ネフェルピトーに執着されるだけ   作:月と猫のダンス

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二話 遭遇

 三つ目の村まで、あと二キロもなかった。

 

 隊列はカイトが先頭、少年二人が中、俺が殿。

 この並びを決めたのはカイトで、理由は言われなくても分かる。少年二人が不満げにしているのを微笑ましく思う。つまりは現実逃避だ。今日か、明日か、明後日か。カウントダウンが始まっている。

 

 円を張り続けて、40分。

 

 半径30メートル。落ち葉の下の甲虫まで拾える解像度。俺の自慢の網に、40分、何一つ掛からない。

 鼠がいない。羽虫がいない。蛾も、蟻も、ミミズもいない。

 

 さすがにキメラアントが根絶やしにしたとは考えづらい。何かを恐れて逃げ出したと考えるのが自然だが──そこまで考えたところで、俺は既に答えを知っていることに気が付いた。

 

 カイトが弾かれたように振り返る。

 

「全員──俺から離れろ!」

 

 カウンターを構えた。ネフェルピトーが来る。ロープが遠心力を伴ってしなり、鉤爪が風を切る。だが──

 

 カイトの右腕が宙を舞っていた。俺には──全く見えなかった。俺の視界には何も通っていない。遅れて風が吹いた。

 

 血がさらに遅れて追いつく。

 飛沫が地面に落ちるまでに、たっぷり一拍あった。それだけ勢いよく飛んだということだ。上腕動脈が切れている。

 

 カイトの膝が半分落ちて、止まった。傷口を確認する。比較的綺麗な切断面だ。ここから生きて帰れたら、接合はまだ楽になっているかもしれない。

 楽観的な反応は、言うまでもなく現実逃避の続きだった。

 

 俺の目が上を向く。

 

 二十から三十メートル先。倒木の上に太い根が持ち上がっている。その上に、それはいた。

 

 猫の姿勢で膝を畳んで、右手に何かを提げて、月を見上げていた。

 

 

 綺麗だ、と思った。

 

 

 

 

 最初に抱いた感想がそれだった。

 

 恐怖でも、敵意でもない。俺の職業の芯が、じりじりと焼ける感覚だ。

 

 俺は幻獣ハンターだ。誰も見たことのない生き物を探して山を歩く。二度目の人生で、そればかりやってきた。見たことのない生き物を前にすると、俺の中で図鑑が勝手に開く。

 

 だから俺は、二秒のあいだ、こういうことを考えていた。

 

 尾の生え際が脊柱のどの高さから分岐しているか。第一仙椎より上だ。哺乳類の設計としては珍しくないが、あの太さでその位置は珍しい。

 

 瞳孔が月をどう絞っているか。縦に細い。夜行性。だが虹彩の反応が速すぎる。明暗の切り替えを、こちらが瞬きする間に済ませている。

 

 膝の畳み方。関節の遊びが、跳躍の初速側に全部振ってある。人間の膝ならこの角度で体重を支えられない。支えられているということは、腱の付着位置が違う。

 

 

 顔は月へ向いている。だが耳の一つが、こちらへ回っていた。音のない森の中で、あの耳が拾っているものが何なのか、俺には分からなかった。

 

 世界で一番珍しい獣が、月光の下で、完全に静止していた。

 

 

 

 ネフェルピトー。

 前世の記憶が絶叫している。

 

 ネテロ会長をして「自分より強い」と言ってのける怪物。カイトを殺したケモノ。

 

 視界に映る美しさと、禍々しいオーラの落差に肺が震える。

 前世の知識が、この直感が真実だと告げている。

 

 直後、あれが手にした腕の、袖が視界に入った。見慣れた袖だった。四年来の友人の上着の袖だ。肘の内側に、去年の秋に引っかけた鉤裂きの繕い跡がある。

 

 胃液が、喉まで上がってきた。

 

 美しいと感じた画と、友人の腕の切断は、同じ一枚の風景に収まっていた。

 

 俺は二秒のあいだ、カイトの腕を構図の一部として見ていた。関節の遊びと、瞳孔の絞りと、尾の生え際と同じ画角で、あの袖を見ていた。

 

 物理的な代償は零だ。あれは追ってこなかった。

 その二秒で、誰も余分には死んでいない。

 傷がついたのは、俺の自意識だけだ。

 

 視線が降りてきた。

 

 月から、俺へ。

 

 眼が合った。

 

 俺はどんな顔をしていただろう。俺にはわからない。

 

 ただ、あれの首が、わずかに(かし)いだ。

 猫や梟がよくする仕草だ。

 

