寄生虫と行く現代ダンジョン   作:脳タリン

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第96話 寄生

 

 地図読みの体は、軽かった。

 

 倒れている人間の重さは、立っている時よりも重く感じるはずだった。だが、戸張の手の下にある体は、力を失いすぎて、逆に現実感が薄かった。

 

 呼吸が浅い。

 

 浅い、というより、もう途切れかけている。

 

 胸がかすかに上下した。次が来ない。来るかどうか分からない間が、一秒ごとに伸びていく。

 

 戸張は傷口へ手を押し当てた。

 

 服は血で濡れていた。温かい。温かいのに、その下の体は急速に冷え始めている。

 

 普通の手当てでは間に合わない。

 

 圧迫する。救急を待つ。声をかける。そういう言葉が、頭の中に一度だけ浮かんで、すぐに消えた。

 

 ここは病院ではない。

 

 救急車はまだ来ない。

 

 待てば死ぬ。

 

 戸張の指の間から、白いものが滲んだ。

 

 糸というには太く、触手というには細い。皮膚の下から出たのか、手のひらの傷から出たのか、自分でも分からない。

 

 地図読みの体の中へ、それが入ろうとしている。

 

 戸張は喉の奥が詰まるのを感じた。

 

 人間だ。

 

 目の前にいるのはモンスターではない。敵でもない。さっきまでチャットで普通に話していた、正式五級の一人だ。

 

 その体の中へ、自分の内側から出たものを入れようとしている。

 

 気持ち悪い。

 

 怖い。

 

 やっていいことなのかどうかも分からない。

 

 それでも、止めたら死ぬ。

 

 戸張は奥歯を噛んだ。

 

 頼む。

 

 声には出さなかった。

 

 戻してくれ。

 

 頼むから、間に合わせてくれ。

 

 言葉にしたのは戸張の中だけだった。寄生体へ向けたのか、自分へ向けたのかも分からない。ただ、懇願に近いものが、胸の奥からこぼれた。

 

 その瞬間、頭の奥で冷たいものが一度だけ強く脈打った。

 

 返事ではない。

 

 会話でもない。

 

 それでも、肯定に似ていた。

 

 やる、とでも言うような、あるいはもう始めていると告げるような、言葉にならない圧だけがあった。

 

 白いものは、血に濡れた服の隙間から傷の奥へ入った。

 

 地図読みの体が小さく跳ねる。

 

 戸張は手を離さなかった。

 

 白いものは傷の奥で広がった。壊れた場所を探すように、血の流れを追うように、体の中を這っていく感覚が手のひらへ返ってくる。

 

 自分の体ではない。

 

 なのに、分かる。

 

 どこから流れているのか。

 

 どこが潰れているのか。

 

 どこを塞がなければ、次の呼吸が来ないのか。

 

 分かってしまう。

 

 地図読みの胸が一度、大きく沈んだ。

 

 次が来ない。

 

 戸張は息を止めた。

 

 耳の奥で、自分の心音だけが大きく鳴っている。地図読みの脈は、ほとんど拾えない。

 

 白いものがさらに深く沈む。

 

 無理やりだった。

 

 治す、という綺麗なものではなかった。破れた場所を塞ぐ。足りないものを補う。途切れかけた流れを押し戻す。体がもう止まろうとしているのを、外側から押さえつける。

 

 地図読みの口が少し開いた。

 

 声は出ない。

 

 胸も動かない。

 

 戸張の背中に、冷たい汗が流れた。

 

 遅かったのか。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、頭の奥から冷たさが突き上げた。

 

 諦めるな、という言葉ではない。

 

 だが、そういう向きの圧だけがあった。

 

 戸張はもう片方の手を、地図読みの胸に置いた。服越しに肋骨の形が分かる。白いものが、そこへも薄く広がっていく。

 

 一拍。

 

 何もない。

 

 二拍。

 

 まだない。

 

 三拍目で、地図読みの体が跳ねた。

 

 喉の奥から、かすれた息が漏れた。

 

 戸張は手を離さなかった。

 

 もう一度。

 

 胸が上がる。

 

 弱い。浅い。だが、呼吸だった。

 

