画面が大きく傾いた。
床が映り、濡れた壁が映り、誰かの足が画面の端を横切った。
銃声。
水音。
短い指示の声。
それらが重なり、配信の音声は一瞬、何を拾っているのか分からなくなった。
『カメラさん!』
『後ろ後ろ後ろ』
『イモリ来てる』
『配信止めろ』
『いや止める余裕ないだろ』
『亀さん逃げて』
『銃声やばい』
『これ公式配信だよな?』
後方カメラの映像には、壁から剥がれ落ちるように跳んだイモリ型が映っていた。
体長は一メートルほど。
大きさだけなら、正面のカエル型や山椒魚型に比べれば小さい。
だが、距離が近かった。
濡れた壁と同じ色をした体は、カメラマンの横合いから滑るように迫っていた。
後方の自衛隊員が銃口を向ける。
撃つ。
弾は当たった。
イモリ型の肩口に黒い穴が開き、ぬめった体液が飛ぶ。
それでも止まらない。
小さく体を捻り、壁を蹴って、もう一度跳ぶ。
「後方、接近!」
「非戦闘員を下げろ!」
「正面、詰めてくる!」
正面では、カエル型が床を踏み鳴らしていた。
厚い皮膚に銃弾が食い込み、灰緑色の表面が裂ける。
命中している。
自衛隊員は外していない。
だが、弾は深く入らない。
湿った皮膚と筋肉が、衝撃を飲み込むように沈み、次の瞬間には押し戻す。
カエル型は喉を膨らませ、低い音を鳴らした。
その後ろで、山椒魚型が水を押し分ける。
三メートル近い胴体が、通路の奥を塞ぎながら前へ出てくる。
『当たってるよな?』
『当たってるのに止まってない』
『昨日のカマドウマと違う』
『二層でも相性あるのか』
『銃が効いてないんじゃなくて止まらない』
『前も後ろも無理』
『撤退できない』
亀山は、壁際に押し込まれるように下がっていた。
戦闘要員ではない。
機材を抱えた記録担当も、後ろへ下がろうとしていた。
しかし退路にはイモリ型がいる。
正面を見れば、カエル型と山椒魚型がいる。
後方を守れば、正面が崩れる。
正面を止めれば、後方の非戦闘員がやられる。
誰かが、配信停止を叫んだ。
だが、誰も端末に触れなかった。
触れられなかった。
配信画面の端で、停止ボタンだけが赤く小さく光っている。
イモリ型が、カメラマンへ向かって跳んだ。
カメラマンは足を滑らせ、尻もちをつく。
銃口が追う。
間に合わない。
その時、画面の下端に、白い点が映った。
『え』
『何』
『白いの』
『床?』
『虫?』
最初は、水しぶきか、床の汚れが剥がれたように見えた。
白い点が一つ。
二つ。
濡れた床の割れ目から、壁の継ぎ目から、水路の縁から、細い糸くずのようなものが滲み出してくる。
それは、次の瞬間には点ではなくなっていた。
白い小さな虫だった。
線虫にも、羽のない蛾の幼虫にも、糸の束にも見える。
形は一つに定まらず、ただ白く、細かく、数だけが増えていく。
イモリ型の前脚に、それらが触れた。
イモリ型は構わず跳ぼうとした。
だが、足が床から離れない。
白い虫が、足首に絡み、指の間に入り込み、濡れた皮膚の上を走る。
一匹一匹は小さい。
踏めば潰れるほどに見える。
実際、イモリ型が暴れた拍子に、何匹かは弾けるように潰れた。
それでも次が来る。
その次も来る。
白いものが、床の隙間から湧き続ける。
『虫だ』
『白い虫』
『めっちゃいる』
『カメラさんの足元!』
『イモリ止まった?』
『何これ』
『亀さんの虫?』
イモリ型が甲高く鳴いた。
口を開けた瞬間、白い虫の群れが口の端へ入り込む。
目の周りに集まる。
傷口に入り込む。
皮膚の表面を食い破るのではない。
柔らかい場所を探して、そこへ潜り込んでいる。
イモリ型はカメラマンではなく、自分の前脚と顔を振り払おうとした。
その動きで、カメラマンとの距離が初めて離れた。
「下げろ!」
後方の自衛隊員がカメラマンの襟を掴み、引きずるように下がらせる。
亀山も職員に腕を掴まれた。
だが、亀山の目は、白い虫から離れなかった。
「……虫?」
その声が、配信に拾われた。
『亀さんが虫って言った』
『元虫配信者』
『虫配信者が虫に助けられてる』
『いやそれどころじゃない』
『イモリ食われてる?』
『食ってるというか入り込んでる』
『怖い怖い怖い』
正面のカエル型が、大きく跳ねた。
銃声が集中する。
弾は当たる。
皮膚が裂ける。
だが、着地の衝撃で床の水が跳ね、隊列が一瞬乱れた。
山椒魚型が、その隙間へ胴体を滑り込ませる。
通路がさらに狭くなる。
白い虫は、後方だけに留まらなかった。
水路の縁に沿って、白い帯が走る。
開けた床を横切る時は遅い。
乾いた場所では、数が削れるように止まる。
だが、水のある場所、壁の隙間、ぬめった床の上では、一気に増えた。
そこが、奴らの道だった。
正面の自衛隊員が、白い帯に気づく。
「正面、足元に未確認群体!」
「撃つな! 対象を確認しろ!」
「敵性生物へ向かっています!」
虫群は、人間の足を避けた。
