寄生虫と行く現代ダンジョン   作:脳タリン

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第40話 神隠しダンジョン2 メイン武器

二本の木を越えた先は、外から見ていた雑木林によく似ていた。木の種類も、おそらく同じだ。地面には落ち葉が積もり、土の匂いもする。それでも、枝の隙間から見える夕方の光は外より鈍く、空までの距離も少し違って感じられた。車の音が消えた静けさの中で、自分の靴が落ち葉を踏む音だけが妙にはっきりと耳へ届く。

 

 俺は入口を振り返った。二本の木は、まだそこに並んでいる。戻ろうと思えば戻れる。少なくとも、今のところは。

 

「浅いところだけ。浅いところだけ」

 

 自分へ言い聞かせながら、ここへ来た目的を確認する。

 

 五級申請者が誤って未確認の異常空間へ入り、小型の敵性生物と遭遇し、素材らしきものを回収した。表向きには、その程度でなければならない。奥まで進む必要はなく、むしろ進んでは駄目だ。俺は調査に来た一般人寄りの申請者であって、未確認ダンジョンを単独で攻略しに来た異常者ではない。

 

 少なくとも、書類上は。

 

 最近の俺の人生は、書類上の立場と実態の差でできている気がする。

 

 スマホを確認すると、電波は一本立ったかと思えば、すぐに消えた。地図アプリも現在地をうまく拾えないが、メモ帳やカメラは動いている。通信が完全に途絶えているわけではない。形成されてからまだ時間が経っていないのか、単に入口へ近いからなのか、そのどちらかだろう。

 

 俺は二本の木と足元の落ち葉、内側へ広がる林を短い動画に収めた。音声も一応入っている。戻った後に映像が正常に残る保証はないが、何もしないよりはましだった。報告へ使えるかもしれず、自分が何を見たのか確かめる材料にもなる。保険と呼べるほど頼りになるかは、かなり怪しい。

 

 鞄から懐中電灯を出して左手に持ち、右手は空けておく。ポケットには途中で拾った石をいくつか入れてあり、折りたたみ傘は鞄の横へ差したままだ。頼りない装備ではあるが、今のところは、不安になった一般人が適当に用意した範囲を出ていない。

 

 表向きには悪くなかった。

 

 数歩進むと、林の奥がわずかに沈み込むように暗くなった。はっきりとした道はないものの、落ち葉の表面には細く押し潰された跡が続いている。人間の踏み跡にも、動物が通った跡にも見えた。

 

 俺はしゃがみ込み、ライトを当てた。

 

 足跡がある。

 

 人間のものではない。形は犬に近いが、普通の犬より幅があり、爪の跡も深かった。四足で駆けたような跡に混じって、二本の後ろ足だけで歩いたような跡も残っている。

 

「犬……いや、コボルトか」

 

 口に出すと、妙に納得できた。

 

 ファンタジーでよく見る、犬に似た小鬼。ゴブリンよりも獣に近く、鼻が利き、群れで行動することもある。ゲームの中なら、序盤に出てくる初心者向けの敵だ。

 

 現実にいれば、普通に悪夢だった。

 

 小型とはいえ、牙と爪を持った犬人間が、暗い林の中でこちらの匂いを追ってくる。人間より体が小さくても、素手の成人男性が勝てる保証はない。相手が地形に慣れ、群れで襲ってくるなら、さらに厄介だ。

 

 足跡の向きを確かめると、林の奥から入口側へ向かい、途中で横へ逸れていた。ここの生物が外へ出る気配はないが、入口の近くまでは来ているらしい。何も知らずに入った人間が、すぐ近くで遭遇する可能性は十分にある。

 

 誤進入の危険あり。

 

 外で入力したメモの一文が頭に浮かんだ。間違っていなかったことが、かえって嫌だった。

 

 林の奥から空気が流れてきた。枯葉と土の匂いに、微かな獣臭が混じっている。最初は、単に臭いとしか思わなかった。だが意識を向けると、湿った毛や古い血、噛み砕かれた骨のような生臭さ、木の根元へ染みついた尿の臭いが、少しずつ分かれて感じられた。

 

 この時点で、急に鼻が鋭くなったわけではない。それでも、林の奥にいる何かの輪郭を、匂いからわずかに拾えるような気がした。

 

 体の中にいる白いものが、静かに疼く。

 

 行ける。

 

 根拠は薄いのに、そう感じた。

 

 俺は石を一つ取り出して握った。投げるには少し大きいが、当たれば十分な重さがある。腕の奥では、白い筋のような力の通り道が薄く張り始めていた。以前ほど驚きはしない。これもすでに、俺の戦い方の一部になりつつある。

 

 木の陰で、何かが動いた。

 

 低い唸り声が聞こえる。

 

