白い何かが、黒い殻の中で蠢いていた。
濡れた糸の束にも虫にも見えたが、そのどちらとも違う。一本一本が別々に動いているようでありながら、全体で一つの生き物にも見えた。
俺は、それから目を離せなかった。
離さなければならないことは分かっている。目の前では、粗末な刃物を振り上げたゴブリンがこちらへ駆けてきており、行き止まりへ追い詰められた俺には逃げ場もない。それなのに、視線は右手の中へ釘付けになっていた。
黒い殻が、乾いた泥のように音もなく割れ、指の間から剥がれ落ちていく。その奥から現れた白いものが、ゆっくりと身を起こした。
小さいはずなのに、俺の身体は動かなかった。
石室の暗がりの中で、その白さだけが異様に浮いて見える。ライトを反射しているわけでも、自ら光を放っているわけでもない。ただ、黒い殻の中に閉じ込められていたとは思えないほど、ありえないくらい白かった。
次の瞬間、それが跳ねた。
「――っ」
声は出なかった。
白いものは俺の手から顔へ向かって伸び、避ける時間も瞬きをする余裕も与えないまま、大きく見開いていた目へ触れた。
そして、そのまま中へ入ってきた。
痛みはなかった。そのことが、かえって恐ろしかった。
目の表面へ触れたはずなのに、刺された痛みも焼けるような痛みもなく、冷たい糸が眼球の奥へ滑り込んでいく感覚だけがあった。
「う、あ……」
喉の奥から、情けない声が漏れた。
目の奥で何かが蠢いている。まぶたを閉じても消えず、こすっても取れない。そもそも、手で触れられる場所にはいなかった。眼球の裏側や頭の中、神経の隙間といった、何かが存在するはずのない場所を細いものが這っている。
あまりの気持ち悪さに、俺はゴブリンのことを忘れていた。刃物を持った化け物が目の前にいることも、左腕から血が流れていることも、行き止まりへ追い詰められていることも、一瞬だけ意識から消えていた。
今、自分の中へ何かが入った。その事実だけが、頭の中を埋め尽くしていた。
吐きそうになり、目を抉り出したくなったが、身体は動かない。恐怖で固まっているのか、入り込んだ何かに止められているのか、それすら分からなかった。
その間にも、ゴブリンは近づいてきていた。
石を蹴る足音が、少しずつ遅くなる。最初は獲物を逃がさないために短い足を忙しなく動かしていたが、俺が行き止まりで動けないと分かったのだろう。口を大きく歪め、刃物を見せつけるように揺らしながら、ゆっくりと距離を詰めてくる。
笑っているように見えた。
こいつは、俺が自分に怯えていると思っている。逃げ場を失い、震えている獲物をいたぶるつもりなのだろう。目を見開き、息を荒くし、足を動かせずにいることも、すべて自分への恐怖だと受け取っている。
違う。俺は、お前どころではない。
目の奥で白いものが動いた瞬間、頭の中へ冷たい感覚が広がった。氷水を流し込まれたような冷たさではなく、熱くなりすぎた思考の一部を無理やり押さえつけられるような感覚だった。
恐怖は消えていない。今も怖いままだったが、その感情に身体を縛られなくなっていた。
息が整い、視界が狭まる。それまで頭の中で暴れていた思考が、急に一つの方向へ揃っていく。
生きるために動く。そう決まると、俺はゴブリンを見た。
改めて見れば、子供ほどの背丈しかなく、手足も細い。大きすぎる口と刃物を持っているとはいえ、体格だけなら大人の男よりずっと小さかった。
もちろん危険な相手だった。先ほど俺の左腕を裂いたのもこいつであり、人間ではない以上、力も速さも普通の子供とは比べものにならないはずだ。
それでも、目の奥へ入り込んだ白いものに比べれば、まだ理解できる恐怖だった。
右手を見ると、黒い殻はほとんど崩れていた。手のひらには黒い欠片だけが残り、先ほどまで感じていた重さも消えている。
