――天使。
百年前、突如として世界に現れた人類の天敵。
その姿は美しく。
その力は圧倒的で。
そして――人間に対する慈悲を持たない。
『市街地第三区画にて天使反応を確認』
警報が鳴り響く訓練場。
誰もが窓の向こうに浮かぶ白い光を見つめていた。
「全員、地下シェルターへ移動!」
教官の声が飛ぶ。
「契約悪魔の召喚は禁止! AEGISが到着するまで絶対に交戦するな!」
生徒たちが一斉に動き始める。
普段なら天使との戦いを想定した訓練を受けている者たちだ。
それでも実戦は違う。
まして、出現した天使の階級は不明。
学生が戦っていい相手ではない。
「遥人!」
「分かってる!」
九条朱音に呼ばれ、遥人も走り出す。
廊下へ出る。
大勢の生徒が避難誘導に従い、地下へ向かっていた。
その時。
――ドォォォン!!
「っ!?」
校舎が大きく揺れた。
窓ガラスが震える。
天井から細かな埃が落ちてきた。
「何だ!?」
「攻撃!?」
直後。
『警告。天使反応、移動』
放送が響く。
『現在位置――』
一瞬のノイズ。
そして。
『契約者育成学校方面』
空気が凍った。
「こっちに来てる……?」
誰かが呟く。
朱音の表情が変わった。
「遥人、急ぐよ」
「ああ」
二人は走る。
階段を下りる。
あと少しで地下シェルター。
その時だった。
「おかあさん……!」
遥人の耳に、小さな声が届いた。
「……え?」
足が止まる。
「遥人?」
廊下の向こう。
避難する人々とは反対方向。
開いた非常口の外に、小さな女の子がいた。
学校の敷地に隣接する道路。
転んだのだろう。
膝から血を流し、泣いている。
そして――
その遥か上空。
白い光。
遥人の背筋が凍った。
「……まずい」
「遥人?」
考えるより先だった。
遥人は走り出していた。
「遥人!?」
朱音の声が背後から聞こえる。
非常口を飛び出す。
「おい!」
教官の怒声も無視した。
女の子のところまで走る。
「大丈夫か!?」
「お、お兄ちゃん……」
「立てる?」
女の子が首を振る。
遥人は抱き上げた。
軽い。
その瞬間。
――ゾクリ。
全身が粟立った。
見られている。
遥人はゆっくりと空を見上げた。
「…………」
そこに。
――天使がいた。
白い翼。
頭上の光輪。
白銀の髪。
人間とほとんど変わらない姿。
息を呑むほど美しかった。
絵画の中から抜け出したような神々しさ。
しかし。
その瞳には――何もなかった。
怒りも。
憎しみも。
殺意すらない。
ただ。
人間を見ている。
まるで道端の石を見るように。
「……これが」
遥人の喉が鳴った。
「天使……」
授業では何度も見た。
映像でも見た。
写真でも見た。
だが。
実物は違う。
身体が勝手に震える。
本能が叫んでいる。
逃げろ。
勝てない。
これは――人間が戦っていい存在ではない。
「お兄ちゃん……怖い……」
胸の中で女の子が震えた。
「…………」
遥人は歯を食いしばった。
「大丈夫」
自分だって怖い。
それでも。
「絶対、大丈夫だから」
遥人は天使へ背を向けた。
走る。
その瞬間。
天使が指を向けた。
光が集まる。
「遥人!!」
朱音の叫び。
炎が遥人の横を駆け抜けた。
――ドンッ!!
天使の光と炎が衝突する。
爆風が広がった。
「うわっ!」
遥人は女の子を抱えたまま地面を転がった。
「遥人!」
朱音が駆け寄ってくる。
その背後。
巨大な炎の鳥が翼を広げていた。
第37魔神――
フェニックス。
「朱音……!」
「何やってるの!!」
本気で怒っていた。
「死にたいの!?」
「いや、でもこの子が!」
「だからって!」
朱音が言葉を止める。
遥人に抱かれて震える少女を見る。
「…………もう」
小さく息を吐く。
「そういうところ、本当に昔から変わらない」
「悪い」
「褒めてない」
朱音は天使を見る。
その表情が変わる。
「その子を連れて逃げて」
「朱音は?」
「時間を稼ぐ」
「無茶だ!」
「私にはフェニックスがいる」
炎が朱音を包む。
「遥人には――」
そこまで言って。
朱音が止まった。
「…………」
遥人には契約悪魔がいない。
戦う力がない。
その事実を言えなかった。
「……分かってる」
遥人が答えた。
「俺じゃ、何もできない」
「遥人……」
「だから、この子を連れて逃げる」
朱音が頷く。
「お願い」
遥人は走った。
背後で炎が爆発する。
フェニックスと天使が激突した。
「はぁ……はぁ……!」
走る。
少女を抱えたまま。
校舎まで。
あと少し。
「先生!」
教官がこちらへ走ってくる。
「一ノ瀬!」
「この子を!」
遥人は少女を教官へ渡した。
「お前も入れ!」
「でも朱音が!」
「九条は契約者だ! お前が行って何になる!」
胸に突き刺さった。
――何になる。
分かっている。
俺には悪魔がいない。
戦う力もない。
行ったところで邪魔になるだけ。
「…………」
遥人は拳を握る。
その時。
――ドォォォォン!!
