ネフェルピトーに執着されるだけ   作:おいかぜ

9 / 27
次回更新からペース落ちます。書き溜めが次で尽きるからです。
 
 
 
 
 
 



九話 狩猟

 俺は変化系の念使いだ。

 故に『滑走路(ブルージック)』は己の適性に合った『発』だと言える。自前のロープを組み合わせて、それなりに能力を使いこなしているつもりだ。

 

 対して、『手綱(タグライン)』は操作系の『発』だ。操作系は変化系とは対極に位置し、極めて相性が悪い。

 

 だが、ロープの扱いに慣れてくると、ある程度オーラの流れでロープの動きの操作ができるようになっていることに気が付いた。オーラはエネルギーだ。エネルギーは動力であり、動力は物質を動かし得る。

 

 たとえばこれが、ピトーのような他人を操作する能力であれば、俺の発は大した性能を発揮できなかったに違いない。だが、長年の訓練が俺に系統の相性を乗り越えさせた。

 結果として得たのはロープを結んだり解くだけの能力。性能の割にリソースを食っているような感覚もある。しかし、後悔はしていない。

 

 夜明け前だと言うのに、拠点は慌ただしかった。

 

 ネテロ会長の訃報がまわり、モラウ達が疲労した体に鞭打って走り回る。ほとんど無傷だった俺は、ピトーの監視に割り当てられていた。

 

 サポートを買って出てくれたゴンとキルアを追い出した。

 ゴンは両腕の骨が見事にへし折れていて、無事に見えたキルアも完全にガス欠だったからだ。

 

 宮殿の広場は空爆されたように凹んでいた。ユピーとの戦闘が如何に凄まじかったかを物語っている。実際にゼノに空爆された分も含まれてはいるのだろうが。

 

 あとからやってきた協会の監督役は、ピトーの拘束を主張した。だが、討伐軍は誰一人として頷かなかった。ゴンでさえもだ。

 

 あれを拘束する手段がない。ナックルのハコワレがせいぜいだが、あれが抵抗すれば今度こそ終わりかねない。ナックルが動こうとしなかったのもあって、排除論は暫定的に否決された。

 

 結果、あれは祈るように王に触れている。

 

 カイトが死ななかった結果として、今もネフェルピトーが生きている。そう思うと、なんとも奇妙な因果だった。

 

 俺は徹底してキメラアントとの講和を推奨することとした。

 ただしこれは、失いたくないものがない俺だから言えることだ。

 

 キメラアントに家族や仲間を殺されたもの。国を壊されたもの。治らない傷を負わされたもの。彼らの意志を俺が折ることはできない。

 

 議論は紛糾したが、結局、誰も直接行動に出ることは出来なかった。

 ネフェルピトーは降伏していない。彼女は依然として、人類の敵である。

 

 

 

 

 夜が明ける直前、あれはおもむろに立ち上がった。

 音もなく、宮殿の方へと一歩、歩いた。

 

 ──王が、死んだ。乱れに乱れたピトーの円が示している。

 

「止まれ。その場に座れ」

 

「嫌だ」

 

 短く息を吸う。左肩の傷が熱を持つ。

 死人の命令は、生者に効力を持つだろうか。

 

「そこをどいて」

 

「断る」

 

 ロープを構えた。

 彼女は止まらない。宮殿の方へ、一歩ずつ踏み込む。

 

「退かないと殺すよ」

 

「王に何を託された? 俺の予想では、殉死じゃないだろう」

 

「うるさい!」

 

 ピトーのオーラは揺れている。深く、悲しみに暮れている。

 感応系の能力を持たない俺にも読み取れるほどに、彼女の情動は明け透けに振れていた。

 

 浅い呼吸が、未明の空気を震わせる。

 

「行っても死ぬだけだ。自分の忠道にさえ泥を塗るつもりか?」

 

「……そんなことは分(・)か(・)っ(・)て(・)る(・)」

 