右手は動いた。
俺はリュックの横へ固定していた折り畳み式のトレッキングポールに手を伸ばした。伸ばしている時間はないため、固定具を乱暴に外し、短いまま引き抜く。
こちらの動きに気づいたゴブリンが、口を歪めたまま刃物を振り上げた。来ると思った瞬間、妙な感覚があった。
速いはずなのに、見えた。ゴブリンの肩が動き、肘が上がり、手首が返る。石片のような刃が、どの角度で振り下ろされるのかまで目で追えた。
俺はトレッキングポールを横から叩きつけた。
金属と石がぶつかる乾いた音が響き、刃物の軌道が逸れる。ゴブリンの目がわずかに見開かれたが、驚いていたのは俺も同じだった。
今の動きが見え、狙った場所へ当てることができた。
考える暇はなかった。刃物を弾かれたゴブリンは、すぐに小柄な身体を低く沈め、こちらの腹へ飛び込むように距離を詰めてきた。
組みつくつもりだと分かったが、ポールを振り直す余裕はない。左上腕の傷は熱を持ち、わずかに動かすだけでも血が流れる感覚があるため、左腕で押し返すことも難しかった。
ゴブリンの口が開き、黄ばんだ歯と腐ったような息が間近まで迫った。その次には、右腕が動いていた。
殴ろうと考えたわけではなく、格闘技の経験もない。ただ、気づいた時には右拳が前へ出ていた。
拳がゴブリンの側頭部へ当たり、鈍い音が響く。
小さな身体は、信じられない勢いで横へ飛んだ。頭から石壁へ叩きつけられ、跳ね返るように床へ落ちる。手にしていた刃物も転がり、乾いた音を立てて止まった。
ゴブリンは動かなかった。
「……は?」
自分の口から、間の抜けた声が出た。
俺が殴ったことは分かるが、あんな勢いで吹き飛ぶはずがない。相手が小柄だったとしても、俺は格闘家でも鍛え上げた探索者でもなく、三十歳の元会社員にすぎない。必死で殴ったところで、化け物を壁へ叩きつけ、動けなくするほどの力が出るとは思えなかった。
右手は震え、拳には痛みがあった。それ以上に、腕全体へ妙な熱が残っている。筋肉の奥へ、今まで使ったことのない力が通ったような感覚だった。
俺は一歩だけゴブリンへ近づいた。
動く気配はなく、胸が上下しているのかも分からない。壁へ叩きつけられた頭のあたりから、黒っぽい血のようなものが滲んでいた。
自分が倒したのだと理解した瞬間、膝から力が抜け、その場へ座り込んだ。
息は荒く、心臓もうるさい。トレッキングポールを握った右手も、まだ震えていた。
助かったと思った直後、左腕へ激痛が走った。
「ぐ、あ……っ」
遅れていた痛みが、今度ははっきりとした形を持って襲ってきた。左上腕の傷は熱を持ち、血が服の内側を伝っている。先ほど右拳を突き出した反動で身体を大きく動かしたため、傷口がさらに開いたのかもしれない。
止血しなければならないと思ったが、意識は左腕よりも目の奥へ向いていた。まだ何かがいる。
白いものは消えておらず、痛みによる錯覚でも幻覚でもなかった。目の奥から頭の奥へ、さらに深い場所まで、細いものがゆっくりと広がっていく感覚がある。
それが俺の痛みに反応するようにわずかに震えると、左腕の痛みが少しだけ遠のいた。
「……なんだよ」
声が震えた。
ゴブリンは倒れ、俺はまだ生きている。それなのに、何一つ終わっていないような気がした。
ゆっくりと右手で自分の顔へ触れる。目は潰れておらず、血も出ていない。それでも、あの白いものが確かに中へ入ったことは分かっていた。
その証拠のように目の奥で何かが身じろぎし、俺は壁にもたれたまま動けなかった。
目の前には動かないゴブリンが倒れ、足元には砕けた黒い殻が散らばり、手には震えの止まらないトレッキングポールがある。
そして、俺の中には何かがいた。