爆発。
「朱音!」
炎の鳥が空から墜ちた。
地面へ叩きつけられる。
「フェニックス!」
朱音の叫び。
天使が降りてくる。
無傷。
「嘘だろ……」
遥人は呟いた。
ソロモン七十二柱。
朱音ほどの契約者でも――
勝てない。
天使が右手を上げた。
狙いは。
朱音。
「――っ!」
遥人は走った。
「一ノ瀬!!」
教官が叫ぶ。
分かっている。
馬鹿だ。
何もできない。
契約悪魔すらいない。
それでも。
身体が勝手に動いていた。
「朱音!」
「遥――」
遥人は朱音を突き飛ばした。
瞬間。
白い光が胸を貫いた。
「…………え?」
痛みすら。
最初は分からなかった。
遥人は自分の胸を見る。
血。
「遥人……?」
朱音の声。
身体から力が抜ける。
「遥人!!」
地面へ倒れた。
音が遠くなる。
視界が霞む。
朱音が何か叫んでいる。
教官が走っている。
フェニックスが吠えている。
でも。
聞こえない。
――死ぬのか。
遥人は思った。
契約者になれなかった。
二十七回も失敗した。
何度やっても悪魔は来なかった。
結局。
何もできないまま。
「……嫌だな」
小さく呟く。
まだ。
死にたくない。
契約者になりたかった。
朱音と一緒に戦えるくらい強くなりたかった。
誰かを守れる人間になりたかった。
もっと――
「……強く、なりたかったな」
意識が沈んでいく。
その時。
『――ならば』
声がした。
「……?」
時間が。
止まった。
風が止まる。
炎が止まる。
天使の動きさえ止まった。
世界から色が消えていく。
朱音も。
フェニックスも。
教官も。
何もかもが静止していた。
その中で。
遥人の目の前に。
一人の男が立っていた。
「……誰……だ……?」
黒い髪。
黄金の瞳。
背後には――
六枚の黒翼。
男は遥人を見下ろした。
その存在を見ただけで理解した。
悪魔。
だが。
今まで授業で学んできたどの悪魔とも違う。
格が違う。
存在そのものが違う。
男は静かに遥人の前へ歩いてくる。
『二十七回』
「……え?」
『随分と呼んだものだ』
遥人の目が見開かれる。
「……知って……」
『当然だ』
男は笑った。
『すべて聞いていた』
「だったら……」
遥人は震える声で言った。
「なんで……来なかった……」
男の笑みが深くなる。
『勘違いするな』
六枚の黒翼が開く。
世界が軋んだ。
『貴様が悪魔に選ばれなかったのではない』
黄金の瞳が遥人を射抜く。
『私が――選ばせなかった』
「…………は?」
遥人の思考が止まる。
男は当然のことのように続けた。
『下級悪魔』
一歩。
『中級悪魔』
さらに一歩。
『上級悪魔』
そして。
『七十二柱』
遥人の前で止まる。
『その程度の者どもに、私が目をつけた人間を渡すと思ったか?』
「……お前……」
遥人の声が震える。
「何者だ?」
男は笑った。
その瞬間。
背後の闇が吹き飛んだ。
六枚の黒翼。
黄金の瞳。
頭上に浮かぶ――砕けた光輪。
かつて天に存在し。
神に最も近い場所に立ち。
そして。
天へ反逆した者。
『我が名は――』
男が告げる。
『ルシファー』
遥人の心臓が跳ねた。
知っている。
知らないはずがない。
悪魔について学ぶ者なら。
いや。
世界中の人間が知っている名前。
堕天の王。
七つの大罪――《傲慢》。
そして。
悪魔の頂点。
「……ルシファー……?」
『そうだ』
ルシファーは遥人へ手を差し出した。
『一ノ瀬遥人』
初めて名乗ったはずなのに。
彼は遥人の名前を知っていた。
『死にたくないのだろう?』
「…………」
『強くなりたいのだろう?』
遥人は差し出された手を見る。
『ならば選べ』
黄金の瞳が輝く。
『ここで人として死ぬか』
黒翼が広がる。
『私の手を取り――』
世界を覆うほどの闇が広がった。
『悪魔の王と共に歩むか』
遥人は。
震える手を――
ゆっくりと持ち上げた。