 獲物の眼の中に違和感でも見つけたのだろうか。

 だとすれば俺は、初めて見る獣に向ける眼をしていなかったのだと思う。

 

「キルア」

 

 カイトの声は、腕より先に仕事へ戻っていた。

 

 膝をついたまま、少年二人と俺を一度に視界へ入れて即断した。

 

「ゴンを連れて跳べ。全速だ。振り返るな」

 

「カイト──!」

 

 ゴンの声は途中で落ちた。

 

 キルアが落としたのだ。首の後ろを一度、正確に打ってゴンの意識を刈り取った。音もなく二つの気配が夜へ溶ける。

 

 正しい。よく鍛えられている。

 

 

 

 あれは、逃げる獲物を追わなかった。

 

 代わりに、腕を根の上へ置いた。

 

 ひどく丁寧に、だ。

 

 壊れ物を扱う手つきで、切断面を上に向けないように置いて、両手を空けた。

 

 爪が月光を拾って、八本、白く並んだ。

 

 

 

 置いた。

 

 つまり、取りに戻る気がある。

 

 つまり、ここでの用事が済んだら回収する予定がある。

 

 つまり、あれの予定表の中で、俺たちは片付ける対象として書かれている。

 

 

 

「カイト、動けるか」

 

「五分は」

 

「三分でいい」

 

 打ち合わせは、それで終わりだった。

 三分。耐えるには長く、殺されるにも逃げおおせるにも十分な時間だ。

 

 初撃の不覚を仕方ないで済ませられはしないが、兎にも角にも、生き延びなければ話にならない。

 

 カイトを生かして帰す。俺も死なない。

 

 人生最大の試練だった。困難に燃えるタチではないのだが……しかし、ここに来た時点で覚悟は終わらせてきたはずだ。

 

「作戦会議はいらない?」

 

「聞かれてちゃ意味ないんでな」

 

「そう」

 

 ロープを張り巡らせる。持ち込んでいる14本を、昨日の時点で2本失っている。手持ちは12本だが……ザザンのように捕まってはくれないだろう。

 

 ──撤退戦だ。

 

 俺たちの生存に必要な条件は明白だ。

 一つ、キメラアントの巣から距離を取ること。

 一つ、ネフェルピトーに深追いのリスクを考えさせること

 

 あれの本分は女王──正確には王──の護衛であり、巣から離れることはない。しかも今は、他の護衛軍が生まれていない段階のはず。シャウアプフやモントゥトゥユピーがいれば別だが、まだネフェルピトー1匹だ。数分でも巣を空けることは避けるだろう。

 

 2km。仮にそう置いておく。巣から数えて4km。あれの円の倍。一飛びで届かない距離。

 カイトがそこまで保つかどうかも賭けだが、その距離で諦めるかも全く根拠がない。ただ現実的に、そこまで逃げてもまだ追われるようなら負けだ。

 

 ──全く、馬鹿げている。

 

 ロープを張り巡らせる。ロープそのものにあれを抑え込む力はない。

 巻き付けた鉤爪や杭が跳ね上がり、死角から強襲する。

 あるいは俺が()るロープが絡まれば、確実に時間を稼げる。

 

 あれが容易く引っかかるとは思えないが。

 

 ロープを張る意図は明白だ。

 直線的に跳ばせるよりも、迂回させた方が速度は落ちる。

 

 

 カイトの左手が得物を喚んだ。

 

 スロットマシンが回って、出た目は2。大鎌だった。刃渡り一メートル二十、柄が二メートル。片腕で扱うには最悪の出目だ。

 

「……初めてその発が憎いと思ったよ」

 

「運だけはいいはずなんだがな」

 

 左手一本で鎌を回した。回転の慣性を使って振り、慣性で戻す。片腕と失血で、さすがにぎこちない。

 

「へーぇ、そんなこともできるの」

 

 弱い発だと思ったことはない。しかし、鎌はこの場において最悪だ。

 

 

 最初の交錯は、九秒後だった。

 

 

 あれが根から降りた。地面に足が着いた音はしなかった。

 

 俺は張り終えたばかりのロープの一本にオーラを流して、跳ねさせた。地面から一メートル、水平に張った線が跳ね上がる。

 

 あれは、それを跨がずに切断した。

 

 指先が触れただけだ。周を巻いた俺のロープが、濡れた蜘蛛の巣みたいに落ちた。

 

 そして、切断するための対価として、半歩を払った。

 

 その半歩の猶予が、カイトの間合いだった。

 

 鎌が振りかぶられる。見てから躱される。

 

