離職票が届いた。
封筒は、拍子抜けするほど普通だった。会社名の入った白い封筒に宛名と折り目があり、中には書類が数枚入っている。退職日、賃金、雇用保険、離職理由が事務的に並んでいた。
俺はテーブルの上にそれを広げ、しばらく眺めていた。
会社を辞めると決めた時点で、分かっていたことではある。有休消化が終われば、会社員ではなくなる。給与明細も来なくなり、保険証も返した。社内メールも、もう開けない。何も突然ではなかった。
それでも、紙に書かれると少し違う。退職という二文字は、ダンジョンの暗がりより地味で、役所の蛍光灯みたいに逃げ場がなかった。
俺は封筒の中身をもう一度確認した。離職票、源泉徴収票に関する案内、健康保険の切り替え案内、年金の説明。書いてあることは分かる。分かるが、読むたびに別の紙を読めと言われる。別の紙を読むと、また別の窓口の名前が出てくる。
異常空間でゴブリンに襲われた時より、手続きの導線が複雑だった。
スマホで市役所のページを開く。国民健康保険、国民年金、雇用保険。会社を辞めた人の手続き。必要なもの。本人確認書類。マイナンバー確認書類。離職票または退職証明書。印鑑は不要な場合があります。
不要な場合があります、が一番信用できない。
俺は必要そうなものを鞄に入れた。財布、身分証、マイナンバーカード、離職票、年金手帳らしきもの、念のため印鑑。会社員時代のノートも入っていた。昨日、「暗渠・撤退条件」と書いたページがあるやつだ。
役所へ行くのに、暗渠の撤退条件を持っていく。かなり意味が分からないが、置いていく気にもならなかった。
市役所は、合同庁舎とはまた違う普通さだった。入口に総合案内があり、番号札と待合椅子が並んでいる。高齢者、子連れの母親、スーツ姿の人、作業着の人。誰もダンジョンの話をしていない。少なくとも、声に出してはいない。
俺は案内板を見て、まず国民健康保険の窓口へ行った。
「退職に伴う切り替えですね」
職員は慣れた様子で書類を確認した。俺が会社を辞めて無職になったことは、窓口からすれば日常業務の一つだった。
異常空間に入ったとか、寄生体がどうとか、黒い階段がどうとかは関係ない。退職した人が来て、保険の手続きをする。ただそれだけだ。
「こちらにご記入ください」
渡された用紙に、氏名、住所、生年月日を書いた。世帯主、電話番号、退職日。ペン先が紙の上を進む。ここまではいい。
途中で職業欄が出てきて、俺は手を止めた。
会社員ではない。自営業でもなく、学生でもない。異常空間民間調査員とは書けない。仮登録者というだけで、それで生活しているわけでもない。そもそも、あれは職業なのか。制度上はどういう扱いなのか。五級仮登録者は、名刺に書ける肩書きなのか。
書けない。書いたら窓口の人が困るし、俺も困る。
少し迷い、空欄のまま職員へ用紙を渡すと、すぐに指摘された。
「こちら、職業欄だけお願いします」
「……今は、退職したところで」
「無職で大丈夫です」
大丈夫。
その言い方に悪気はない。実際、事務上はそれで大丈夫なのだろう。
俺は用紙を戻され、職業欄に「無職」と書いた。漢字二文字が、思ったより重かった。
自分で書くと、妙に生々しい。口で言うより、スマホのプロフィールに入れるより、紙に書く方が逃げ場がない。
会社を辞めたのは自分だ。誰かに切られたわけではない。勢いで辞めた。ダンジョンを探したくて辞めた。後悔しているかと聞かれれば、していない。していないはずだ。
だが、無職と書いたペン先だけが、少し遅れて現実を連れてきた。
「ありがとうございます。では、こちらで確認します」
職員は普通に受け取った。俺の中で少し引っかかったものは、窓口では何も引っかからなかった。
手続きは進む。保険料の説明、納付書の送付、減免の案内。収入が減った場合の申請。必要なら別窓口で相談。
収入という言葉を聞きながら、頭の中で貯金額を思い浮かべた。家賃、食費、スマホ代、光熱費、国保、年金。会社員の頃は給与から勝手に引かれていたものが、これからは自分に向かってくる。
ダンジョンで拾ったものはある。だが、使えないものばかりだ。
