨日の怪物が残したものを並べ、どうにか人生の帳尻を合わせようとしているというのに。
最初に向かったのは、駅の反対側にある古い立体駐車場だった。地下階の一部が閉鎖されていると、少し前に掲示板で見た覚えがある。
実際に行ってみると、閉鎖の理由はただの老朽化らしかった。コンクリートの壁にはひびが入り、照明も暗い。古い油と埃の匂いが漂い、いかにも何かありそうな雰囲気だけはあったが、俺の体は何も反応しなかった。
何もないのは、本来なら喜ぶべきことだ。だが、今はそれでは困る。
地下階の入口近くに立ち、しばらく様子を見てみたものの、目の奥がざらつくこともなければ、指先が勝手に動きたがることもない。胸の奥にいる白いものも、眠っているのか死んだふりをしているのか、とにかく静かなままだった。
「ここじゃないのか」
独り言が、駐車場の壁に薄く跳ね返った。
次に、閉店した小さなゲームセンターの裏手へ回った。シャッターには落書きがあり、入口には色褪せた閉店のお知らせが貼られたままになっている。裏の搬入口には古い段ボールと、壊れたプラスチックケースが積まれていた。
夜なら、それらしい雰囲気があったかもしれない。だが、昼間に見ると、ただの寂れた建物だった。俺の体も、ここでは何も訴えてこない。
三か所目は、工事が止まっているマンションの建設現場だった。仮囲いの隙間から覗くと、鉄筋とブルーシートが見える。立入禁止の看板も立っていた。
普通に不法侵入になるので、入る前にやめた。俺は怪物と戦ったことはあるが、警備会社とは戦いたくない。勝てるかどうか以前に、その後の話が面倒すぎる。
歩き回るうちに、少しずつ分かってきた。
少なくとも今のところ、遠くから場所を特定できるようなものではないらしい。
水門の時には、もっと引っかかるような感覚があった。あれも、近くまで行ったから初めて分かったのかもしれない。地図上に光る点が表示されるような、便利な機能ではないようだ。
残念だ。せめて寄生されたのなら、もう少し分かりやすい特典があってもいいと思う。止血や身体補助だけでも十分すぎるのかもしれないが、寄生虫に対して特典という言葉を使う自分が、かなり嫌だった。
けれど、嫌悪感とは別のものも胸の中にあった。
俺は未確認のダンジョンを探している。
誰かから命じられたわけではない。制度へ入り込むため、回収した核の出どころを作るためという理由もあるが、それだけではなかった。地図を見ながら知らない道へ入り、妙な場所を覗き込む。その行為に、小学生の頃、暗渠や用水路の奥を眺めていた時と似た感覚があった。
怖いし、死にたくもない。痛いのも嫌で、レッドキャップのようなものとは二度と会いたくない。それでも、自分は見つけたいと思っている。
今回は、その気持ちを否定しなかった。
会社を辞めた理由も、そこにあったはずだ。ニュースを見て、子供の頃の何かが戻ってきて、今を逃したら一生後悔すると思った。あの感情は嘘ではない。寄生体に入り込まれる前から、俺はダンジョンを探していた。
つまり、最初からそこそこおかしかった。すべてを寄生虫のせいにできないのがつらい。
夕方が近づいた頃、俺は住宅街の端にある雑木林へ向かった。地図上では小さな緑地として表示されているが、公園と呼べるほど整備されてはいない。昔から残っている林を、フェンスと細い道でどうにか管理しているような場所だった。周囲には住宅と小さな畑があり、遠くから幹線道路の音が聞こえている。
ここを候補へ入れた理由は弱かった。近くの掲示板で、最近この辺りを通ると犬が妙に吠える、夜になると林の奥だけ暗すぎるといった書き込みを見ただけだ。怪談としてもかなり弱い。それでも、他に当てはない。
林の入口近くで足を止めた時、体の奥がかすかに動いた。
痛みでも寒気でもない。腹の底から背中へかけて、細い糸で内側を引かれたような感覚だった。いや、引かれているというよりも、体の奥がそちらへ向きたがっている。立ち止まっていると落ち着かず、指先にも小さな疼きが生まれた。
「……ここか?」
自然と声が低くなる。
