襲撃決行数分前。森にロープを張る。
あれは、今夜もきっと俺を見ている。
事前にロープを張り巡らせるのは、『
解けた結び目は別の場所へと結ばれ、『
手持ちのロープは12本。相も変わらず大掛かりな装備を担いで、俺は森を抜けた。抜けて、初めて周りの風景を視界に映す。
東ゴルトー共和国首都、ペイジン。その北方に位置する宮殿の裏手にある森が、ノヴの能力を経由して俺が陣取った場所だった。もう時計を見ることはできない。数秒の誤差を、己の腕で凌ぐ必要がある。
左肩の傷が熱を持つ。まだ森林地帯を歩いているだけだ。あれは俺の場所を把握できていない。
森の中心部を抜けた。木々の隙間から視界が開けていく。
宮殿まではおおよそ2km。俺の視線のすぐ先に、あれの円がある。凝で強化した視界が、宮殿の塔に座るあれの姿を捉えた。
つまり、俺の視界を通して、あれも己の姿を目視したということだ。
直後、あれが振り返る。
視線が交差する。遥か遠景にぼやけようとも、俺にはそれがわかった。
円が伸び、俺の肌に触れた。
肩が焼けるように熱い。あれの高揚が逆流している。
俺が飛び退くのと、あれが飛び込んでくるのが同時だった。
砂埃と、落ち葉の残骸が舞う。月光を反射して、あれの瞳が爛々と輝いている。牙と爪が、殺意に研がれている。
不可視の速攻を躱し、俺は二撃目に備えた。
「やっと、来たニャ!」
あれの太腿の筋肉が膨れ上がり、肉体が弓のようにしなる。打ち出された殺意の塊は、けれど俺のロープによって凌がれる。摩擦を大きくしたロープに一瞬、爪が引っ掛けられ、あれは身体を捻って蹴りを繰り出した。
それを、身体を滑らせて躱し、あれの背中を蹴り飛ばす。カウンターの爪がズボンの裾を襤褸切れに変えた。
直後、森の方へと一歩退く。
「俺は逃げ回っていたかったんだけどな」
刹那にボルテージが上がっていく。森に仕込んだ分の『手綱』込みで最大15分。一合を合わせた上で、改めて俺は判断を下した。
初遭遇の時には開示しなかった(できなかった)応用も含めて、現実的な生存ラインがそこだった。
ヂートゥとの戦いを経て、キルアとのスパーリングを重ねたことで、俺は辛うじてあれの速度を視認できている。
三撃目。あれは三角飛びの要領で樹木の間を跳躍し、俺に爪を振るう。
摩擦の誘導が間に合わず、上着が裂けた。すんでのところで上体をスウェーして躱し、斜面を転がる。追撃が来るようであれば『手綱』を切る必要がある──
そう考えたところで、宮殿上空の夕暮れが、龍のカタチに裂けた。
あれも同時に空を見上げる。
疾風。
こちらへ飛んできたのと同じ速度で宮殿の方へと飛び込んで行った影を視線で追いかけ、深く息を吐く。思っていたよりも、現実は厳しい。
受け身の戦闘で、キルゾーン手前で終えたとはいえ、あれに有効打を入れられる気配すらなかった。
以前よりは対応できているが、以前よりも対応されている。そしてより致命的なのは後者だ。
『滑走路』を用いた高速移動で、あれの後ろを追いかける。ゼノ・ゾルディックの『
俺が宮殿へたどり着いた頃には、玉座の間は煙に覆われており、丁度宮殿からゼノがネテロ会長と王を遠方へ運び出すところだった。
一つ、安堵の息を吐く。人類の勝利を確信する。
だが同時に、懸念が的中していたことを悟る。王は、隻腕だった。
あれは、治療能力を備えていない。であれば、コムギは……
円を張る。ユピーを優先すべきか、コムギがいるであろう北部の塔へ向かうべきか。
束の間の思考のあわいに、宮殿中へあれの円が広がった。円は俺の体に触れると、その範囲を瞬時に絞られ、あれが持っているであろう塔までの道筋を示した。
