『悪魔の王と共に歩むか』
ルシファーが差し出した手。
遥人はそれを見つめていた。
死にたくない。
強くなりたい。
誰かを守れるようになりたい。
そんなことは、もう分かっている。
それでも。
遥人は手を止めた。
『どうした?』
「……一つ、聞いていいか」
『許す』
「なんで俺なんだ?」
黄金の瞳が僅かに細くなる。
「お前は悪魔の王なんだろ?」
『そうだ』
「だったら俺より強い奴なんて、いくらでもいる」
九条朱音。
フェニックスに選ばれた幼馴染。
学校の教官たち。
世界中で天使と戦う契約者。
自分なんかより優秀な人間はいくらでもいる。
「俺は二十七回も契約に失敗した」
『私が妨害していたからな』
「それも意味分かんねぇよ!」
思わず声が大きくなった。
「なんでそこまでして俺なんだ!」
沈黙。
ルシファーは遥人を見る。
そして。
『――傲慢だ』
「……は?」
『理由など、今の貴様が知る必要はない』
「いや契約する側としてはめちゃくちゃ知りたいんだけど」
『私が貴様を選んだ』
ルシファーは当然のように言う。
『それでは不満か?』
「…………」
遥人は思った。
――こいつ、話通じないタイプだ。
だが。
なぜだろう。
恐怖はなかった。
目の前にいるのは悪魔の王。
人類が恐れてきた存在の頂点。
それなのに。
不思議と。
この手を取ってもいい。
そう思えた。
遥人はもう一度、差し出された手を見る。
そして。
「……契約したら」
ルシファーを見る。
「俺は、強くなれるのか?」
『愚問だ』
即答だった。
六枚の黒翼が広がる。
『誰と契約すると思っている』
黄金の瞳が輝く。
『貴様の前にいるのは――悪魔の王だ』
遥人は笑った。
「……そうだったな」
手を伸ばす。
そして。
ルシファーの手を握った。
瞬間。
――ドクン。
心臓が鳴った。
「――っ!?」
熱い。
全身が燃えるように熱い。
何かが身体の中へ流れ込んでくる。
力。
そんな言葉では足りない。
巨大すぎる何か。
遥人という小さな器へ、海そのものを流し込まれているような感覚。
「ぐっ……あああああああ!!」
『耐えろ』
「簡単に……言うな……!」
骨が軋む。
血が沸騰する。
視界が黒く染まる。
その中で。
声が響いた。
『汝、一ノ瀬遥人』
ルシファーの声。
先ほどまでとは違う。
世界そのものへ告げるような声だった。
『我、明星を背負いし者』
遥人の胸に黒い紋様が浮かぶ。
『天より堕ち』
一枚。
黒翼が広がる。
『神に背き』
二枚。
『傲慢を冠し』
三枚。
『魔を統べる者』
遥人の身体から黒い光が溢れ出す。
『我が名はルシファー』
黄金の瞳が遥人を見据えた。
『我が力を汝へ』
遥人も。
その瞳を見返した。
「俺は――」
息を吸う。
「一ノ瀬遥人」
胸の奥で何かが繋がった。
「お前の力を借りる」
ルシファーが笑った。
『――契約成立だ』
◇ ◇ ◇
時間が動き出した。
「遥人!!」
朱音の叫びが響く。
地面に倒れていた遥人。
その胸には、天使の光によって開けられた致命傷。
大量の血。
どう見ても助からない。
「嫌……」
朱音の手が震える。
「嫌……嫌……!」
フェニックスが傷ついた身体を起こそうとする。
教官たちが走ってくる。
しかし。
天使は待たない。
白い翼を広げる。
右手に再び光が集まった。
狙いは朱音。
「っ……!」
フェニックスが前へ出ようとする。
だが。
間に合わない。
天使が腕を振り下ろした。
光が放たれる。
その瞬間。
――黒。
朱音の視界が黒く染まった。
「……え?」
白い光が。
消えた。
いや。
飲み込まれた。
黒い炎に。
「…………」
朱音は目を見開いた。
目の前に。
誰かが立っている。
見慣れた背中。
「……遥人?」
返事はない。
「遥……人……?」
確かに。
胸を貫かれた。
見間違えるはずがない。
なのに。
一ノ瀬遥人は立っていた。
胸の傷が――消えている。
制服には血が残っている。
だが。
身体には傷一つない。
「ふぅ……」
遥人が息を吐く。
そして。
「……生きてる」
自分の胸を触った。
「本当に治ってる……」
『当然だ』
頭の中に声が響く。
「うおっ!?」
遥人が周囲を見る。
「どこだ!?」
『頭の中だ。いちいち騒ぐな』
「先に言え!」
『契約とはそういうものだ』
「知らねぇよ、初めてなんだから!」
朱音は呆然とその光景を見ていた。
「遥人……誰と喋ってるの?」
「あ」
遥人が固まった。
「いや……その……」
天使が動いた。
「遥人!」
「っ!」
遥人が振り向く。
天使の姿が消える。
次の瞬間。
目の前。
「速――」
拳が迫る。
死ぬ。
そう思った。
だが。
『右だ』
ルシファーの声。
遥人は反射的に右へ身体を傾けた。
――轟ッ!!
