協力者は、探し出したのではなかった。向こうから来た。
正式五級登録者の中に、元陸上自衛官がいる。退職後に民間企業へ移り、その後、異常空間民間調査員制度に応募した人物だった。名前は深町浩一。元二等陸曹、普通科出身で、現在は五級正式登録者だ。
最初に連絡を受けた担当職員は、企業案件の相談か、制度上の問い合わせだと思ったらしい。だが、深町が持ち込んだのは、もっと扱いに困る内容だった。
異常空間に入ってから、身体の動き方が変わった。外でも少し残っているが、中ではもっと違う。
本人の言葉は、そういうものだった。
普通なら、自己申告として処理される。活動後に体が軽い、よく眠れる、空腹が強い、夢を見る。そうした報告はすでに複数ある。だが、深町の場合は少し違った。
元自衛官で、自分の身体能力の記録が残っていた。
持久走、懸垂、腕立て、荷重行軍、射撃姿勢の保持時間。現役時代の測定値に加え、退職後に趣味で続けていたトレーニング記録もある。心拍数、睡眠、体重まで、几帳面すぎるほどの数字を本人が持ってきた。
さらに、深町は連絡の中でこう書いていた。
「気のせいで済ませるには、数字が合いません」
その一文で、国側の扱いが変わった。
検証は、管理済み低危険度区域の外にある訓練施設と、隣接する異常空間内の測定区画で行われることになった。医療班、制度担当、研究員、自衛隊側の観察員まで、現場には思っていたより多くの人間が集まっている。
真壁一等陸曹も、その中にいた。
前日に盾と長柄の訓練を終えたばかりだ。今度は、五級正式登録者の身体能力変化を確認する。訓練の続きのようで、内容はまったく違う。
深町は、見た目だけなら普通の中年に近かった。
背は高すぎず、体格は締まっているが、目立つほど大柄ではない。髪は短く、姿勢がいい。自衛官だったと聞けば納得するが、街中で見かければ、少し鍛えている会社員に見える。
「深町さん、本日はご協力ありがとうございます」
制度担当が言うと、深町は短く頭を下げた。
「こちらこそ。放っておく方がまずいと思いました」
その言い方が、妙に現場の人間だった。
研究員が測定内容を確認する。握力、跳躍、反応時間、荷重移動、短距離走、押し合い、盾への衝撃、疲労回復。医療班が心拍と酸素飽和度を取り、異常空間内の測定は短時間に限る。異変があれば即中止だった。
まず外で測った。
結果は、驚くほど派手ではなかった。握力は同年代平均より高く、反応時間も良い。荷重を背負った移動も安定している。だが、元自衛官で、普段から鍛えている人間として見れば、あり得ない数字ではない。
研究員の一人が少し肩透かしを食った顔をし、深町はそれを見て苦笑した。
「外だと、こんなものです」
「いえ、十分驚いています。訓練量も現役とは違うでしょうに。ご本人の感覚では、もっと違いますか」
「軽いんです。体がというより、動き出しが。あと、疲れが抜けるのが早い。ただ、数字だけ見ると、年齢の割に調子が良いで済む範囲だと思います」
真壁はその言葉を聞きながら、深町の立ち方を見ていた。
力が強いというより、無駄が少ない。足の置き方、肩の抜き方、視線の使い方。普通の民間人ではない。だが、怪物でもない。
外なら、という言葉が頭に浮かんだ時点で、すでに嫌な予感はあった。
次に、測定区画へ移動した。
異常空間の入口は、管理施設の奥にあった。金属扉の先に、石造りに似た短い通路が続いている。壁の質感は施設の内装と合っていない。何度見ても、その境目は気持ち悪い。
入った瞬間、空気が変わった。
湿度でも温度でもない。体の内側に薄く圧がかかるような感覚がある。真壁は一瞬、肩を動かした。昨日の訓練場では感じなかったものだ。
深町は少しだけ息を吐いた。表情は変わらないが、真壁には分かった。今、体の置き方が変わった。
同じ人間が、同じ姿勢で立っている。それでも、足裏から床へ落ちる重さの質が違う。体幹が太くなったわけでも、筋肉が膨らんだわけでもないのに、そこにいる深町は外より安定して見えた。存在感が増した、と言った方がしっくりくる。
測定が始まった。
反応時間は外よりわずかに縮み、跳躍距離も伸びた。短距離の初速も良い。握力に大きな変化はないが、荷重移動のぶれが明らかに減っている。疲労時の姿勢保持も落ちにくい。
研究員の顔つきが変わった。
派手な超人化ではない。だからこそ、嫌だった。これが、異常空間にそれほど身を置いていない段階で身についている。
深町は数値以上に動けている。筋力そのものより、力の入り方と抜け方、姿勢の戻り方が変わっていた。
「次、盾です」
真壁は観察役の予定だったが、途中から実際に受ける側へ入ることになった。防具をつけ、盾を構える。相手は深町。外でも一度、同じ検証をしている。深町が一定距離から踏み込み、盾を押す。真壁は姿勢を保ち、押し返す。
外では、重いが耐えられた。元自衛官の踏み込みとして、納得できる重さだった。