 白み始めてなお、月が煌めいている。

 瞳孔が引き絞られ、彼女の姿勢が瞬時に伏せられる。

 

 三度目の速攻を、俺は完璧に凌いだ。

 

 技術も作戦もない突進を、『隠』で隠した『滑走路』が絡め取り、ロープでの捕縛を全霊で躱したピトーの防御の上から、顔面を蹴り飛ばす。

 

 馬鹿みたいな速度の流だ。オーラ量の差もあって大したダメージにはならない。

 

 小屋の屋根の上に音もなく着地して、ピトーが初めて呼吸したように息を吐いた。

 衝動に飲まれたように絞られた瞳孔に、ようやく俺の姿が反射する。

 

「……『絶』の応用?」

 

「『隠』という。一応は高等技術だが、お前たちならすぐに覚えるんだろうな」

 

 俺の『滑走路』は『隠』で偽装することができる。これも今までの狩りの間には見せてこなかった手札の一つだ。

 

 呼吸を整える。

 どこまで耐えられるだろうか。15分、とあたりを付ける。

 

 この数時間、ピトーを通す理由を探した。

 キメラアントの兵隊が、王に殉じて死ぬことを止める倫理は俺に備わっていない。

 人類の敵となり得る獣を殊更に生かすことも、俺はしない。

 

 立てられる理由はこの程度で、その後に広がる最(・)悪(・)を覆せるほどではなかった。

 

 原作において死後のネフェルピトーは、念能力を暴走させ、死後の念によってゴンの腕を奪った。

 

 王に殉じた後のネフェルピトーがそうならない保証は無い。王の亡骸を守り、毒を撒き続ける人形になる可能性も、もしかすると人類への復讐として毒と殺戮を振り撒き続ける可能性も、否定はできない。

 

 誰に話しても一笑に付すことだろう。

 ピトーを宮殿に入れない、という理念は保たれようと、誰もが「最悪の場合は通しても構わない」と思っているはずだ。それを否定はしないが、原作知識故に、俺はここに立たなければならない。

 

 

 ──さて、そ(・)れ(・)は(・)本(・)心(・)か(・)? 

 

 

 ピトーの攻撃を凌ぎ、打ち倒す算段を立てながら、同時に思考が回っていた。俺がここに立っている事実に、欲望が滲んでいないと言えるだろうか。

 

 あの月夜に見惚れた影に、今も魅入(みい)っている。

 

 死んでこの世界に来る前から、生き物が好きだった。

 虫採りに夢中になっては動物園や水族館の飼育員を将来の夢に書くような子どもだった。大人になってからも生き物を飼い、標本を集めるくらいには、そんな熱に浮かされていた。

 

 幻獣ハンターは天職だ。珍しい生き物を追いかけ、集め、学び、研究し、保護する。欲望と倫理を両立できる職業だと言える。

 

 前世では生き物屋なんてものは俺を含めて大抵が壊し、奪う側で、まともな活動をしている人間は少数だった。今でこそ他人のための制約を立て、真人間の振りをしているが、俺の本質はそちらだ。

 

 珍しいものが欲しい。美しいものが欲しい。己が満たされれば良い。そういう衝動は常に胸の中で渦巻いている。

 

 世界で一番珍しく美しい獣を前にして、私心を殺せているとは思わない。

 

 俺がここに立っている理由のどれほどが、あの月夜の刹那に支配されているだろう。

 

 答えは出ている。俺は保護活動家ではなく、ハンターになることを選んだ。

 

 俺のポーズは、宮殿防衛の職務に殉じる悲愴なハンターだろうか。

 

 ──まさか。誰よりも欲望に塗れている。

 

 

 ピトーの頭上に黒い影が浮かんだ。『黒子舞想(テレプシコーラ)』。前世の記憶が念能力の名前を言い当てる。

 