それまで回った場所では、何も感じなかった。ここへ来て、初めて反応があった。水門の時に感じた湿った圧とは違い、もっと軽くて落ち着きのない感覚だ。散歩中の犬が知らない匂いを拾った時や、虫が餌の気配に気づいた時のような、嫌な例えが頭に浮かぶ。
そして、俺自身も少し浮ついていた。
「お前だけじゃない、ってことか」
誰に言うでもなく呟く。
返事はなかったが、体の奥の疼きは残っている。こいつが中へ入りたがっているのか、俺が入りたがっているのかは分からない。たぶん、両方なのだろう。
俺は林へ入った。細い土の道が続き、乾いた落ち葉が靴の下で軽く砕ける。水の匂いはなく、漂っているのは土と枯葉、それに少し古い木の匂いだった。風が吹けば枝が擦れ、遠くの車の音が薄く混じる。
見た目は普通の雑木林だった。
こんな場所に本当にあるのかと思う。それでも、体の奥は相変わらず落ち着かない。俺はスマホの地図を確認しながら、道から少し外れた。
管理されているのかも分からない細い踏み跡が、木々の間へ延びている。人が歩いた跡なのか、獣道なのかも判別できない。埼玉の住宅地の端で獣道というのも妙な話だが、最近は変なことが多すぎて、何が普通なのかも怪しくなってきた。
足が、少しだけ先へ行きたがった。
比喩ではない。右足を出すより先に、体の中で何かが進行方向へ傾く。こっちだと声が聞こえるわけではないが、別の方角へ向こうとすると胸の奥へ軽い違和感が生まれた。
便利だと思った。
そして、それを認めることが、それほど嫌ではなくなっている自分にも気づいた。
俺はもう、こいつを便利だと感じている。怖いし、信用もしていない。できるなら今すぐ出ていってほしい気持ちもある。それでも使えるから使っており、何度も助けられている。今もそうだ。
「探索者っぽくなってきたな、俺」
小さく笑った。
格好よくはない。寄生虫に道案内されている探索者だ。職業欄に書けるようなものではなかった。
踏み跡を進むと、少し開けた場所に出た。背の低い草がまばらに生え、落ち葉が厚く積もっている。中央には、太さも高さもよく似た二本の木が並んでいた。種類までは分からない。その根元の間に、人が一人通れるほどの隙間がある。
特別なものには見えなかった。
注連縄も石碑も、光る魔法陣もない。いかにも入口らしい門があるわけでもなく、ただ二本の木が並んでいるだけだ。
それなのに、体の奥が強く疼いた。
「ここ?」
俺は二本の木を見つめた。
いくら見ても、普通の木だった。樹皮は少し荒れ、根元には落ち葉が溜まっている。枝の間には夕方の空が見え、遠くを走る車の音や、住宅街で吠える犬の声も聞こえた。
一歩近づくと、疼きが強くなる。さらに進むと、指先がわずかに熱を持った。
俺は息を吐き、二本の木の間を通った。
何も起きなかった。
少なくとも、その瞬間はそう思った。
落ち葉を踏む音も、木の匂いも、夕方の薄い光も変わらない。二、三歩先へ進み、肩の力を抜きかけたところで、違和感に気づいた。
「……いや」
車の音が消えている。
先ほどまで聞こえていた幹線道路の低い音も、住宅街の犬の声もない。風の音も妙だった。枝が擦れる音は聞こえるのに、空気の抜け方がひどく重い。
俺はゆっくり振り返った。
二本の木は、まだそこにあった。
だが、その向こう側が違っている。
先ほどまで見えていた住宅街側の明るさがなく、木々の密度が明らかに増していた。夕方の雑木林ではなく、昼間でも光の届かない森の奥のように見える。地面を覆う落ち葉も同じようでいて色が黒く、枝の形も普通の木より歪んでいた。
スマホを取り出すと、電波が極端に弱くなっていた。
「……入ってる」
しかも通信が不安定ということは、形成されてからまだ時間が経っていない可能性がある。大当たりだと思った途端、口の中が乾いた。
俺はいつの間にか、ダンジョンの中へ入っていた。
穴も扉も、階段も横道も、黒い石室さえない。ただ二本の木の間を通っただけで、周囲の世界が入れ替わっている。
俺はすぐに戻った。二本の木の間を、今度は逆向きに通る。