 俺はライトを少し横へ向け、光の端だけを相手へかけた。真正面から照らせば、そのまま飛び出してくるような気がした。

 

 薄い光の中に、小さな影が浮かび上がる。

 

 予想していた通り、コボルトだった。

 

 背丈は小学校高学年の子供ほどで、背中を丸めながら後ろ足で立っている。顔つきは犬に近いが、濁った目には人間の嫌な部分が混じっているように見えた。茶色と灰色が入り交じった毛皮に、黄色く濁った牙。細い腕の先には爪があり、右手には短いこん棒を握っている。

 

 俺の目は、そのこん棒へ向いた。

 

 長さも太さも悪くない。握りは雑だが、木の瘤を削って作ったらしい先端には十分な重さがあり、殴るだけなら問題なく使えそうだった。折りたたみ傘と比べれば、百倍は頼りになる。

 

「メイン武器来たな」

 

 思わず呟くと、コボルトが唸りながら鼻を鳴らした。声へ反応したのか、匂いでこちらを捉えたのかは分からない。腰を低く落とし、こん棒を握り直す。

 

 動きは速そうだった。鼻もゴブリンより利き、毛皮に加えて牙と爪まである。単純な身体能力なら、暗渠で見たゴブリンより上かもしれない。

 

 それでも、動きは見えた。

 

 レッドキャップとは違う。

 

 あの赤い帽子は、気づいた時にはすでに刃を振っていた。足音も呼吸も、踏み込む予兆さえ、俺の認識より先に進んでいた。それに比べれば、目の前のコボルトは、きちんと生き物として動いている。構え、力を溜め、足を踏み出す。その順序を追うことができた。

 

 コボルトが地面を蹴った。

 

 俺は石を投げる。

 

 肩から肘、手首、指先まで、白いものが力の流れを整える。放った石はほとんど一直線に飛び、コボルトの鼻面へ当たった。

 

 乾いた音が響き、空中にあった体勢が崩れる。コボルトは前のめりに落ち、手からこん棒を離しかけた。

 

 俺の左手には、すでに二つ目の石がある。

 

 考えるより先に投げていた。

 

 今度は目の上へ当たり、コボルトの頭が横へ弾かれる。落ち葉の上を転がった体は、足を一度だけ跳ねさせ、爪で土を掻いた後に動かなくなった。

 

 林の中が静かになる。

 

 簡単に倒した。

 

 そう言っていいほど、短い戦いだった。

 

 俺はすぐには近づかず、周囲の木々へ目を向けた。コボルトが一体だけとは限らない。群れで行動するなら、他の個体がすぐ近くに潜んでいる可能性もある。

 

 音と足跡、それに微かな匂いを探る。

 

 少なくとも、すぐ近くで動いているものはなさそうだった。体の奥から、強い警告のような反応もない。

 

 俺は警戒を続けながら、ゆっくりと死体へ近づいた。

 

 コボルトは動かない。鼻面は潰れ、片目の上がへこんでいる。毛皮の間から黒っぽい血が滲んでいた。犬に近い顔をしているせいか、ゴブリンを倒した時よりも少しだけ変な気分になる。

 

 だが、こん棒を持って襲いかかってきたことも、こちらへ向けた目も、ただの動物のものではなかった。

 

 俺は黙ったまま、コボルトの手からこん棒を外した。

 

 爪の付いた指は、死んでも柄へ引っかかっている。一本ずつ外すと、軍手に毛が触れ、濃い獣臭が鼻へ届いた。

 

 こん棒を握って確かめる。

 

 重心は先端寄りで、片手でも扱える。ゴブリンのものより少し短いが、その分振り回しやすそうだった。武器としての出来は粗いものの、殴るだけなら十分だ。

 

「採用」

 

 現地調達した敵性生物の武器を、探索中に一時使用する。報告書へ書くなら、そんなところだろう。

 

 赤錆の山刀とは違う。この場所で拾い、この場所で使う限り、まだ筋が通る。持ち帰るかどうかは別として、今の俺にとっては間違いなくメイン武器だった。

 

 その時、コボルトの死体へ白い糸が伸びた。

 

 右手の爪の隙間から、細い糸が数本出ている。見慣れたとまでは言えないが、もう声を上げることはなかった。

 

 白い糸は落ち葉の上を這い、毛皮の隙間へ入り込んでいく。死体が小さく震え、毛が逆立った。潰れた鼻面の奥から、黒い血がじわりと滲む。

 

 吸収が始まった。

 

 ゴブリンの時よりも、少し遅い。毛皮があるからなのか、体の構造が違うからなのかは分からない。糸は皮膚の下を探るように広がり、筋肉や骨、さらにその内側へ潜り込んでいった。

 

 気持ちのいい光景ではない。それでも、目は逸らさなかった。

 

