横道へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
暗渠の中には泥と苔、古い水の匂いが満ちていたが、横道の先から流れてくる空気はまるで違っていた。ただ温度が低いだけではなく、鼻の奥に触れる空気が妙に乾いている。地下にいるはずなのに、長い間閉ざされていた古い石室の扉を開けたような、乾いた土と石の匂いがした。
俺はライトを向けながら、慎重に進んだ。足元は悪かったが、暗渠の床だったはずの場所は、数歩進むごとに泥が薄くなり、代わりにざらついた石の感触へ変わっていく。
壁もおかしい。コンクリートだった壁面が、いつの間にか黒ずんだ石のようなものへ変わっていた。工事の跡でも、ひび割れや崩落でもない。そこだけが、別の場所へ差し替えられているようだった。
「……すげぇな、これは」
声は思ったより小さく出た。
こんな場所へ一人で入るのは馬鹿だ。誰かに連絡するべきだし、少なくとも入口の位置を記録して、外へ出てから通報するべきだった。頭では戻るべきだと分かっているのに、足は止まらない。
買ったばかりのライトは十分に明るいはずだったが、光は思ったほど先まで届かなかった。横道の奥へ向けると、その先だけが光を受けつけないように暗い。
胸の奥がうるさいほど脈打っていた。怖いのに、その先を見たかった。
子供の頃、暗渠の奥を覗き込んだ時と同じ感覚だった。あの頃は怖くなって引き返したが、今はその先へ進むために会社まで辞めた。ここで戻れば、何のために来たのか分からない。
そう自分に言い聞かせ、俺はさらに奥へ進んだ。
どれほど歩いたのかは分からない。十メートルかもしれないし、五十メートルかもしれず、距離の感覚がおかしくなっていた。通路は緩やかに曲がり、何度か狭くなった後、また少し広がった。途中でスマホを確認したが、コンパスは相変わらず落ち着かず、電波の表示も一本になったり圏外になったりを繰り返している。
外の音は、すでに何も聞こえなかった。水の流れる音も、車の音も、風で草が揺れる音も消え、残っているのは自分の息と、靴底が石を踏む音だけだった。
やがて通路の先が少し広がり、俺は足を止めた。
そこは六畳ほどの小さな部屋になっていた。天井は低く、壁も床も同じ黒ずんだ石で造られている。自然に生まれた洞窟ではなく、明らかに誰かが造った空間だった。
部屋の中央には、祭壇と呼ぶしかない台座が置かれていた。石を積み上げただけの簡素な造りで、目立った装飾はない。ただ、中央に置かれたものだけが、ライトの光を受けて鈍く光っていた。
それは、手のひらに収まるほどの黒い石だった。丸みを帯びているが少し歪み、宝石の原石にも、何かの卵にも見える。表面は磨かれたように滑らかで、真っ黒でありながら、奥に何かを閉じ込めているような深さがあった。
オニキスという言葉が、なぜか頭に浮かんだ。
俺は一歩ずつ台座へ近づき、その前で立ち止まった。ライトを当てても黒い石はほとんど光を返さず、光も音も視線さえも、その黒の中へ沈んでいくようだった。
最初に浮かんだのは、核かもしれないという考えだった。
ニュースやネットでは、ダンジョンの内部から未知の鉱石が見つかっていると言われていた。政府は詳細を伏せているが、企業が注目している、エネルギー資源になるといった真偽不明の噂はいくらでもある。
もし、これがそうなら。
俺は息を呑んだ。第一発見者、未発見ダンジョン、未知の鉱石という単語だけで、頭の中が熱くなる。
こんなものへ素手で触れるべきではない。毒性があるかもしれず、放射性物質である可能性もある。呪いなど馬鹿げていると思いながら、それでもそんな言葉が浮かんでしまうほど、その石は不気味だった。
それなのに右手が伸びた。自分でも理由を掴めないまま、手袋越しの指先が黒い石へ触れる。
冷たかった。
氷のような冷たさとは違い、もっと奥から伝わってくる。体温を奪われるよりも、触れた部分から感覚だけが遠ざかっていくような冷たさだった。
石を持ち上げると、見た目以上の重さがあった。手のひらへ乗せた瞬間、右腕全体がわずかに沈んだように感じられた。
石の表面に、白い筋のようなものが一瞬だけ見えた。気のせいかと思って目を凝らすと、黒の奥で何かが眠っている。