 自己操作系の能力。恐らくは戦闘における余計な思考や判断をスキップし、反射神経に極限まで振り切ることが本質だろう。『百式観音』よりは遅く、俺よりは速い。

 

 反射的に防御用のロープを構えた時には、ピトーの右足が迫っていた。意趣返しの蹴撃をかろうじて凌ぎ、そのまま森へと後退する。俺のロープが張り巡らされた蜘蛛の巣だ。俺の視界を通して、あるいは円を通して、ピトーもそれを承知しているはず。

 

 

 王の元へ行きたいだけなら、森を迂回すれば良い。

 俺はピトーの速度には追いつけない。それは向こうも分かっているはずだ。

 

 

 彼女は、わざわざ正面突破を選んだ。

 

 

 ──俺の制約は、反応しなかった。

 

 

 俺が張った網の手前、俺から二十歩の位置で、ピトーが立ち止まった。

 

 

 そして、円が咲いた。

 

 

 夜の空気が一段沈んだ。

 俺の網の全部——杭の一本、結びの一つ、張力の配分、荷重の流れ——が、あれの知覚の上に載ったのが分かった。

 

 ノヴの能力を使って持ち出した、俺の所有する全て。

 117本のロープ、83本の杭、交差は数え切れず、鉤爪や錘(おもり)が諸処に配置されている。

 

 獣一匹を捕らえるために編んだ蜘蛛の巣。

 

 この円は、答え合わせだ。

 人形に操られたピトーが、最短距離でロープを切る。

 

 網の南西、荷重が集まるメインロープ。そこを断てば網の大部分が動かしにくくなる。そのように設計した一本を、正確に断ちに来た。

 

 見事な選択だった。

 円で読んだ図面から、最も効率のいい一手を、迷わずに選んでいる。

 

 俺が使い続けてきたロープの手癖も、技法も、学習されている。

 

 ──故に、その対策は用意していた。

 

 切られた瞬間、そのロープの結び目を順に解いていく。同時に5つずつ、累積上限はなし。機能停止したはずの網が裏返り、ピトーの理解を白紙に戻していく。

 

 離れた結びが三つ、同時に解けた。別の三つが締まった。荷重の流れが、南西から北東へ、すべり落ちるように移った。

 

 ピトーの爪は、もう何も支えていないロープを一本切って、着地の半歩を無駄にした。

 

『手綱(タグライン)』。数ヶ月温存してきた特大の一手と、これまでの20年をもって、ネフェルピトーを縫い止める。

 

 操り手の糸が、僅かに揺れた気がした。

 

 一日かけてピトーが写してきた図面が、一手で古紙になった。

 

「……ああ」

 

 ピトーの声が、初めて、感心の色をした。

 

「そういうこと」

 

 溢れた吐息は、笑い声に似ていた。

 高揚と歓喜に染まった月が、俺を見ていた。

 

 ピトーは学習(狩り)を再開した。

 糸に吊られた身体は、俺のロープの跳ね上げを最短で潜り、杭の射出を最小で躱す。

 

 応答は完璧だった。完璧であればあるほど、やりやすい。

 安定択しか選べない指し手は、安定択を咎めるための奇策に容易く返される。最短最速しか選べない獣は、容易く罠に掛けられる。

 

 俺はピトーの中にある解答表を読み解き、その裏をかく一撃を織り交ぜるだけで良い。

 

 摩擦をゼロにした床。極大にした壁。締まる輪。解ける輪。組み替わる網。俺が同時に仕掛けられる手は、両手を含めて七つ。常に判断を迫るのは、俺だ。

 

 左肩は相変わらず熱を持っている。仕掛けのために頭上の枝を視認した。それに反応して姿勢を下げたピトーの足を、目視せずに滑らせたロープが掬い上げる。

 

 完全に浮いたピトーの肩を、自由落下してきた杭が穿つ。浅く掠めただけの杭の頭をそのまま殴りつけた。入ったが、浅い。

 