呼ばれている、と判断する。
ならば行くしかない。
塔の支柱へロープを引っ掛け、立体機動で駆け上がる。天井から半分崩れかけた部屋には、血の匂いが立ち込めていた。
龍の雨の一本が貫いた穴から、夜が見えている。床には石と、硝子と、血。
血の真ん中に、影が二つ。
小さい方は、盲目の少女だった。左の太腿が裂けて、脈で血が押し出されている。深い。動脈を掠めている。
大きい方は、あれだった。
猫の姿勢で膝を畳み、両手を少女の腿に重ねて、体重ごと押している。圧迫だ。角度も、位置も、おおよそ正しい。
教科書通り——いや、違う。俺の通りだ。岩棚で、市街で、俺の手がやったことの、寸分違わない再演だった。
どこで覚えたかは聞くまでもない。
あれは真っ直ぐに俺の顔を見上げ、口を開いた。
「──助けて」
俺の制約は、前提として敵の言葉であれば無視できる。戦闘終了後の命乞いまではカバーできないが、負傷していないあれが助けを求めたとしても、俺の『滑走路』は鎖されないだろう。
ただ、非戦闘員の人間の少女の生命を救おうとしている
「キミなら、正しく縫える。ボクには、治すことは難しい、から……」
向こうにとっても賭けに等しいのだろう。
俺が他人の助けを求める声に対してリスクを背負う事は知っていても、それが制約だということまで確信しているわけはない。
原作通りにコムギを治すことを命じられたか。いや、王は不可能なことを命じたりはしないだろう。だとすればこれは自己判断?
……いずれにせよやることは決まっている。
懐から応急処置用に常備している針と糸を取り出した。
清潔な湯はない。摩擦を利用して火を起こす。燃やせるものはいくつもあり、針を炙るには充分だった。
消毒用に微量持ち込んでいた酒を利用して消毒し、あれが圧迫している傍から血管と皮膚を縫っていく。
「圧迫を続けろ。俺が言うまで離すな」
あれは頷いた。護衛軍が人間の指示に頷いた。この異常さを味わう余裕は、今の俺にはない。
同時に、扉からキルアとゴンが飛び出してきた。
「ピトー! オレを覚えているか!」
あれが首だけで振り返る。二人がコムギを認識しただろう息継ぎが聞こえてきた。圧迫に使用されていた手が動きかけ、停止した。
「ゴン、キルア。……状況が変わった。王が戻るまでこいつはここから動かない。下の援護に向かってくれ」
「リグさん、でも──」
ゴンの肩を掴んだのはキルアだった。
「ゴン、冷静に考えろ。あの女を傷付けたのは、恐らくこっち側──ジイちゃんの能力だ。ピトーはそれを治そうとしてる。あの護衛軍が庇うんだから、王にとってよっぽど重要なやつなんだろ。見た感じ、動脈が切れてる。放っておいたら死ぬ怪我だ」
ゴンの反応は鈍かった。原作ではカイトの死が念頭にあったが、今のカイトはほとんど無事だ。ゴンが躊躇する理由は薄いと考えたが……難しいか。
俺がコムギの応急処置を受け入れたのには、打算が添えられている。
一つは制約のリスク。一つは、俺一人でこいつを長時間拘束できるチャンスだからだ。
「俺たち全員でかかればピトーはやれるかもしれない。だけどあの女は死ぬし、俺たちも消耗する。今の状況なら、リグ一人だけでピトーを抑えられてる」
「でも、治療が終わればリグさんが狙われるかもしれない」
「それはっ! ──しない。……ボクが言っても仕方がないけど、そんなことは絶対に」
「信じられない。王が言えばやるだろう」
あれが
「ゴン。治療の後に俺が殺されたとしても問題があるか? 30分以上の遅延は確定している。こいつを相手に30分だ。釣りが来るだろう。それに、王が戻って来た場合のことは考えても仕方がない」
