暗く、冷たい。湿り気のない石の匂いが鼻につく。
黒い石の外へ、さっきまで近くにあった熱が離れていく。湿った水路の匂いと遠い音、その先にある広い空気へ向かって体が傾いたが、足は境目で止まった。
爪が石を擦り、喉の奥で低い音が鳴る。体の内側では、白いものが細く蠢いていた。
境目の向こうへは出ない。
出られないのか、出る必要がないのか。その違いは形にならないまま、体だけが入口の方を向いた。離れていった熱の残りが、まだそこにある。
やがて、奥から別の音が近づいてきた。
小さな足音と濁った息。粗い木が石を擦る音。
現れたのは、背の低い似た形だった。匂いも近い。それでも体の奥が強く縮み、歯をむき出しにしたまま足が前へ出る。
相手が声を上げ、こん棒を振った。肩に当たり、痛みが走る。だが、それはどこか遠かった。
押し返し、腕を掴んで倒す。そのまま石の床へ押さえつけると、相手が噛みついてきた。
こちらも噛み返した。
裂けた場所から白いものが伸び、相手の体へ入り込む。背中が反り、指が曲がり、濁った声が喉から漏れた。手を離れたこん棒が床を叩いて転がっていく。
何度か体が大きく跳ねたあと、息が途切れた。
しばらくして、倒れていたものが腕をついた。
膝を立て、起き上がる。
こちらを見る目に、さっきまでの敵意はなかった。
噛みついてくる気配もない。
裂けた体の奥には、白い筋が残っている。
二つの体が並び、同じ入口の方を向いた。
黒い石の通路には、低い呼吸だけが二つ重なっていた。
目が覚めた時、俺は天井を見たまましばらく動けなかった。
夢を見た感覚だけが妙にはっきり残っている。暗い石の通路、濁った息、床を擦るこん棒の音。低い位置から見た入口と、自分のものではない手足。
あまり気分のいい夢ではない。
それでも、ただの夢と片付けるには感触が生々しすぎた。
「……昨日のせいか」
俺は起き上がり、顔を洗った。
昨日、暗渠の中にゴブリンを一体置いてきた。置いてきた、という言い方自体がおかしい。倒すはずだったゴブリンが、俺の中の白いものに触れられ、敵ではない何かになった。帰る時には入口の内側で立ち止まり、こちらを見送っていた。
あれが今もいるのか。それとも、もういないのか。
そこを確かめないまま奥へ進むのは落ち着かなかった。
今日は確認だけで終わるつもりもない。昨日、一層のボス部屋手前までは見た。今日はそこから先へ進む。
そのために、俺は押し入れの衣装ケースを開けた。
布に包んだ赤錆の山刀が、奥に沈んでいる。
手に取ると、不思議なほど手に馴染んだ。刃は赤黒く、錆びているように見えるのに崩れる様子はない。
持ち歩いていい物ではない。見つかれば説明できないし、制度側にも警察にも出せない。
だからこそ、暗渠の奥へ持っていく。
矛盾しているのは分かっている。ただ、暗渠は俺の始まりの場所で、レッドキャップがいた場所でもある。昨日の一層確認だけならともかく、今日はさらに奥へ行く。トレッキングポールと投石だけで済むと考える方が甘かった。
山刀を布で巻き直し、ザックの底へ入れる。街中で見えず、歩いても余計な音がしないよう位置を調整した。
ほかにはライト、予備電池、手袋、飲み物、タオル。短棒は持たない。ナイフも持たない。外から見れば、少し荷物の多い散歩か、川沿いで何か作業をする人間に見える程度に抑える。
現代日本で蛮族をやるには、まず移動が面倒だった。
暗渠の入口は、昨日と何も変わっていなかった。
看板も規制線もなく、川沿いの道を人が普通に歩いている。ここに何があるのか知らないまま、誰もが通り過ぎていく。
周囲を確認してから暗渠へ入り、記憶にない横道の前で足を止めた。外の水路は湿っているのに、奥から流れてくるのは乾いた石と土の匂いだ。昨日より濃いような気がする。
「いるのか」
返事はない。
当然だ。
ライトを向け、横道へ入る。
黒い石の通路に足を踏み入れてすぐ、前方で何かが動いた。反射的にトレッキングポールを構え、足元の石を探る。
ゴブリンがいた。
昨日のやつだ。
頭には打撃痕が残り、目も濁っている。こちらへ飛びかかってくる様子はなく、通路の端に立ったまま俺を見ていた。
そこまではいい。
問題は、その横にもう一体いたことだった。
背丈はほとんど同じで、手には何も持っていない。肩の辺りに噛み跡のような裂け目があり、その奥に白い筋がちらついた気がした。
そいつも俺を見ている。
襲ってくる様子はない。
「……二匹に増えてやがる」
声が暗い通路へ妙に軽く響いた。
笑うところなのか、怖がるところなのか、自分でも処理に困る。昨日一体置いてきたら、今日には二体になっていた。畑の作物でも、もう少し遠慮して増えるだろう。
二体は動かなかった。
俺が一歩踏み込むと、昨日のやつがわずかに前へ出た。庇うようにも、俺を止めようとしているようにも見える。もう一体は斜め後ろへ立ち、体を通路の奥へ向けていた。
昨日と同じ動きだ。