 体勢を立て直して飛び上がったピトーに対して、樹上戦を仕掛ける。よく伸びた大木の森は、戦闘の足場にするには充分だった。

 

 だが、機動力を加味すると移動がロープ頼りになる俺が不利だ。

 『滑走路』によって木の幹や枝へとグリップすることはできるが、ヒソカほど縦横無尽に動ける訳じゃない。

 

 結果、オーラを消費する戦法に出ざるを得ない。俺が触れた足場に『滑走路』を置いていく。ピトーは俺の選んだ経路を迂回するしかない。そしてその度に対応が後手に回る。滞空時間が長ければ、配置されるロープを躱すことも難しい。

 

「面倒だ、ニャッ!」

 

 杭や鉤爪は削るための攻撃だが、そもそものロープは捕縛のための道具だ。隙があればキメラアントであろうと捕えられる。巻き付けた後に『滑走路』をかければ、ピトーであっても逃れ得ない必殺だ。

 

 だから次に選ぶのは地上戦。そこまでは見えている。

 

 先に降りたのは俺だった。

 続けて掴んだ俺のロープを足掛かりにピトーが飛び降りてくる。

 

 当然、先回りした分の罠は仕掛けてあった。摩擦を無くした斜面は土砂崩れを起こす。ピトーが着地した周辺ごと崩す。

 同時に、事前に切断しておいた大木が、保持していた摩擦を失って倒れ込む。

 

 大木の幹には爪で引っ掻いた跡が残り、ピトーは土埃に塗れながらもほとんど無事で姿を見せた。まだまだロープは残っている。

 

 『滑走路』はあからさまなものと『隠』で隠したものを織り交ぜる。

 『隠』を施した『滑走路』を躱すのに、ピトーは二度同じ動きをした。そして二度目は予想済みだった。杭が肩を掠める。

 

 今度は俺がロープを結び直すのを読んで、ピトーはあえて拍をズラした。それもロープの結び目は触らず、同じ形のままにした。読みが空を切り、白い爪が何も無い空を裂いた。

 

「──!」

 

 太腿の外側を鉤爪が掠めた。赤い血が流れる。

 痛覚に反応することなく、あれはもう一度跳躍の姿勢を整えた。もう一本、ロープが切られる。

 

 ──違和感。

 

  『黒子舞想(テレプシコーラ)』の応答が揺れている。

 

 ある程度決まったパターンの回答を示していた劇場の女神が、俺の『滑走路』に適応している。

 

 ピトー自身の学習が反映されている? 

 ……だとすれば、学習元はこの戦闘と、左肩につけられた眼だ。

 

 俺の視点運びの癖、『滑走路』の置き方、『手綱』の配置、ロープの軌道、全てが学習されつつある。

 

 

 ロープが消費される速度が上がっている。

 

 ピトーは常に凝をしながら戦わなければならない。しかも、それで回避出来る『滑走路』は目視したものに限る。

 

 『滑走路』を見破ったとしても、その意図を見抜くのは難しいだろう。

 自分が踏み込まないのは前提として、配置されたそれがピトーを引っ掛けるための罠なのか、俺の加速のためのギミックなのか、地形崩しの下準備なのか。

 

 『滑走路』を踏んだ場合、滑るのか、引っかかるのか、偽装(フェイク)なのか。

 判断は遅れ、誤つ。その度にピトーの身体には傷が増える。

 

 

 遠い過去、どこかで見たような構図だった。

 殺すための祈りが、捕らえるための網へ代わっているだけ。

 あの祈りには及ぶべくもないが──文句は言われないだろう。

 

 

 ピトーの喉が鳴っている。

 糸に吊られたままの尾が、大きく揺れた。

 

 操り手の糸の外で、身体が勝手に機嫌を白状している。

 

 もう、隠す気もないらしい。糸が乱れた。それに初めて気が付いたように、ピトーが頭上を見上げた。

 

 