暗渠には、赤みのある小瓶が二本置いてあり、赤錆の山刀と寄生ゴブリンもいる。その先には黒い階段がある。自宅の冷蔵庫には透明な小瓶があり、雑木林の大型コボルトから得た魔石と牙も残っている。どれも表に出せず、出せば説明が必要になり、説明した時点で終わるものだった。
金になるかもしれないものはあるのに、金にできない。かなり馬鹿な状態だった。
次は国民年金の窓口だった。こちらでも、退職日、基礎年金番号、本人確認。免除申請の説明。収入が減った場合は申請できます、と言われる。
「現在、お仕事はされていますか」
「いえ」
「求職中ということでよろしいですか」
求職中という言葉に、俺はまた少し止まった。
仕事を探しているか。探してはいない。だが、職業欄に無職と書いたばかりで、「探していません」と言うのは妙に勇気がいる。
「……今後、考えています」
かなり便利な返事で、職員も特に突っ込まなかった。
「では、必要に応じてハローワークで雇用保険の手続きもご確認ください」
「はい」
雇用保険や失業給付、ハローワークは、会社を辞めた人間が通る普通の道だった。
その普通の道の横に、俺の中では暗渠の入口が開いている。普通の人なら、失業給付を受けながら就職活動をするのだろう。俺は失業給付の説明を聞きながら、黒い階段に一人で入らないと書いたノートの重さを鞄の中に感じている。
どちらが本筋なのか、分からなくなってくる。
役所の手続きが終わる頃には、昼を過ぎていた。俺は近くのコンビニでおにぎりと水を買い、公園のベンチに座った。
平日の昼間の公園は、思ったより静かだった。鳩が歩き、ベビーカーを押した人が通り、作業服の男が缶コーヒーを飲んでいる。
おにぎりの包装を開きながらスマホで互助会の掲示板を見ると、#制度に聞きにくい質問にちょうど似た話題があった。
五級見習い:
仮登録者って職業欄に書けますか?
紙の盾:
早い
安全靴の民:
書いたら窓口の人が困りそう
ポケット石:
探索者って書きたい気持ちはある
槙野@準備会:
現時点ではおすすめしません。仮登録は制度上の資格・参加状態に近く、安定した職業として扱われるかは別です。公的書類には実態に合わせて記入してください。分からない場合は窓口で確認を。
泥つき手袋:
実態に合わせたら無職です
五級見習い:
つらい
槙野@準備会:
つらいですが、虚偽記載よりはましです
俺は思わず画面を見つめた。みんな同じような場所で止まっている。職業欄で手を止め、無職と書き、探索者と名乗りたい気持ちを持て余していた。
ゲームなら、冒険者ギルドに登録した瞬間から職業は冒険者で済む。現実では、国民健康保険の用紙に無職と書く。
夢が削られる音がする。だが、その削られた形の方が、今の世界には似合っているのかもしれない。
さらに下に、槙野の長めの投稿が続いていた。
槙野@準備会:
現状、五級仮登録だけで生活するのは難しいと思います。協力金や採取物の扱いはありますが、安定収入とは言いにくいです。正式登録や企業契約、研究協力などが今後増える可能性はありますが、今すぐ仕事として成立するかは人によります。
ただ、だからこそ情報共有は必要です。制度が固まる前は、知っている人と知らない人の差が大きくなります。
知っている人と知らない人の差。
槙野らしい言い方だった。夢だけではない。打算もある。早く動いた人間が場所を取る。その感覚が文章の奥にある。
俺はおにぎりを食べながら、財布の中身を確認した。意味はない。銀行残高はスマホで見られる。だが、なんとなく財布を見たくなった。
入っていたのは少しの現金とカード、それにレシートだった。ダンジョンの奥とは別の、かなり手前にある生活の現実だ。
ここを無視して進めるほど、俺は勇者ではない。そもそも勇者ではなく、無職だ。
自分で書いた二文字を思い出し、少し笑った。笑ったら、思ったより喉が乾いた。
水を飲み、互助会の画面へ戻る。返信欄を開いたが、何か書くか迷った。
職業欄に無職と書きました。思ったより刺さりました。そんなことを書いてどうする。
だが、#制度に聞きにくい質問には、そういう話が並んでいる。正式な窓口に聞くほどではないが、一人で抱えると妙に重い話。