俺より先へ出て、進もうとする方向へ体を置く。
「増やしたのか」
誰に聞いたのか、自分でも曖昧だった。
当然、返事はない。
体の奥の白いものも静かなままだった。ただ、目の前の二体が俺を害する存在ではないという感覚だけが、不自然なほどはっきりしている。
その時、別の夢を思い出した。
水の匂い。濡れた床。低い視点。人間の足音を、遠くから聞いている感覚。
水門ダンジョンで見た夢だ。
あれも、ただの夢だと思っていた。俺が見たものや記憶を、寝ている間に頭が勝手につなぎ合わせただけだと。
だが、目の前にいる二体を見ると、その説明だけでは収まりが悪い。
昨日のゴブリンは、俺がいない間に増えている。
なら、水門で見たあれは何だったのか。
あそこにも、白いものが残っている可能性がある。亀山さんを助けた時、俺はあの場所で糸を使った。記録カードを壊すことばかり気にしていたが、今考えれば何も残っていないと考える理由もなかった。
「じゃあ、あれも現実じゃん」
口に出すと、首筋の皮膚が薄く粟立った。
俺自身が見た夢ではなく、別の何かが見ていたものが流れてきた。
そう考えれば、目の前の状況ともつながる。
「今、虫の何匹が寄生済みなんだよ」
暗渠の中で言ったところで、誰も答えてはくれない。
水門ダンジョンには、スライムも虫もいた。その下層にも何かがいる。そこに残った白いものが、俺の知らないところで勝手に増えている可能性が出てきた。
便利とか、戦力とか、そんな話をする段階ではなかった。
自分の中だけにいると思っていたものが、すでに外にも残っている。
俺が寝ている間にも、勝手に動いていた。
二体のゴブリンは黙っている。片方は俺を見て、もう片方は奥へ注意を向けていた。その配置が、ここで立ち止まっている場合ではないと言っているように見える。
そう見えるだけかもしれない。
それでも、一度そう思うとそうとしか見えなくなる。
「じゃあ、なんで人間にはやらない」
口から出た疑問に、自分で少し間を置いた。
ゴブリンには寄生した。水門の虫にも同じことが起きている可能性がある。
だが、亀山さんには何もしなかった。
あの時、亀山さんはすぐ近くにいて、弱ってもいた。助けるだけなら、ゴブリンと同じように寄生させるという手段もあったはずだ。
それでも、白いものはそうしなかった。
俺以外の人間には寄生できないのか。
それとも、しないのか。
前者なら性質の問題で済む。
後者なら、対象を選んでいることになる。
体の奥で、白いものがほんの少しだけ動いた。
答えと呼べる反応ではなかった。ただ、そこにいると分かる程度の動きだった。
「……考えるほど沼だな」
俺はザックを下ろし、布に巻いた山刀を取り出した。
二体のゴブリンが、その動きを見る。
怯えも警戒も見えない。ただ俺が何をするのかを見ているようだった。あるいは、俺の中の白いものが次にどう動くのかを待っているのかもしれない。
布を解くと、赤黒い刃がライトを鈍く返した。
嫌な武器だ。
それなのに、握ると手に馴染む。
昨日まで借りていた国の短棒とは違う。これは記録されない。返却確認もなく、使用上の注意もなく、何か起きても後から専門家が解析してくれるわけでもない。
使うなら、自分で決めるしかない。
「今日は戻らない」
二体のゴブリンが、少し遅れてこちらへ顔を向けた。
「本格探査だ。昨日の続きに行く」
理解した様子はない。
それでも昨日のゴブリンが前へ出ると、もう一体も横へ並んだ。二体とも俺より先に奥へ体を向ける。
見送りではない。
今日は、この二体も一緒に奥へ行くことになる。
俺が連れていくのか、向こうが勝手についてくるのか、その辺りはまだ怪しい。俺の考えを読んでいるのか、白いものを通じて何か伝わっているのかも分からない。
それでも、奥へ進むには都合がいい。
そう判断した自分に、少しだけ引っかかりは残った。
俺は山刀を右手に持ち、左手でライトを構えた。トレッキングポールは畳まずザックの横へ差してある。必要なら使うし、投げられそうな石も拾う。
蛮族装備にも段階がある。
二体のゴブリンが先に歩き出した。
曲がり角では昨日のゴブリンが先に顔を出し、もう一体は少し低い姿勢で反対側へ注意を向ける。床の石片を避け、壁際の影を確認しながら進んでいく。
ぎこちなさはある。
それでも、ただ前へ歩いているだけではない。
俺の動きに合わせているようにも見えた。
ボス部屋手前の通路に近づくにつれ、奥から漂う気配が濃くなる。昨日もここで止まった。黒い石の壁に変化はなく、床にも古い血痕はない。倒したはずの敵の痕跡もほとんど残っていなかった。
二体のゴブリンが、俺より前へ出る。
そのまま入口側へ体を向け、先に入るつもりらしい。
俺は山刀を握り直した。
昨日はここで帰った。
だから今日は、この先を見る。
「行くぞ」
返事はない。
それでも二体は動いた。
俺はその後ろから、一層の奥へ踏み込んだ。