『黒子舞想(テレプシコーラ)』が消え、ピトーの動きに明確な意志が乗る。

 

 もう何度目か、彼女の身体が弓のようにしなった。

 

 狩りをするための肉体。

 

 探す。追う。読む。捕る。

 

 王の存在でも、下される命令でも、忠誠でもない。

 この生き物の一番底にあるものは、最初からそれ一つだけだ。

 

 主が終わって、命令が終わって、生きている理由の柱が全部倒れた後に残った身体が、俺の網の上で全力を使っている。

 

 仕込んだ罠がピトーの右手を引っ掛ける。結び目には更に解こうとした爪を引っ掛けるための摩擦が置いてあった。二拍稼いだ。

 

 直後、脇腹を杭が撃ち抜く。速度を殺されたせいで浅い。

 

 有効なロープは既に70本程度。半分を切りかけている。即座に回収して張り直した分も、見られていては効果が薄い。この程度のその場しのぎは、完全に学習されきっている。

 

 ロープの減少は俺の命までのリミットだが、もっと深刻なのは、攻撃の密度が下がることだ。

 

 ピトーが動ける時間が増えれば、それだけ俺の心臓に届くまでのタイムリミットは短くなる。

 

「ははっ」

 

 息が溢れた。大概、俺も毒されている。

 

 もう、彼女と戦っている理由など忘却の彼方だった。

 

 ただ読み合いに回す思考と、戦闘の高揚、目の前の獣に向ける欲望だけが俺の脳を支配している。

 

 結び目が解けるか解けないか。軌道は曲がるかまっすぐか。

 オーラに『滑走路』は仕掛けられているか。

 凝での確認は足りているか。滑るか、引っかかるか。

 結び目の種類は? 飛んでくるロープの先端は? 

 地面は信頼に足りるかどうか。

 

 あらゆる択を迫り、対応し損ねた瞬間を咎める。

 作った隙が罠かどうかを確かめ、段々といなされていくことに焦燥を育てる。

 

 俺の心は、この数ヶ月の自分の欲求に答えを出しつつあった。NGLに足を向けたのは、カイトを助けたかったからだ。

 だが、その後は逃げても構わなかった。

 

 キメラアントが人類に勝利することはない。被害者が50万人か500万人かの違いがあるだけで、ネテロ会長が立った時点でキメラアント達は滅ぶことが確定している。

 

 左肩に刻まれた印も、無視することはできたはずだ。ネフェルピトーが王から離れないことは分かりきっていた。

 

 ああ、告白しよう。この印が刻まれたとき、俺の心には一抹の歓喜が過ぎっていた。

 

 とうとう、ピトーの一撃が俺に届いた。摩擦による回避や爪の鹵獲を警戒した掌底。

 

 庇った右腕の防御を容易く抜かれる。追撃が顎を掠めた。いなせなければ頭が揺れてノックアウトだっただろう。

 

『滑走路』で滑らせても、もう体勢を立て直す術を覚えられている。それを崩そうとする俺の手札も、対応されている。

 

 爪が俺の上着を掠める。摩擦で滑らせた鉤爪が、糸を解いていく。

 

 ピトーの動きはより鋭く、精度が上がっていく。

 

 オーラもロープも半分を切った。距離を取れる時間が短くなっていく。

 爪を避ける回数が増え、杭や鉤爪が傷をつけられなくなっていく。

 

 つんのめったピトーの腹部を蹴り飛ばし、カウンターで振るわれた爪が髪を数本持って行った。

 

 時間を数えている暇はなかった。15分か、30分か、それとも1分に過ぎないのか。永遠とも須臾ともつかない攻防に、息が乱れている。

 

 張ったロープの一つが、甲高い音を立てた。ピトーの意識が一瞬削がれた隙に、また杭が命中した。

 黒く塗りつぶして『隠』で隠したロープがピトーの足を捕らえた。右肩を鉤爪が深く裂いた。

 