天使の拳が頬の横を通過する。
衝撃だけで地面が吹き飛んだ。
「うおおお!?」
遥人は転がる。
『無様だな』
「初戦闘なんだよ!」
『言い訳か?』
「じゃあ代われ!」
『断る』
「なんでだよ!」
『貴様の戦いだからだ』
天使が再び迫る。
「くそっ!」
遥人は拳を構える。
『力を込めろ』
「どこに!?」
『全身だ』
「雑すぎるだろ!」
『なら死ぬか?』
「やるよ!」
遥人は地面を蹴った。
――ドン!!
「え?」
地面が爆発した。
遥人の身体が一瞬で天使の目前へ到達する。
「速っ!?」
自分自身が一番驚いた。
『殴れ』
「お、おう!」
遥人は拳を振るう。
天使が腕で防ぐ。
瞬間。
――轟ッ!!!
天使の身体が吹き飛んだ。
校庭を横断し。
建物の壁へ激突する。
「…………」
静寂。
遥人が拳を見る。
朱音が遥人を見る。
教官たちも遥人を見る。
「……俺がやった?」
『他に誰がいる』
「いやいやいや」
遥人は自分の拳を見る。
「ちょっと待て」
天使が瓦礫から立ち上がる。
無傷ではない。
右腕が不自然に曲がっている。
遥人の拳。
たった一発で。
天使に――傷を負わせた。
「……マジかよ」
心臓が高鳴る。
今まで何もできなかった。
朱音が戦っていても。
誰かが危険でも。
自分には何もなかった。
でも。
今は違う。
戦える。
「ルシファー」
『なんだ』
「力、貸してくれ」
一瞬。
沈黙。
そして。
ルシファーが笑った。
『――最初からそのつもりだ』
黒い炎が遥人の右腕を包む。
熱くない。
むしろ。
身体に馴染む。
まるで最初からそこにあったように。
天使が遥人を見る。
初めて。
その無機質だった顔に変化が生まれた。
「……?」
天使の瞳が。
遥人ではなく。
遥人の背後を見ている。
否。
遥人の中にいる存在を見ている。
そして。
天使が口を開いた。
「――その力」
遥人が目を見開く。
天使が。
喋った。
「知っている」
朱音の表情が変わる。
「遥人……」
天使の瞳が僅かに揺れる。
「その炎」
黒炎が燃え上がる。
「その気配」
天使が。
一歩――後退した。
「あり得ない」
明確な動揺。
そして。
その口から。
一つの名が零れた。
「――ルシファー」
空気が凍った。
「…………え?」
朱音の声。
教官たちの表情が変わる。
フェニックスが。
遥人を見る。
否。
遥人の中にいる何かを見る。
そして――
頭を垂れた。
「……フェニックス?」
朱音が呟く。
ソロモン七十二柱。
第37魔神フェニックスが。
まるで王を前にした臣下のように。
遥人へ向かって頭を下げている。
『ほう』
ルシファーの声。
『久しいな、フェニックス』
フェニックスが低く鳴く。
遥人の背後。
誰にも見えないはずの六枚の黒翼が。
一瞬だけ――世界へ浮かび上がった。
教官の一人が震える声で呟いた。
「そんな……」
誰も動けない。
「あり得ない……」
その視線の先。
二十七回。
下級悪魔一体とすら契約できなかった少年。
未契約者《アンダーコンタクト》。
落ちこぼれ。
異常者。
そう呼ばれてきた一ノ瀬遥人が立っている。
そして。
その契約悪魔は。
悪魔の王。
堕天の王。
七つの大罪――《傲慢》。
**ルシファー。**
遥人はそんな周囲の反応を見ながら。
一人だけ別のことを考えていた。
「……これ」
自分を指差す。
「めちゃくちゃ大事になってない?」
『今さら気づいたか』
「お前、悪魔の王なんだよな?」
『先ほどからそう言っている』
「…………」
遥人は頭を抱えた。
「契約する前に、もうちょっと考えればよかった……」
『ほう?』
ルシファーの声が低くなる。
『私との契約が不満か?』
「そういう意味じゃねぇよ!」
黒炎がさらに燃え上がる。
そして。
目の前では。
天使が再び光を集め始めていた。
戦いは――
まだ終わっていない。