――今から、およそ百年前。
世界は戦争の炎に包まれていた。
国が国を憎み、人が人を殺す。
砲弾が街を焼き、銃声が空を裂き、昨日まで笑っていた者が、次の日には冷たい骸となって転がっている。
誰もが願っていた。
この戦争を終わらせてくれる何かが現れてほしい、と。
そして――
それは、現れた。
雲が割れた。
戦場を覆っていた黒煙の向こうから、眩い光が降り注ぐ。
その中心にいたのは、人の姿をした何かだった。
純白の翼。
頭上に浮かぶ光輪。
神々しいほど整った姿。
人々は知っていた。
絵画で。
聖書で。
伝承で。
何百年、何千年と語り継がれてきたその存在を。
「天使だ……」
誰かが呟いた。
兵士が銃を下ろした。
泣き崩れる者がいた。
神に祈る者がいた。
敵国の兵士同士が、同じ空を見上げた。
――助かった。
誰もが、そう思った。
神が人類を救いに来た。
これで戦争は終わる。
もう殺し合わなくていい。
だが。
天使は静かに右手を掲げた。
光が生まれた。
次の瞬間。
一つの都市が――消えた。
敵も。
味方も。
兵士も。
民間人も。
老人も。
子供も。
区別などなかった。
人間である。
ただ、それだけで。
天使は人を殺した。
そこから始まったのは、戦争などという言葉では到底表せない虐殺だった。
人類の兵器は通用しなかった。
銃も。
戦車も。
戦闘機も。
人類が生み出したあらゆる兵器が、天使の前では無力だった。
国境は意味を失った。
昨日まで争っていた国家が手を組んだ。
それでも勝てなかった。
ヨーロッパが落ちた。
アジアが焼けた。
アメリカ大陸にも天使が降り立った。
人類の生存圏は、日に日に狭くなっていった。
そして誰もが悟った。
――人類は滅びる。
そのはずだった。
『――力が欲しいか?』
世界のどこかで。
誰かが、その声を聞いた。
『ならば契約しろ、人間』
それは神ではなかった。
天使でもなかった。
人類が長い歴史の中で、恐怖し、忌み嫌い、邪悪の象徴としてきた存在。
――悪魔。
一人の人間が悪魔と契約した。
そしてまた一人。
さらに一人。
やがて世界中で、悪魔と契約する人間が現れ始めた。
悪魔の力をその身に宿し、天使を殺す者たち。
後に人々は彼らをこう呼んだ。
契約者――
《コンタクター》と。
天使によって滅亡寸前まで追い込まれた人類を救ったのは、
皮肉にも――悪魔だった。
◇ ◇ ◇
――西暦二〇二六年。
「一ノ瀬」
教官の低い声が響いた。
「はい」
一ノ瀬遥人は立ち上がる。
周囲から視線が集まった。
期待。
嘲笑。
同情。
そして――好奇心。
遥人は、それらを無視して前へ歩いた。
巨大な訓練場。
その中央には、黒い石で作られた祭壇が設置されている。
契約召喚用魔術式。
悪魔を呼び出し、契約を試みるための設備だ。
「今回で何回目だ?」
教官が聞く。
「……二十七回目です」
小さな笑い声が聞こえた。
「二十七回……」
「逆にすげぇな」
「普通、一回目か二回目で契約するだろ」
聞こえている。
聞こえているが、遥人は何も言わなかった。
教官が周囲を睨む。
「静かにしろ」
一瞬で静寂が戻る。
「始めろ、一ノ瀬」
「はい」
遥人は祭壇へ手を置いた。
深呼吸。
魔術式へ力を流す。
瞬間。
床一面に刻まれた文字が青白く発光した。
空気が震える。
悪魔を召喚するための門が開く。
遥人は目を閉じた。
――頼む。
下級でもいい。
戦闘向きじゃなくてもいい。
どんな悪魔だっていい。
俺を――選んでくれ。
光が強くなる。
そして。
――消えた。
「…………」
何もいない。
悪魔は、一体も現れなかった。
沈黙。
その後。
「……またかよ」
誰かの声が聞こえた。
教官が小さく息を吐く。
「……召喚失敗。一ノ瀬、戻れ」
「はい」
遥人は祭壇から離れた。