ゴンの言う通り、王が命じればこいつは俺を殺すだろう。反故にされ得る口約束だが、無いよりはマシだ。
それに、俺の算盤の上では、王は最早死んでいるも同然だった。こいつを相手に時間を稼ぐところまで仕事ができたのなら充分だ。
王に関しての計算は、俺だけの特例だ。それを根拠にゴンを説得することはできないから、ゴンには俺を
「おい、もう少し上流を押さえてくれ。そのままだと縫えない」
キルアがゴンの肩を叩き、窓の外からユピーと戦う戦場へと飛び降りていく。ゴンが歯を食いしばったのがわかった。
「リグさん! ……死なないで」
「すまない。ありがとう、ゴン」
二人を脇目に見送って、コムギの治療に戻る。
コムギが死ねば、王は毒で死ぬまでの間に暴れ回るだろう。それでは意味がないし、喰らい得た能力によっては毒から生存するかもしれない。特に、宮殿に植えられている念能力者の繭達。あの中には毒を無効化する能力者がいても不自然ではなく、そして、王の能力ならばそれを奪取できる可能性がある。
故に俺は、王を殺すためにコムギを生かす。
ユピーの王救出を阻止できれば100点。遅延させられれば90点。
「傷から手を離して、脚の付け根を押さえろ。骨に向かって、まっすぐ。俺が言うまで、体重を変えるな」
あれは頷き、血塗れの手の位置をずらした。
麻酔は用意できない。これから傷の中を掻き回すことを思えば、失血で意識が混濁していることは不幸中の幸いだった。
手術の順序は決まっている。上流を圧迫し、視界を確保し、動脈を縫い、洗い、深部を寄せ、皮膚を閉じる。
圧迫は概ね上手くいっていた。言うなれば止血鉗子の代替だ。
外傷の圧が解かれ、血が一度盛り上がり、付け根の圧で細い滲みまで落ちる。ロープを細く縒った帯を腿に回し、噛ませて固定する。厳しく締め上げはしない。動脈の圧迫は足りている。
膝を軽く曲げて外へ開かせ、灯りを寄せ、布で拭う。
傷口をあれの指に預けて開かせる。裂傷はおおよそ指四本半。底に、動脈の白い管が見えた。側壁に、口を開けた裂け目。完全に切れてはいない。掠めただけだ。
外からの見立てと一致した。まだ対応できる範囲だ。
極細の糸を裂け目の上下に回し、摩擦だけを上げた輪で保持する。血管を触ることさえせず、表面の摩擦が、流れだけを静かに止める。
動脈を縫い進める。
摩擦を消した糸は内膜を裂かずに通り、結ぶ瞬間だけ噛みあう。
内腔を狭めない角度で、数針。通して、結ぶ。何度か繰り返す。
手元は全部、見える位置にある。見なければ縫えないし、見られていることは、もうどうでもいい。
だが、意識せざるを得ない。零距離に観客がいる。窓越しではない生の観客だ。付け根を押さえたまま、あれの眼が、俺の指の運びを瞬きもせずに追っている。
最後の一針を結ぶ前に、下流の輪を一度だけ緩める。逆流が、管の中の屑を洗い出す。それから、縫い目を閉じる。
輪を解く。下流、上流の順。縫い目が一度膨らんで、滲み、指の圧の下で沈黙した。
コムギの薬指の爪先に、色が戻った。
石の欠片と硝子を摘み出し、清水で洗う。量がない上に、厳密には清潔な水とも言い難い。
途中、少女が一度だけ呻いた。
濁った意識の底から、手が何かを探した。探し当てたのは俺の袖ではなく、付け根を押さえたまま動けない、あれの腕だった。
あれは、押さえを崩さなかった。崩さないまま握られていた。
筋と膜を疎に寄せ、皮膚は、わざと疎に閉じる。感染症に関しては、祈るしかない。これ以上の処置は不可能だ。
