しばらく、動けなかった。
目の前では、壁際に倒れたゴブリンの小柄な身体が、変な方向へ折れ曲がっていた。粗末な刃物は少し離れた床に転がり、動く気配はない。俺はトレッキングポールを握ったまま、荒い息を吐いていた。
助かった。そう思うべき場面だった。実際、俺は生きている。左腕は斬られたが、まだ動く。ゴブリンは倒れ、行き止まりへ追い詰められた状況から、どうにか生き残った。
それなのに、安堵は訪れなかった。目の奥に何かがいる。その感覚だけが頭の中で膨らみ、目を閉じても消えない。まぶたの裏には白いものが焼きつき、眼球の奥、頭の奥、さらに深いところで、細い何かがゆっくりと身じろぎしていた。
吐き気がした。今すぐ目を掻きむしりたかったが、身体はそうしなかった。呼吸は少しずつ整い、心臓の音も先ほどより落ち着いていく。震えていた右手は、トレッキングポールを握り直していた。
おかしい。
もっと取り乱してもいいはずだった。泣き、叫び、這いつくばっていても不思議ではない。それなのに、俺はまずゴブリンが動かないかを確かめ、次に落ちている刃物の位置を確認し、その後で左腕の出血量を調べようとしていた。順番が妙に正しいことが、かえって恐ろしかった。
俺はゆっくりと左腕を見た。上腕の外側で服が裂け、その下の傷は思っていたより深い。皮膚が斜めに裂け、赤黒い血が滲んでおり、少し動かすだけで傷の奥が熱を持って脈打った。
ただ、出血量は思ったほど多くなかった。先ほどは腕を伝うほど流れていたはずなのに、今は傷口の周囲で血が粘るように留まっている。完全に止まってはいないが、本来ならさらに出血していてもおかしくない傷に見えた。
痛みも確かにあるが、遠かった。熱く、痛んでいるはずなのに意識の中心まで届かず、痛みの音量だけを誰かに勝手に下げられているようだった。
助かっている。そう考えた瞬間、背筋が冷えた。助かっていることが、気持ち悪かった。
俺はリュックを引き寄せ、片手で中を探った。救急セットから包帯、消毒用の小さなボトル、止血パッドを取り出す手は震えていたが、それでも動いた。
左腕をできるだけ動かさないようにしながら、傷口へパッドを当てる。歯を食いしばるほどの痛みが来ると思ったが、そうはならなかった。痛いはずなのに、そのまま作業を続けられた。
片手で包帯を巻くのは難しく、血で滑り、焦りで指先も震えていた。それでも何とか傷口を押さえる形にはできたが、普通ならもっと慌て、さらに失敗しているはずで、こんなふうに考える余裕もないはずだった。
俺は息を吐いた。考えるのは後だ。まずは生きて、ここから外へ出る。そう決めた瞬間、目の奥にいる何かが、わずかに動いた気がした。
俺は立ち上がった。膝には力が入りにくく、身体も重かったが、それでも立つことはできた。右手にトレッキングポールを持ち、リュックを背負い直す。
足元には、砕けた黒い殻の欠片が散らばっていた。持っていくべきかと、一瞬だけ考えた。これが何なのかを知る手がかりになり、外へ出て誰かに見せれば分かるかもしれない。証拠にもなる可能性があった。
しかし、すぐに首を振った。今は触りたくない。これ以上、あの黒いものへ関わりたくなかった。
欠片から目を逸らし、通路へ向かう。外へ戻るには、ゴブリンの死体の横を通らなければならない。
近づくほど、倒れた身体の異様さがはっきりと見えた。濁った目、開いた口、緑がかった灰色の皮膚。壁にぶつかった頭の辺りからは、黒っぽい血が滲んでいる。
俺がやった。そう思うと胃が縮んだ。人間ではないが、生き物だった。それを俺は殴り飛ばし、動かなくした。
その事実に足が止まりかけた時、目の奥がぴくりと反応した。視線が、ゴブリンの傷口へ向きそうになる。
俺は反射的に顔を背けたが、目が再び戻ろうとした。倒れたゴブリンを見ろと、頭の奥から細い指で視線を引かれているような感覚がある。恐怖による思い込みかもしれなかったが、俺には分かった。中にいる何かが、あの死体へ反応している。
「見るな」
声に出していた。自分に言ったのか、中にいる何かへ言ったのかは分からない。
俺は無理やり視線を外し、ゴブリンの横を足早に通り抜けた。背中がぞわぞわと粟立ったが、振り返らなかった。振り返れば、何かが始まってしまう気がした。
来た道を戻っているはずだったが、似たような石壁ばかりが続くため、次第に自信がなくなった。先ほどは必死で逃げており、曲がり角の数も通路の向きも、まともに覚えていない。