 躱した先には二本目のロープがあり、またあれはそれを切断するのにシングルアクションを割く必要がある。

 

 避けられるならそれでいい。ロープは無事に残る。

 

 俺たちはこれを繰り返すしかない。少しずつやり方を変え、深手を負う前に距離を離していく。

 カイトの大技は使えない。その瞬間、俺のロープがほとんど切られて丸腰同然になるからだ。あれを殺せるならいいが、欲を出した瞬間に死がやってくるだろう。

 

 11秒で、ロープを5本失った。

 残りは7本。14秒分。

 

 発の温存をようやく諦めた。

 

 その前に、俺の能力の話をしよう。

 HUNTER × HUNTERという少年漫画に出てくる念能力は多種多様。俺は生まれた時から、熟練の念使い並に様々な発の例を知っていた。このアドバンテージは凄まじい。俺は4歳の頃から念能力のビルドを考え、それに向けて鍛えてきた。

 

 発は、『滑走路(プルージック)』と名付けた。

 変化系。能力は手やロープを通して俺のオーラが触れた場所の摩擦を変化させる。摩擦力を増せばよりグリップし、無くせばするりと滑る。ただそれだけだ。

 相手に直接掛けられるわけじゃない。凝で見破ることもできる。だが、汎用性と初見殺し性能に富む。

 

 

 それを踏まえて、あれとの戦闘に戻る。

 

 

 マーキングしていた木の根にあれが触れ、跳ぼうとした瞬間、その根の摩擦を極限まで低くした。

 業を煮やし始めたところへの不意打ちで、あれが思い切り体勢を崩して転がる。

 体勢を立て直すために根に触れても、さらに滑るだけだ。初見なら必ず大きな隙ができる。特に、スピード自慢ならば。

 

 千載一遇のチャンスに、カイトは縦振りで『死神の円舞曲(サイレントワルツ)』を放った。俺が張り巡らせたロープを切らないための縦振り。最速よりワンテンポ遅れた。

 

 ロープで動きを阻害しての賭けだったが、残念ながらあれの肩の肉を削いだだけに終わる。

 二度目は通用しない。この戦いであれは殺せない。

 

 ──が、攻撃は本命ではない。

 

 あれが最初に木の上に置いたカイトの腕を、ロープで手繰った。距離が離れて結びが甘くなっても、俺のロープと『滑走路』のコンビなら問題なく引き寄せられる。

 

 断面を綺麗に保存しておく余裕がない。俺の背中に巻き付けるだけだ。

 

 手傷を負い、獲物を奪われたあれの瞳孔が引き絞られた。

 

 自らの血を見下ろし、それから、俺の手元にあるカイトの腕を見た。

 

 そして、喉の奥で音が鳴った。笑い声の、一つ手前の音だ。

 

 

 怒らなかった。

 

 怒れば動きが雑になる。あれは雑にならなかった。悪い知らせだ。

 

 代わりに、空気が一段沈んだ。

 

 

 あれは、先程滑った木の根に触れ、もう摩擦が戻っていることを確かめた。

 それから、自分が切った俺のロープの端を、あれが指先で摘んだ。そして、軽く引いた。

 

 その意味はすぐにわかった。ロープ使いや糸使いと戦う実力者は必ず確かめる。

 

 俺のロープの仕掛けは、結び目にオーラを流して遠隔で締められる。手元から離れた場所の輪を縮めたり、その結び目を使って発を使用したりする。

 

 あれは、切った端を引いて、手元の結びが応えるかどうかを試した。

 

 応える結びなら、糸を引くだけで俺の仕掛けを暴発させられる。俺に繋がっているなら、俺の体勢を崩せる。

 

 俺は、応えない結びに変えていた。切られた線は捨て線として設計してある。

 

 あれはロープの端を捨てた。

 

 いい性格をしている、と思った。

 

 そう思った自分に、少し腹が立った。

 

 

 

 ──24秒。狩りのギアが上がった。

 

 今までのあれは、身体能力任せに飛び込んでくるだけだった。牛と同じだ。身体能力に劣っても、赤いマントを翻して躱すことは可能だった。

 もちろん、反応できないほどの瞬発力を考慮しなければ、だが。

 

 あれの狩りは、俺たちの攻略にかかり始めた。

 

 最初の攻防に、一つ工程が増えた。

 

 俺がロープを張り、逃げ道を絞り、カイトが鎌を振るう。そこに、俺の発が加わる。

 滑れば逃げそびれて怪我を負う。力を込めるのにも慎重になる。

 戦いの中で、あれは『凝』を覚えた。俺の仕掛けた摩擦の罠を確認している。

 