異常空間内で、同じ手順を行う。
「開始」
深町が来た。
一歩目で、真壁は違いを理解した。速いというより、近い。
間合いが縮むまでの時間が短く、踏み込みに迷いがない。盾に衝撃が入った瞬間、真壁の踵が床を擦った。
半歩ではない。一歩近いところまで構えを外されたところで、教官役の声が飛んだ。
「止め」
真壁は盾を下げて息を吐いた。防具越しに腕が痺れている。
深町はすぐに一歩下がった。
「大丈夫ですか」
「問題ありません」
真壁はそう答えたが、内心では別の言葉が浮かんでいた。このままではまずい。
外での深町なら、訓練した隊員が複数いれば制御できる。少なくとも、そう思える。だが、中では違う。力が単純に倍になったわけではなく、銃弾を弾くような話でもない。
ただ、こちらが知っている人間の動きから、半歩ずれる。その半歩で、盾が遅れ、拘束が遅れ、撤退路の確保まで遅れる。
昨日の訓練で、敵性生物の停止効果を考え直したばかりだった。今日は、人間側の動きまで考え直すことになる。
深町は測定の合間に、研究員へ自分の感覚を説明していた。
「中に入ると、体の動かし方を思い出す感じがあります。現役の頃に戻る、とは少し違います。関節が若返るわけでも、筋肉が増えるわけでもない。ただ、体が先に迷わない」
「痛みは」
「消えるわけではありません。ですが、動きを止めるほどではなくなる時があります」
「疲労感は」
「外へ出ると来ます。中では遅れている感覚です」
「それは危険ですね」
医療班の一人が言った。
深町は頷いた。
「だから連絡しました。中で動けるからといって、外へ出た時に体が無事とは限らない」
その場にいた何人かが黙ってメモを取り、推測はその日のうちに仮報告としてまとめられた。
異常空間内では、一部の正式登録者において、筋力そのものの増加よりも、運動制御、反応、疲労遅延、痛覚による停止反応の鈍化、姿勢復元能力の向上が疑われる。外部でも軽微な残存または訓練効果が見られる可能性があるが、現時点では個人差が大きい。
元自衛官、格闘技経験者、競技経験者のように、自分の身体の基準を持つ者ほど変化を自覚しやすく、また異常空間内での実効的な差が大きくなる可能性がある。
研究員は、そこに赤字で補足を書き込んだ。
身体能力の増加と表現すると誤解がある。筋肉量や単純な出力ではなく、環境内での身体運用全体の変化として扱うべき。
真壁は仮報告の画面を横から見ていた。
言葉は難しい。だが、盾で受けた腕には、もっと単純な答えが残っている。
中の深町は、外の深町とは違った。同じ顔で、同じ声で、同じ元自衛官で、それでも違った。
検証後、深町は施設の廊下で水を飲んでいた。汗は出ているが、息は整っている。医療班からは、この後も経過観察を受けるよう言われている。
真壁は少し迷ってから、声をかけた。
「深町さん」
「はい」
「なぜ、自分から連絡を」
深町はペットボトルの蓋を閉めた。
「元の職場が、これを知らないまま入るのはまずいと思ったからです」
その答えは短かった。
真壁は黙って続きを待った。深町は少しだけ視線を落とす。
「自分は五級です。まだ大したことはしていない。それでも、中では外より動ける。なら、もっと潜る人間はどうなるのか。若くて、強くて、戻り方を知らない人間が、あの感覚を自分の実力だと思ったらどうなるのか」
廊下の奥で、別の隊員が装備を運んでいる音がした。
「企業でも、民間でも、自衛隊でも同じです。中で動ける人間を便利に使いたくなる。でも、本人の体がそれに追いついているとは限らない。外に出た時に、壊れてから分かるんじゃ遅い」
真壁は、昨日の訓練で聞いた言葉を思い出した。倒したことより、戻ったことを評価する。
戻った後の体まで見なければ、戻ったとは言えない。そう思った。
深町は小さく笑った。
「それに、自衛官だった人間が黙っていたら、後で気分が悪いでしょう」
「今は民間人です」
「だから言いやすいこともあります」
その言い方に、真壁は少しだけ苦笑した。
検証が終わり、真壁は施設外の駐車場に出た。夕方の空気が肌に触れる。異常空間内にいた時間は長くない。それでも、外の空気が薄く感じた。
腕にはまだ、盾越しの衝撃が残っている。
小銃を置く訓練をし、盾と長柄で戻る形を覚えた。その直後に、正式五級の中には、環境の内側で動き方そのものが変わる人間がいると知った。
敵だけを見ていればいい段階は、もう過ぎている。
味方になるはずの調査員も、守るべき民間人も、企業に囲われる人材も、自衛隊に協力する元隊員も、異常空間の中では外と同じ身体ではいられない。
真壁は車両へ戻る前に、もう一度施設の入口を見た。
金属扉の奥に、短い石造りの通路がある。深町は、あちら側で半歩だけ速かった。その半歩で、盾が動かされた。
真壁は右腕を軽く振った。痛みはない。
だが、記録より先に、体が覚えていた。このままではまずいと認識するには、それで十分だった。