 地図読みの唇に、わずかに色が戻った。閉じたままの瞼が震える。意識は戻らない。それでよかった。今は戻らなくていい。

 

 白いものは、まだ傷の奥で動いていた。

 

 血の流れが遅くなる。服の下で、破れたものが塞がれていく。元通りではない。綺麗でもない。だが、死へ落ちていく速度だけは止まった。

 

 戸張はようやく息を吐いた。

 

 その息が震えていたことに、自分で気づいた。

 

 草色ジャケットは、すぐ横で気絶している。胸は動いている。足の傷からの出血は続いているが、地図読みほどではない。

 

 戸張は地図読みの服を見た。

 

 血に濡れた布地に、穴が残っている。

 

 傷そのものは、もう見た目ほど開いていない。出血も止まりかけている。だが、服には弾痕がある。撃たれた跡が、そこに残っている。

 

 このままだと、説明できない。

 

 胴体を撃たれた服を着ているのに、体にはそれに見合う傷がない。

 

 その不自然さに気づいた瞬間、戸張の胃がまた重くなった。

 

 証拠隠滅。

 

 嫌な言葉が浮かんだ。

 

 違う、と言いたかった。

 

 助けるためだ。説明不能なものを隠すためだ。地図読みを守るためだ。自分を守るためでもある。

 

 どれも本当で、どれも言い訳だった。

 

 戸張は地図読みの服の破れた部分を掴んだ。

 

 手が少し止まる。

 

 それでも、破った。

 

 血を吸った布が、嫌な音を立てて裂ける。穴の残った部分を、なるべく大きく切り離す。地図読みの体が小さく揺れたが、意識は戻らなかった。

 

 戸張はその布を持って、草色ジャケットの脚へ移った。

 

 草色の被弾部位からは、まだ血が滲んでいる。

 

 こちらには傷がある。

 

 弾痕のある布を巻いても、不自然さは少ない。少なくとも、地図読みの腹に残しておくよりはましだった。

 

 戸張は草色の脚に布を巻いた。

 

 応急処置としては雑だった。だが、血を吸った布はすぐに草色の出血と混ざり、元からそこにあったように見えた。

 

 白いものが足の傷へ触れる。

 

 草色ジャケットの体がかすかに震えたが、目は開かなかった。痛みで気を失ったまま、荒い呼吸だけが続いている。

 

 血が遅くなった。

 

 完全ではない。

 

 だが、待てる。

 

 戸張はそこで、ようやく周囲を見た。

 

 男たちは倒れていた。

 

 銃を持っていた男は壁際で腕を押さえ、顔を歪めている。工具を振り下ろそうとした男は床に横たわり、呼吸のたびに喉を鳴らしている。草色を盾にしようとした男は、配管の下で呻いている。逃げようとした若い男は床に伏せたまま震えている。主任格は、膝と手首を押さえて、脂汗を浮かべていた。

 

 全員、生きている。

 

 動けない。

 

 そう確認して、戸張はほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

 その一瞬だった。

 

 首筋の奥で、何かがほどけた。

 

「……おい」

 

 声が出た時には、もう遅かった。

 

 白いものが伸びた。

 

 戸張の手元からではない。袖口から、襟足から、髪に紛れていたものから、影の下から、細い白がほどけるように出た。

 

 それは迷わなかった。

 

 床を這い、倒れた男たちへ向かった。

 

 銃を持っていた男がそれに気づき、目を見開いた。

 

「なんだ、それ」

 

 返事はない。

 

 白いものは、男の手首へ絡み、服の隙間から皮膚へ潜った。男の体が跳ねる。叫ぼうとした口が開いたまま固まる。

 

 工具を持っていた男にも伸びた。

 

 逃げようとしていた若い男にも。

 

 草色を盾にしようとした男にも。

 

 主任格にも。

 

 白いものは、傷口、袖口、首筋、手の甲、靴下とズボンの隙間、入り込める場所を見つけるたび、迷いなく中へ入った。

 

 戸張は顔から血の気が引いていくのを感じた。

 

 人間だ。

 

 こいつらは悪人だ。

 