 乾いた落ち葉の上で、コボルトの体が少しずつ薄くなる。毛の色が抜け、輪郭が曖昧になっていく。ダンジョンそのものに吸われているのか、寄生体が取り込んでいるのか、あるいは両方なのか。

 

 数十秒後、残っていたのは黒ずんだ染みと、小さな灰色の核、それに二本の牙だけだった。

 

 牙の片方は途中で折れており、もう片方は根元まで残っている。長さは親指より少し長い程度で、鋭くはあるが、手で握って刺すには頼りない。柄を付ければ何かに使えるかもしれないものの、今すぐ武器として期待するような品ではなかった。

 

「素材だな」

 

 俺は牙を袋へ入れ、灰色の小さな核も回収した。大きさはそれほどでもないが、申告用としてはむしろ都合がいい。大物を倒したと主張する必要はない。誤って中へ入り、危険な小型の敵性生物と遭遇し、その後に残った素材を回収した。

 

 用意した筋書きに、よく合っている。

 

 その時、周囲の匂いが変わった。

 

 いや、変わったのは俺の方だった。

 

 土と落ち葉、その下に残った湿気。コボルトの毛皮に染みついた獣臭と血の臭い。自分の汗、軍手に付着した毛、鞄の中にある水筒の金属臭。

 

 すべてが同時に強くなったわけではない。

 

 混ざり合っていたものが、一本ずつほどけるように分かれていく。

 

 俺は思わず鼻を押さえた。

 

 臭いことは臭いが、耐えられないほどではない。単純に鼻が良くなったというより、匂いを分けて拾える範囲が増えたような感覚だった。雑音の中から、特定の足音だけを聞き分けられるようになるのに近い。

 

「コボルトか」

 

 吸収したものの能力が、自分へ移ったのだろう。

 

 暗がりの輪郭を拾えるようになり、投石や体の動きが補助され、今度は嗅覚が変化した。

 

 林の奥へ顔を向けると、匂いの筋が続いていた。先ほどのコボルトが来た方向へ、細い獣臭が伸びている。そのさらに奥には、似ているが少し異なる匂いもあった。

 

 同じコボルトなのか、別の生物なのかは分からない。距離はあり、今すぐ襲いかかってくるほど近くはなさそうだった。

 

 便利だと思った。

 

 今回は、それ以上の抵抗がほとんど湧かなかった。

 

 怖さがなくなったわけではない。それでも探索に使える能力であることは明らかだった。敵の位置を先に察知し、血の跡を追える。慣れれば、素材や核の匂いまで判別できるようになるかもしれない。

 

 雑木林のような場所とは、相性がよすぎる能力だった。

 

「犬系を倒して鼻が良くなるって、分かりやすいな」

 

 ゲームなら、画面の端に能力説明が出るところだろう。嗅覚が強化されました、とでも表示されるのかもしれない。

 

 当然、そんなものは出ない。

 

 自分の体が、勝手に変化を理解しているだけだ。

 

 俺はこん棒を右手へ持ち替え、何度か軽く振った。風を切る音は軽く、重すぎない。先端にはコボルトの血と毛が少し付いていたため、落ち葉と土へこすりつけて落とす。完全には綺麗にならないが、そもそも綺麗に使うための道具でもない。

 

 改めて周囲を確認する。スマホの電波は、相変わらず立ったり消えたりしている。完全に途切れないのは、まだ入口に近いからだろう。さらに奥へ進めば、通信は使えなくなる可能性が高い。

 

 撮影した映像とメモ、入口からの距離、コボルトの足跡、回収した牙と小さな核。申告へ使う材料は、最低限そろった。

 

 ここで帰るのが正しい。

 

 そのはずだった。

 

 俺は林の奥を見る。

 

 獣臭の筋が、暗い木々の間へ続いている。この場所にコボルトが一体しかいないとは考えにくい。群れがいるなら危険で、形成直後らしいダンジョンだからといって、浅い場所まで安全とは限らなかった。

 

 それでも、足が一歩だけ前へ出た。

 

 体の奥の疼きは、入口を探していた時よりもはっきりしている。獲物の匂いと、奥へ続く道の気配。寄生体が喜んでいるのか、俺自身が高揚しているのかは、もう分けて考える意味があまりなかった。

 

 俺はこん棒を握り直した。

 

「あと一体だけ。もう一体見たら帰る」

 

 口にした自分でさえ、信用できない言葉だった。

 

 こういう人間が遭難し、ニュースになる。分かっている。分かっているのに、俺は林の奥へ数歩進んだ。

 

 落ち葉を踏む音が、少しだけ軽く聞こえる。

 

 鼻の奥には、獣の匂いがまだ続いていた。

 

 俺は、その匂いを追った。

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