 ロープが減った代わりに、摩擦で動きを制限する。

 

 繰り出されるロープの速度も上がっている。発を自重する必要が無くなった今、ロープの空気抵抗や結ぶ際の摩擦も操作して、より素早く、より強固に、より複雑なロープの陣形を組んでいる。

 

 あれを強襲する鉤爪の速度も増す。

 こればかりは森という環境が逆風だが、鞭の先端が音速を超えるのと同じ道理で、振り回されたロープの先端の杭や鉤爪も、あれに追いつく速度になっている。

 

 ──60秒。残り5本。

 2本で36秒を稼いだ。しかし状況は悪い。700mは離れた。あれが諦める気配はない。

 

 カイトの呼吸に、呻きが混じり始めた。

 大量失血の直後の全力戦闘だ。むしろよく堪えている。

 

 あれは、楽しんでいた。それを隠そうともしない。

 パズルを前にした少年のように笑っている。

 

 さらに2本を使って、30秒を稼いだ。残り3本。

 

 もう一度、今度は逆にあれを引っ掛けた。滑らせるのではなく、ずるずると斜面を滑るあれの足元の摩擦を大きくし、つんのめらせた。

 

 そして、欲をかいた。

 

 俺は、拘束を取りにいった。

 

 一本のロープで、あれの前肢(ウデ)に二重の巻きを掛ける。締めれば、たとえ三秒でも動きが鈍る。三秒あれば、カイトを担いで走り出せる。そうすれば勝ちに王手がかかる。

 

 輪が掛かった。

 

 ロープを通して、腱の張りが返ってきた。第一仙椎より上で分岐した尾が、輪の内側で一度だけ跳ねた。

 

 締めるために、俺の重心が、飛び乗った線の上で半拍止まった。

 

 

 最短経路が開いていた。あれは、迷わなかった。

 

 俺の反射神経を超えて、左肩が裂けた。

 

 熱が先で、痛みが後だった。爪が僧帽筋から三角筋にかけてを走って、肩甲骨の上で止まった。

 

 同じ拍で、脇腹に膝が入った。肋が二本、内側で鳴った。

 

 景色が半回転して、俺は空中で自分の姿勢を見失った。

 

 同時、仕掛けていたもう一本のロープがあれの脇腹に杭を打ち込んだ。俺はそれを、上下逆さに見ていた。

 

 深手ではない。トレードと呼ぶのも烏滸がましい非対称性だ。

 

 賭けに失敗し、俺は代金を支払った。

 

 退かせる望みは潰えた。ここからのトレードで俺たちに天秤が傾くことはないだろう。

 

 ロープは2本。失血のためか、カイトが膝を深く折った。

 

 ──潮時だ。

 

 俺はカイトにロープを伸ばした。抵抗もせず、彼は背中合わせに担がれる。そして、2度目の『死神の円舞曲(サイレントワルツ)』が放たれた。

 

 今度は横薙ぎの全力。あれは大きく跳躍して躱した。周囲の木々が数本、輪切りにされる。

 

 直後、俺は残りのロープ2本を、全力で後退に使用した。

 

 踏みしめる時に摩擦が大きければ、より大きく力が伝わる。空気抵抗や摩擦が小さければ、より力が殺がれずに残る。あとはもう、追いかけっこだ。

 

 カイトがスロットを回す。出目は4。倒れ込む木々を抜け、全力で逃走に転じた俺たちを、ピトーが追いかけようとする。

 

『ヒヒヒヒッ、絶体絶命だなァ!!!!』

 

 俺が使ったルートは使えない。木々は倒れ込んでくる。2本のロープが妨害を仕掛けてくる。カイトが牽制の射撃を仕掛けている。それでもなお、距離が縮まっている感覚があった。

 

 120秒、150秒、そして──

 

 川を境に、背後の気配が停止した。デッドラインを越えた。

 

「──抜けた」

 

 カイトが呻き混じりに言った。

 俺が円を伸ばすのと、向こうから円が伸びてくるのが同時だった。

 

 吐き気を催すほど強大なオーラから抜け出すのに数十秒ほど。円の範囲を抜け、さらに20分ほど走り続けた。

 そして俺たちは森の外周、誰もいない村へと辿り着いた。

 

 改めてカイトの腕を止血し、切られた右腕も油布に巻き直す。

 

 カイトの顔は灰色に近かった。血を失いすぎている。それでも、歩幅は崩れていない。

 

 俺は、油布の包みを、一度だけ上から押さえた。とうに冷たくなっていた。

 

 もうひとつ木立を抜けた森の切れ目に、野営の煙が見えた。

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