 草色ジャケットを撃ち、地図読みを撃ち、死体を捨てるように二人を運んだ連中だ。

 

 それでも、人間だ。

 

 その中へ入った。

 

 胃の底がひっくり返る。喉の奥に酸っぱいものが上がる。戸張は片手を床についた。

 

「ふざけるな」

 

 声は掠れていた。

 

 男たちの体が、順番に震えた。

 

 逃げようとした若い男が、床を爪で掻いた。足は動かない。腕も動かない。ただ目だけが、恐怖で忙しく動いている。

 

 銃を持っていた男は、開いた口から息を漏らしていた。声にならない。叫ぼうとしているのに、喉がうまく動いていない。

 

 主任格だけが、まだ意識を保とうとしていた。

 

 目が戸張を見ている。

 

 取引しようとしていた時の目ではない。

 

 計算はもうなかった。

 

 ただ、自分の体の中に何かがいると理解した人間の目だった。

 

 戸張は吐きそうになった。

 

 自分がやった。

 

 命じたわけではない。

 

 だが、自分の内側から出たものがやった。

 

 止められなかった。

 

 止めようとも、できなかった。

 

 次の瞬間、吐き気がすっと薄くなった。

 

 不自然なほど、唐突に。

 

 胃の痙攣が止まる。暴れていた心拍が整う。視界の端の揺れが消える。冷たい水で頭の中を洗われたように、恐怖と嫌悪が一段奥へ押し込まれる。

 

 消えたわけではない。

 

 気持ち悪さも、怒りも、恐怖も、全部ある。

 

 ただ、それに体を持っていかれなくなった。

 

 戸張は床に手をついたまま、浅く息をした。

 

「こいつ、またなんかやりやがった」

 

 寄生体は返事をしない。

 

 いつものように、何も言わない。

 

 ただ、男たちはもう動かなかった。

 

 意識のある者はいる。目は動いている。呼吸もある。だが、腕も足も、首も、喉も、戸張が許していない場所は動かない。

 

 許していない。

 

 そう考えて、戸張は自分の思考にぞっとした。

 

 許しているのは自分なのか。

 

 寄生体なのか。

 

 境目が分からない。

 

 それでも、合理的ではあった。

 

 男たちを縛る道具はない。全員を気絶させ続ける保証もない。警察や救助が来るまでの間に一人でも動けば、草色ジャケットか地図読みがまた傷つくかもしれない。

 

 だから、動けなくした。

 

 必要だった。

 

 そう思う自分がいた。

 

 仕方ない、と割り切る自分がいた。

 

 その割り切りが、自分のものなのか、沈められた精神の上に乗せられたものなのか、戸張には分からなかった。

 

 遠くで音がした。

 

 外からではない。

 

 通路の向こう。搬入口の方。複数の足音。人の声。まだ遠いが、近づいている。

 

 通報が動いたのだと分かった。

 

 槙野か。

 

 警察か。

 

 管理窓口か。

 

 誰が先かは分からない。

 

 戸張は地図読みを見た。

 

 呼吸はある。

 

 草色ジャケットも、まだ息をしている。

 

 男たちは動かない。

 

 黒い袋は床に残っている。

 

 血と油と湿った土の匂いが、低い天井の下に溜まっていた。

 

 説明できないことが、増えすぎていた。

 

 地図読みの傷。

 

 草色ジャケットの出血が止まりかけていること。

 

 動けない男たち。

 

 自分の髪に紛れた、白いはずのもの。

 

 床を這ったもの。

 

 人間の中へ入ったもの。

 

 足音は近づいてくる。

 

 戸張は手についた血を見た。

 

 誰の血か、もう分からなかった。

 

 遅ければ死んでいた。

 

 話していれば死んでいた。

 

 待っていれば死んでいた。

 

 だから、先に潰した。

 

 だから、戻した。

 

 だから、止めた。

 

 言葉にすれば、それだけだった。

 

 だが、それだけで済むことではなかった。

 

 

 

 ただ、それと同時に、だからこそ救えた。

 

 戸張は息を吐き、地図読みと草色ジャケットの間に膝をついたまま、近づいてくる足音を聞いていた。

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