落ち葉を踏み、枝が揺れた直後、車の音が戻ってきた。住宅街では犬が吠え、遠くから子供の声も聞こえている。スマホの電波も回復し、地図アプリには雑木林の中にいると表示されていた。
振り返っても、そこにあるのは普通の木だった。
「こんなん分かるか!」
思っていたより大きな声が出た。
慌てて周囲を確認したが、幸い誰もいない。いや、幸いと言っていいのかは分からない。雑木林で一人、木に向かって怒鳴る三十歳無職など、見られていたら通報される側だ。
俺はもう一度、二本の木の間を通った。
周囲の音が消え、空気が重くなり、木々の密度が増す。戻れば音も電波も元に戻った。
さらに半歩だけ境界へ入ってみる。足の裏に伝わる感触は変わらないのに、耳の奥だけが急に詰まった。水の中へ入った時の感覚とは違い、もっと乾いている。空気ごと薄い膜をくぐるような違和感だった。
「神隠しみたいだな」
言ってから、嫌な想像が浮かんだ。
子供がここを通ったらどうなる。
散歩中の老人が犬に引っ張られ、木の間を抜けてしまったら。
山菜採りでも虫取りでも、ただの散歩でもいい。普通の人間には、この場所が入口だと分からない。俺だって、体の中にいるものが反応しなければ気づけなかった。何も知らずに入り込み、戻れなくなったらどうなるのか。
政府が焦る理由が分かった。
入口が門の形をしているとは限らない。水門や暗渠のように、明らかに奥へ続く異常な空間があるとも限らない。こうした何の変哲もない木々の間が、全国のどこかに点々と存在しているのだとしたら、すべてを把握するのは難しい。
俺は首の後ろを掻いた。
怖かった。
それとは別に、胸の奥が静かに熱を持っている。
見つけた。
寄生体に道案内されたとはいえ、自分の足で歩き、いくつも外し、それでも見つけた。未確認のダンジョン。表向きの出どころとして使えるかもしれない場所。二本の木の間にある、神隠しのような入口だ。
俺は木の前に立ち、しばらく黙っていた。
体の奥は、まだ疼いている。もっと中へ入れ、奥へ進め、何かがあると、声にならない衝動が背中の内側をくすぐっていた。
そして俺自身も、同じように感じている。
中へ入りたい。
何がいるのか見てみたい。
その気持ちを、今回は否定しなかった。怖いものは怖く、死にたくもない。痛いのも嫌だし、レッドキャップのようなものが出てきたら泣く自信がある。
それでも、俺はここを見つけた。見つけた以上、入口を眺めて帰るだけでは終われない。
スマホのメモを開き、外側から二本の木の位置や周囲の目印、境界を通過した時の感覚を入力する。後から読み返しても分かるよう、文章はできるだけ事務的にした。
住宅地北側の雑木林。二本並んだ木の間を通過すると周辺音が消失。内部は通常の林より暗く、木々の密度が高い。入口形状は不明瞭で、誤進入の危険がある。
最後の一文が、妙に重く感じられた。
メモを保存し、鞄の中身を確認する。懐中電灯、水、軍手、折りたたみ傘。それに、途中で拾ってポケットへ入れておいた、投げやすそうな石がいくつかある。武器としては情けないが、今の俺にはこれが一番使いやすかった。
赤錆の山刀は持ってきていない。
それでいい。
ここは表向きに使うダンジョンだ。最初から人前へ出せない武器に頼るわけにはいかない。五級申請者として誤って内部へ入り、小型の敵性生物に遭遇し、素材らしきものを回収した。その筋書きにするなら、やりすぎない方がいい。
やりすぎてはいけない、という考えが浮かび、少し笑いそうになった。
ダンジョンへ入る時点で、すでにかなりやりすぎている。
俺は二本の木の間を見つめた。外側からでは、やはりただの隙間にしか見えない。何も知らない人間なら、そこを通っても入口だとは気づかないだろう。いや、通れば気づく。その時には、すでに向こう側へ入っている。
「じゃあ、行くか」
声は震えていなかった。
それが、少しだけ怖かった。
俺は二本の木の間を通る。
車の音が消え、空気が変わった。スマホの電波が落ち、木々の匂いが濃くなる。
神隠しの向こう側で立ち止まると、体の奥が嬉しそうに疼いていた。
俺も、たぶん少しだけ笑っていた。
最悪だ。
それでも、足は前を向いていた。