俺はしばらく、その石から目を離せなかった。
何秒だったのか、何分だったのかも分からない。気づいた時には呼吸が浅くなり、右手は石を握り締めたまま固まっていた。手放さなければならないと思っても、指が開かない。
その時、背後で石を擦るような音がした。
振り返るより早く、何かが横から飛び出してくる。視界の端を小さな影が横切った次の瞬間、左腕に熱が走った。
「っ!?」
悲鳴とも息ともつかない声が漏れた。
状況を掴めないまま、反射的に後ずさりしてライトを向けると、そこには子供ほどの背丈の化け物がいた。
小柄な人型だったが、人間ではない。緑がかった灰色の皮膚に、骨ばった手足、大きすぎる口と濁った目を持ち、唇の端からは涎のようなものが垂れている。右手には、石片を削って作ったような粗末な刃物を握っていた。
ゴブリンと呼ぶしかない化け物だった。
左腕を見ると、上腕の外側で服が裂け、その下の皮膚も斜めに切れていた。傷口から滲んだ血が、すぐに線となって腕を伝っていく。
痛いはずだったが、その時は目の前の化け物の方が大きかった。脳が痛みを後回しにしていた。
ゴブリンが口を開き、甲高い声が石室に響いた。
俺は考えるより先に逃げた。右手に黒い石を握り、左腕から血を流したまま、台座を蹴るように横を抜け、来た道とは逆の暗がりへ走った。
向かう先など考えられなかった。ただ、あの化け物から離れたかった。
背後から、軽く速い足音が追ってくる。石を蹴る音が、俺の足音よりも細かく響いていた。
俺は必死で走った。通路は狭く、何度も壁へ肩をぶつけ、リュックが石に擦れた。足を取られそうになるたびに壁へ手をつき、どうにか体勢を立て直す。
左腕は熱く、血で濡れていたが、まだ動いた。痛みは遅れてくる。今は止まれば斬られ、転べば終わるということだけが分かっていた。
途中の曲がり角を無理やり曲がると、背後でゴブリンの足音が少し乱れた。身体が小さい分だけ速いが、曲がり角では勢いを殺しきれないらしい。
わずかに距離が開いた。俺はさらに走り、そのまま行き止まりへ突っ込んだ。
「嘘だろ……」
目の前には黒い石壁があり、左右にも道はなかった。天井は低く、壁には小さな亀裂があるだけで、人が抜けられるような隙間はどこにもない。
戻るしかないが、背後からは足音が近づいていた。
俺は振り返り、通路の奥へライトを向けた。まだ姿は見えない。それでも、確実にこちらへ近づいている。
何かを出さなければならないと思い、リュックを下ろそうとしたところで、右手が使えないことに気づいた。黒い石を、まだ握っていた。
「なんで……」
今すぐ手放せと思っているのに、右手の指が開かない。恐怖で力が入りすぎているのか、石の冷たさで感覚が鈍っているのかも分からず、右手は黒い石を握り込んだまま固まっていた。
左手で開くしかない。
血で濡れた左手を右手へ伸ばしたところで、ようやく痛みが追いついてきた。
「ぐっ……」
左上腕の傷が熱を持って脈打つ。腕も指も動くが、力を入れるたびに傷口から熱いものが押し出される感覚があった。
それでも、やるしかない。
背後からゴブリンの声が聞こえた。もう近い。
左手で右手の指を一本ずつこじ開けようとしたが、血で滑り、うまく力が入らない。右手の中にある黒い石は、妙に冷たく重かった。
「開けよ……!」
震える声を絞り出すと、親指が少し浮き、人差し指が緩んだ。その瞬間、左手の血が黒い石へ触れた。
ぴたりと、空気が止まった気がした。
ゴブリンの足音が消え、自分の呼吸も心臓の音も遠ざかっていく。黒い石の表面に広がった血は、赤い色を失うように黒の中へ吸い込まれていった。
次の瞬間、石に細い亀裂が入った。
その線は一瞬で広がり、黒い殻の表面を蜘蛛の巣のように走っていく。俺は手を離そうとしたが、右手はまだ石を握っていた。
亀裂の奥から、石の中にはあるはずのない白いものが見えた。濡れた糸の束のようでもあり、虫にも絹糸にも見える何かが、ゆっくりと動いていた。
通路の奥にゴブリンが姿を現し、刃物を振り上げながらこちらへ駆けてくる。俺は叫ぼうとしたが、声は出なかった。
右手の中で黒い殻が音もなく割れていき、その内側で、白い何かが目を覚ました。