 傷は非対称に増えていく。出血も負傷も、ピトーの方がはるかに多い。だが、追い詰められているのは俺の方だった。

 

 気づけば空が白んでいる。逆算すれば、30分以上が経っていた。

 

 格闘の時間が増える。

 爪は受け流し、打撃は足を滑らせて逃げる。

 

 泥濘に足を踏み入れた瞬間、ピトーの足元の摩擦を小さくした。左足を取られたところにロープを巻き付けたが、強引に抜けられた。

 隙だらけの後頭部に錘(おもり)の付いた先端をぶち当てたが、かろうじて腕で防御された。

 

 沢の近くで僅かに木々がまばらになり、脇腹に一撃重い蹴りをもらった。

 

 どれだけ体勢を崩しても、致命的な一撃が入らない。

 視界の共有によって、勝負を決めるだけの必殺を躱され続けている。この上なく厄介だ。

 

 いつの間にか、手元のロープは軽くなっていた。用意していた手綱も数えられる程度。オーラも底を尽きかけていた。

 

 不規則な挙動で左腕を掠めたロープを切断され、10秒も待たずに残りのロープが切られた。

 

 最後の一本を摘み上げ、ピトーが円を展開する。

 最後のオーラで隠した『滑走路』に彼女は左足を取られ、右足で立ち直った。直後、跳ね上がった鉤爪が彼女の首を掠め、傷を付ける。

 

 ピトーが傷口に触れ、流れた血を確かめた。

 

 夜明けと共に、俺の網は解かれ尽くした。最後の一本は、今ピトーが触れているそれだけだ。真横に一本引かれただけの、最早仕事をすることもできないだろうロープ。

 彼女はロープが滑らないことを確かめ、答え合わせを終えた。円を閉じ、凝をしたまま、俺の前に立つ。

 

 完全にオーラが尽き、俺は立ったまま膝に手をついた。

 ピトーが俺の肩を軽く押し、そのまま仰向けに倒れ込む。朝露と土埃の匂いがした。

 

 

 静寂が森を支配していた。

 絶えず鳴っていたロープの唸り、繊維の軋み、疾走の音。それらが止んでいる。

 

 俺たちの呼吸音だけだった。

 

 

「ボクの、勝ちだ」

 

「ああ。好きに、すればいい」

 

 いよいよ万策尽きた。防御し損ねた数箇所の骨が軋んでいる。オーラの消耗が激しい。意識が朦朧としていた。オーラを使い切るのなんてしばらくぶりだ。

 

 手が震えている。

 息を吸おうとして肺が震えた。

 

「……王の言葉は、『この先を見届けよ』だった」

 

 腹部に体重が掛けられた。ピトーが俺を見下ろしている。

 終わりとしては随分上等だ。

 

「王は死んだ。キミを捕まえた。じゃあ、次はどうすればいい」

 

「自分探しでも、したらどうだ。見届けろと、言われたんだろう。お前は、何のために生まれてきた」

 

「ボクは、王に仕える為に生まれてきた」

 

「……その割には、楽しそうだったな」

 

 ピトーは目を丸くした。

 考えたこともなかった、と言うように。

 

 それから、屈んだ。

 

 影が、俺の上に落ちた。

 

 俺の腕を押さえる腕が、呼吸と共に震えていた。

 こいつにも体温があるのか、と今更そんなことを考えた。

 

 首筋に歯が触れる。

 

 皮膚に牙が突き立てられ、食い破られる感覚があった。

 

 圧と、熱。

 

 喉を食いちぎるなんて、そこまで猫らしくせずとも、と苦笑が溢れた。

 

 皮膚の下の深いところで、二ヶ月前の傷が開き直る感覚——あの月下の、契約の書き換わる熱が、もう一度走った。

 

 歯が離れた。

 

 それから、舌が、喉仏をゆっくりと一度、舐めた。

 

 その感覚を遠くに感じながら、俺は意識を手放した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。