俺は少し考えて、短く入力した。
見学中:
今日、職業欄で止まりました。
送信する。昨日よりは、少しだけ指が軽かった。
すぐに返信が来る。
泥つき手袋:
分かります。無職って自分で書くとダメージある。
安全靴の民:
自分は会社員のままなので、逆に活動時間が取れないです。どっちもきつい。
紙の盾:
探索者って書ける日が来るんですかね
ポケット石:
職業:帰宅部
五級見習い:
帰宅部は職業じゃない
槙野@準備会:
職業ではありません。活動方針としてはかなり良いですが。
また帰宅部に戻っている。俺はベンチで少し笑った。
それから、槙野の個別返信がついた。
槙野@準備会:
見学中さん、退職後の手続きなら、失業給付や国保、年金の減免などは早めに確認した方がいいです。五級活動を続ける場合でも、生活費を曖昧にすると判断が荒れます。お金がない状態で異常空間に入ると、戻る判断が遅れます。
お金がない状態で異常空間に入ると、戻る判断が遅れる。
俺はその文を二度読んだ。かなり嫌な言葉だったが、たぶん正しい。
金が必要になれば、奥へ進む理由が増える。採取物がほしくなる。危険物でも持ち帰りたくなる。まだ行ける、もう少しだけ、と自分に言う材料が増える。
今の俺に必要なのは、黒い階段の撤退条件だけではない。生活の撤退条件も必要なのかもしれない。
貯金がいくらを下回ったらどうするのか。協力金をあてにしすぎない。未申告のものを金にしない。生活費のために暗渠を使わない。書いた方がいいと思った瞬間、少しだけ息が詰まった。
暗渠を使わない。本当にそれでいいのか。
また、似た疑問が胸の奥をかすめた。
暗渠には、俺しか知らないものがある。危険もある。価値もある。奥もある。使わないと決めることは、安全のためであり、身を守るためだ。
だが同時に、俺が見つけた入口から自分を引き剥がすことでもある。
俺は何に縛られようとしているのだろう。制度や生活、自分で書いた紙なのか。それとも、奥を見たい自分を、まだ人間側につないでおくための紐なのか。
答えは出ない。
公園の向こうで、子供が転び、すぐに立ち上がった。母親が声をかける。何も特別ではない昼だった。
俺はスマホを閉じ、鞄からノートを出した。暗渠・撤退条件の次のページを開き、上にこう書いた。
生活・撤退条件
書いてから、少し笑った。
生活に撤退条件。意味が分からない。だが、異常空間に入る時だけ危ないわけではない。たぶん、金がなくなるのも、判断が荒れるのも、同じくらい危ない。
俺は続けて書いた。
一、生活費のために未申告物を売らない。
二、協力金を固定収入として数えない。
三、貯金が一定額を下回ったら、活動頻度を落とす。
四、正式登録や研究協力の条件を確認する。
五、暗渠を収入源として扱わない。
五つ目で、手が止まった。
暗渠を収入源として扱わない。その文字は、黒い階段よりも赤い線を引いたように見えた。
俺はペン先を紙の上に置いたまま、しばらく動けなかった。あそこには、赤みのある小瓶が二本ある。赤錆の山刀がある。寄生ゴブリンが五体いる。下には、まだ見ていない場所がある。
使わず、金にもせず、少なくとも今は距離を置く。そう書くことは正しいはずだ。それでも、正しさは時々、首輪みたいな形をしている。
俺はノートを閉じた。
役所でもらった書類、互助会のカード、暗渠の撤退条件、生活の撤退条件。鞄の中身が、妙な方向に重くなっている。
会社員ではなくなった。探索者でもない。公的な用紙には、無職と書いた。
それでも、俺の一日は、役所の窓口と互助会の掲示板と、暗渠の奥につながっている。
家へ帰る途中、ハローワークの看板が目に入った。今日は入らなかった。
時間がなかったからでも、手続きが面倒だったからでもない。まだ、そこに行く自分を想像できなかった。
駅へ向かいながら、俺は鞄の中のノートを指で押さえた。
職業欄には無職と書いたが、何もしていないわけではない。戻るための条件を増やし、先を見るために自分を縛っている。
そのどちらなのか、まだ分からないまま、俺は改札を通った。