席へ戻る途中、声が聞こえてくる。
「二十七回連続って……」
「悪魔に嫌われてんじゃね?」
「契約者育成校なのに未契約って、何しに来てんだよ」
遥人は拳を握った。
この学校に入学してから、何度聞いたか分からない。
――未契約者《アンダーコンタクト》。
悪魔と契約できていない者を指す言葉。
本来なら珍しいものではない。
問題なのは――ここが契約者育成学校だということだ。
ここにいる学生のほとんどは、すでに何らかの悪魔と契約している。
だから遥人は異質だった。
契約者を育てる学校にいる、契約できない学生。
それが一ノ瀬遥人だった。
「遥人」
席へ戻ると、隣から声がした。
「……ん?」
「手」
九条朱音が遥人の右手を指差した。
見ると、強く握りすぎて爪が食い込んでいた。
「別に大丈夫」
「大丈夫な人はそんな握り方しません」
「……はい」
朱音が遥人の手を取る。
「ちょっ……」
「動かない」
「いや、これくらい――」
「動かない」
「はい」
逆らえなかった。
朱音は昔からこうだ。
遥人が無茶をすると、絶対に引かない。
「まったく……」
朱音は小さく息を吐いた。
艶のある黒髪が肩から流れる。
整った顔立ち。
成績優秀。
戦闘訓練でも上位。
さらに契約しているのはソロモン七十二柱の一体――第37魔神フェニックス。
学校でも知らない者はいないほどの優等生。
そんな少女が、未契約者の遥人の手を握っている。
当然。
「…………」
周囲の男子たちから凄まじい視線が飛んでくる。
「……朱音」
「なに?」
「視線が痛い」
「気にしなければいいじゃない」
「お前はな」
朱音は首を傾げた。
本当に分かっていないらしい。
遥人はため息をついた。
「それより」
朱音の声が少しだけ優しくなる。
「二十七回失敗したくらいで、諦めるつもり?」
遥人は朱音を見る。
「……まさか」
「ならいい」
朱音は笑った。
「二十八回目で成功すればいいだけでしょ?」
「簡単に言うなぁ」
「遥人ならできるよ」
あまりにも当然のように言われた。
遥人は少しだけ目を見開く。
周囲の誰もが笑う。
教官ですら、遥人が契約できる可能性を疑い始めている。
それでも。
九条朱音だけは、一度も言わなかった。
――諦めろ。
と。
「……ありがとな」
「うん」
朱音が微笑んだ。
その時。
学校中に警報音が鳴り響いた。
――ビーッ! ビーッ! ビーッ!
「!?」
教室の空気が変わる。
『緊急警報。緊急警報』
機械音声が響く。
『市街地第三区画にて天使反応を確認』
全員の表情が固まった。
「天使……?」
誰かが呟く。
『推定階級――不明』
教官の顔色が変わった。
「全員、待機!」
一斉に生徒たちが立ち上がる。
「契約悪魔の召喚を禁止する! これは訓練ではない!」
遥人は窓を見る。
遠く。
街の向こう。
空に――光が見えた。
白い光。
美しい。
あまりにも美しくて。
だからこそ。
本能が告げた。
――あれは、危険だ。
「遥人」
朱音が隣に立つ。
その表情から、さっきまでの柔らかさは消えていた。
「絶対に学校から出ないで」
「分かってる」
「本当に?」
「子供じゃないんだから」
「……遥人だから言ってるの」
「どういう意味だよ」
朱音は答えなかった。
ただ。
遥人はまだ知らなかった。
この日。
この街に現れた一体の天使が。
自分の人生を。
世界の運命を。
そして――
百年前から続く、天使と悪魔の戦争そのものを変えることになることを。
そして何より。
遥人は知らなかった。
これまで二十七回。
どれほど呼びかけても。
どんな悪魔からも選ばれなかった自分を――
ずっと以前から見ていた存在がいたことを。
暗闇の奥。
誰にも届かない場所で。
六枚の黒翼が、ゆっくりと開いた。
『――ようやくか』
黄金の瞳が開く。
悪魔の王が――笑った。