正確に避けているのか、熱や匂いを嫌っているのか、それは分からない。
ただ、倒れたカメラマンの靴の縁を回り込み、亀山の足元をかすめる寸前で流れを変えた。
そのまま水路側を伝って、カエル型へ向かう。
カエル型の厚い皮膚には、銃弾が作った浅い傷がいくつもあった。
白い虫は、そこへ群がった。
背中を破れない。
太い脚の表面を噛み砕けない。
だが、弾痕があった。
目があった。
鼻孔があった。
大きく膨らむ喉があった。
カエル型が、初めて後ずさった。
『カエル下がった』
『銃じゃ下がらなかったのに』
『白いのが傷口に入ってる』
『うわ』
『これ映していいやつ?』
『もう流れてるんだよなぁ』
『録画してる』
『消されるぞ』
山椒魚型が体をくねらせた。
白い虫は巨体の背中ではなく、腹側へ潜る。
脚の付け根に集まる。
口元に集まる。
ぬめる皮膚の上では滑り落ちるが、落ちた先からまた別の虫が這い上がる。
数が足りない場所では剥がされる。
だが、水路側からさらに白いものが流れ込んだ。
数で押している。
それだけだった。
大きな一撃はない。
爆発もない。
派手な光もない。
ただ、白い点が増え、線になり、帯になり、生き物の形を覆っていく。
銃弾を受けても前へ出ていたカエル型が、脚を折った。
山椒魚型の胴体が、水の中で暴れる。
水しぶきが上がり、画面が白く曇る。
自衛隊員たちは、撃たなかった。
撃てなかった。
人間を避けているように見える未確認群体が、敵性生物を制圧している。
そこへ銃弾を撃ち込めば、何が起きるか分からない。
現場指揮の声が飛ぶ。
「射撃停止。距離を取れ。非戦闘員を後方へ」
「後方確保」
「負傷確認」
「未確認群体、継続観察」
亀山は、半ば引きずられるように下がった。
息が上がっていた。
手袋の中で手が震えている。
それでも視線は、白い群れを追っていた。
イモリ型は、すでに動いていなかった。
カエル型も、喉を膨らませることができなくなっていた。
山椒魚型だけが最後まで体を捻っていたが、やがてその動きも鈍くなる。
白い虫群は、敵性生物の上でしばらく蠢いていた。
食っているのか。
調べているのか。
制圧しているのか。
亀山には分からなかった。
『終わった?』
『勝ったの?』
『虫が勝った?』
『亀さん何かした?』
『亀さんテイマー説』
『元虫配信者が虫を従えてる』
『虫使い覚醒』
『いや本人何もしてないだろ』
『でも亀さんの方だけ避けてなかった?』
『主認定された?』
『公式配信で能力覚醒は草』
『草じゃない怖い』
「違います」
亀山の声が、かすれて配信に入った。
「僕は、何もしてません」
コメント欄の勢いは止まらない。
だが、亀山は画面を見ていなかった。
白い虫群が、敵性生物から離れ始めていた。
敵を倒したから消える。
そういう動きではなかった。
まるで、終わったことを確認したように、まとまりを失わず、水路の縁へ戻っていく。
その途中で、群れの一部が止まった。
水路の縁。
濡れた床。
壁の低い位置。
そこに、白い虫が集まる。
小さな一匹一匹に目があるのかは分からない。
だが、群れ全体が、こちらを向いたように見えた。
亀山を見ていた。
自衛隊員が銃口をわずかに上げる。
安全管理職員が手で制した。
撃つな、という意味だった。
亀山は動けなかった。
見られている。
そう感じた。
水辺で、草むらで、ライトに集まる小さな虫を覗き込んだことは何度もある。
だが、覗き込まれる側になったことはなかった。
白い群れは、亀山へ近づかなかった。
襲わなかった。
ただ、観察していた。
数秒か。
十秒か。
その時間だけ、銃声も、コメント欄も、遠くなった。
『見てる』
『亀さん見られてる』
『完全に亀さん見てる』
『懐いた?』
『テイマーじゃん』
『違うって本人言ってる』
『これ虫の方が観察してない?』
『怖すぎ』
『なんで襲わないんだ』
『人間を識別してる?』
やがて、白い虫群は動いた。
亀山ではなく、水路の方へ。
濡れた隙間へ。
壁と床の継ぎ目へ。
そこへ流れ込むように、少しずつ消えていく。
最後の一匹まで、音はほとんどなかった。
後には、倒れた水棲型の敵性生物と、濡れた床と、白いものが這った跡だけが残った。
亀山は、ようやく息を吐いた。
喉が張り付くように乾いている。
「……助けられた、んですかね」
誰も、すぐには答えなかった。
現場指揮の声が、遅れて戻ってくる。
「負傷者確認。全員、後退。配信停止」
今度は、はっきりと指示が出た。
記録担当が、震える手で端末に触れる。
配信画面のコメント欄は、まだ流れ続けていた。
『切るな』
『いや切れ』
『亀さん無事?』
『虫どこ行った』
『今の何』
『亀山テイマー説』
『公式説明頼む』
『録画した』
『消される前に保存しろ』
『これ世界変わっただろ』
画面が暗転する直前、亀山の声だけが入った。
「僕じゃ、ないです」
配信は、そこで切れた。