結び目を傷から外し、緊張を掛けずに針を通して閉じていく。
そして閉じながら、俺の中で、一つの推定が確定していった。
息を吐く。処置が終わって、集中を解いた。同時に、戦場の状況へと思考が向かう。
あれは、『
死にゆくコムギを前にして、傷を押さえることしかできなかった。あの治癒の発は──この世界のどこにも生まれていない。
王は隻腕だった。操られる死体の状態は悪かった。マサドルディーゴの人形は使用されなかった。
つまり。
パーム=シベリア。護衛軍を前に彼女が自死を選んだとすれば、それを作り替えるすべはなかった。
「止まれ」
あれが声を発した。俺は手を止めないまま、背後に近寄る気配に意識を向ける。
「おやおや、折角の好機だったというのに……」
シャウアプフだった。俺の背後に立ち、薄らとした殺意を俺に向けている。モラウが取り逃したか、それとも煙の檻から逃げ出した分体か。
分体であれば問題はないだろう。モラウは残ったごく小さな本体を見つけ出して倒してくれるはず。
本体だとすれば……この後が問題になる。
「この人間を殺せばコムギが死ぬ。だから、駄目だ」
「人間一匹が死のうと何も問題がないのでは?元より
「王のご命令だ。ボクはコムギを助ける。その邪魔はしないで」
「……そうですか。では、仕方がありませんね」
コムギの処置を続ける。プフは窓際へと後退した。
「王は何処へ?」
「王は、自らの意志で敵とそこから出て行った。南の方へ」
「ふむ、では私は王の元へ向かいます。……ピトー、あなたに任せて良いのですね?」
頭上で頷く気配がして、プフは南へと飛び去った。
計算の上で、それを見送る。……もし、ネテロ会長がギリギリで王に勝利していたとして……送り出してしまったプフがそれを見つけたとしたら? 意味が無い仮定だとしても、考える必要がある。
軽く圧を掛けて包帯を巻き、付け根の圧迫解除を指示し、脈と爪の色を確かめる。持ち直せるだろう、と判断を下す。輸血ができない以上、処置が少しでも遅れれば致命だった。
「動かすなよ。水に塩と糖を溶いて、目が覚めたら少しずつ飲ませろ」
あれは頷いた。
時間を確認する。30分以上が経っていた。
円を張る。
中央階段から移動して、城の中庭でユピーと討伐軍が戦闘を繰り広げていた。ナックルとゴンとキルアに、モラウまでが参戦している。
……プフの気配は無い。
「プフは死んだよ。煙使いが仕留めた」
「……そうか」
ユピーも時間の問題だ。あいつは討伐軍を全員を相手取っても勝利できる可能性を秘めているが、ナックルのハコワレがついている。どこかで『絶』になり、その後仕留められるだろう。
「ユピーの次はお前だぞ」
「……ボクはコムギを守る。何があろうと」
「選択肢は二つだ。俺を殺して、コムギを連れて逃げる。俺たちがコムギを殺さないことに賭けて、お前が殺される」
膠着し続ける限り、俺は得をする。だと言うのに口走ったのは、俺の殺害を幇助するような言葉だった。
ここで戦闘をすることはできない。コムギを巻き込む可能性があるからだ。そういう打算があり、あれが俺を即座に殺めに来ないことはわかっていた。
互いの命を天秤に載せることで、こいつを殺す罪悪感を減らしたかったのかもしれない。
「キミを──」
あれが何かを言いかけ、窓の外へ振り返った。南。ネテロ会長と王が向かった方向……つまり、薔薇が爆ぜた。
南の空が、白く光った。数秒遅れて、地面が長く、低く鳴った。石の床が、細かい塵を吐いた。
同時に、ユピーが高速で南へ飛び去った。
夜明けにはまだ遠い。
俺は一人目の訃報を聴いた。