ライトの光が揺れる中、呼吸を整える。足を止めず、急ぎすぎないよう自分へ言い聞かせた。通路は静かすぎるほど静かだった。自分の靴音だけがやけに大きく響き、水が滴る音も外の気配もない。先ほどまでいた暗渠の湿った空気が、すでに遠いもののように感じられた。
やがて、右と左へ分かれる道に出た。来た時にこんな場所を通ったかどうか、覚えていない。
ライトを左右へ向けると、どちらも似たような石の通路に見えた。左はわずかに広く、右は狭いうえに奥が暗い。普通に考えれば、広い方を通りたくなる。
左へ足を向けた瞬間、身体が止まった。自分で止めたのではない。踏み出そうとした右足が、床へ貼りついたように動かず、全身から血の気が引いた。
「……ふざけんな」
小さく吐き出し、足へ力を込める。動かない。正確には、無理やり動かそうと思えば動かせそうだった。しかし、身体の奥から強烈な拒否感が上がってくる。そちらへ行くなと、言われているようだった。
その時、左の通路の奥から、石を踏むような小さな音がした。続いて、低い息遣いのようなものが聞こえてくる。ゴブリンなのか、別の何かなのかは分からないが、確実に何かがいた。
俺が息を止めると、足は動くようになった。右の通路へ身体を向ければ、今度は何の抵抗もなく進める。
助かったと思いかけて、すぐに疑問が浮かんだ。これは助かったのか。それとも、助けられたのか。
俺は右の通路へ入り、足音をできるだけ殺しながら進んだ。トレッキングポールを握る右手には力が入り、左腕も痛んでいたが、その痛みはまた少し遠ざかっていた。気持ち悪さとありがたさ、恐怖がすべて同時にあった。
通路は少しずつ狭くなり、やがて壁の質感が変わり始めた。黒ずんだ石がひび割れたコンクリートへ戻り、足元にも泥が混じってくる。鼻の奥には、湿った水路の匂いが戻ってきた。
暗渠だった。俺は思わず息を吐いた。戻ってきた。
帰り道は完全に分からなくなっていたはずなのに、ここまで戻ることができた。喜ぶべきなのかもしれなかったが、それすら素直には受け取れなかった。俺は本当に、自分でここまで戻ってきたのか。それとも、戻されたのか。
暗渠の低い天井をくぐり、腰をかがめながら進んでいく。外の光はまだ見えないが、空気は明らかに変わっていた。湿っており、冷たさもあるが、先ほどの石室とは違う。泥と苔、古い水の匂いがする。
現実の匂いだった。
水たまりを踏む音や、リュックが壁に擦れる音が響き、右手のトレッキングポールも時折コンクリートへ当たって小さな音を立てる。それが妙に安心できた。
しばらく進むと、暗渠の出口に薄い灰色の光が見えた。外だ。
俺は最後の数メートルを、ほとんど転がるように進んだ。膝と片手を泥につきながら、暗渠の外へ這い出る。草と川の匂いがし、遠くから車の音が聞こえた。どれも、ほんの数十分前までは当たり前だったものだった。
橋の下へ出た瞬間、俺はその場に崩れ落ちた。膝が笑い、右手からトレッキングポールが滑り落ちる。左腕は包帯の下で熱を持ち、今度ははっきりと痛んでいた。服も手も泥と血で汚れ、呼吸は乱れ、胃の中から何かがせり上がってくる。
それでも生きていて、外へ出ることができた。
見上げた橋の隙間からは、信じられないほど普通の空が見えた。雲が流れ、鳥の声が聞こえ、どこかで自転車のブレーキ音が鳴っている。世界は何も変わっていなかった。変わったのは、俺だけだった。
その事実に気づいた瞬間、ようやく恐怖が戻ってきた。指が震え、歯が鳴り、呼吸が浅くなる。さっきまで抑えられていたものが、少しずつ漏れ出してきた。
俺は右手で自分の目元へ触れた。傷も血もないが、確かにそこから入ってきた。あの白いものは俺の中にいて、目の奥では細い何かがゆっくりと身じろぎしている。
吐き気を堪えながら暗渠の入口を振り返ると、そこにはただの古い水路が口を開けているだけだった。
誰も知らない入口。俺の人生を変えるかもしれない場所。そう思って探していたものは、確かに見つかった。
けれど、俺が持ち帰ったのは宝でも、名誉でも、夢でもなかった。自分の胸を押さえると、心臓は動き、呼吸もできている。それでも、身体の内側だけが、まだあの黒い石室へつながっているように感じられた。
外へ出たはずなのに、俺の中だけは、まだダンジョンの中だった。