天使の掌に、白い光が集まる。
空気が震えた。
「……まだやる気かよ」
一ノ瀬遥人は右腕を構える。
黒い炎が拳を包んでいた。
つい数分前まで。
自分には何もなかった。
契約悪魔も。
戦う力も。
天使に対抗する術も。
それが今では――
『来るぞ』
頭の中にルシファーの声が響く。
「分かってる!」
天使が腕を振る。
光が放たれた。
「っ!」
遥人は地面を蹴った。
――ドン!
一瞬で身体が加速する。
光が遥人のいた場所を貫き、校庭を抉った。
「うおっ……!」
速い。
自分の身体なのに、感覚が追いつかない。
『無駄に力を使うな』
「そんなこと言われても!」
着地。
勢いを殺せない。
「止まれ――!」
――ズザザザザッ!
遥人は地面を滑った。
『酷いな』
「うるさい!」
『今の動きで必要な力は三割程度だ』
「先に言え!」
『聞かなかっただろう』
「戦闘中に聞けるか!」
「遥人!」
朱音の声。
遥人が振り向く。
「前!」
「え?」
天使がいた。
「――っ!」
腹部へ蹴り。
遥人は咄嗟に腕を交差させる。
――ドォン!!
「ぐっ!」
身体が吹き飛ぶ。
地面を何度も転がる。
「いってぇ……!」
『受けるな』
「それができたら苦労しねぇよ!」
遥人は立ち上がる。
腕が痺れている。
だが。
折れていない。
「……マジか」
あれだけの一撃を受けたのに。
動ける。
『私との契約によって、貴様の肉体そのものが強化されている』
「そういうのは最初に説明してくれ!」
『説明書でも欲しいのか?』
「あるならくれ!」
『ない』
「だろうな!」
天使が再び迫る。
遥人は構えた。
今度は見る。
右。
フェイント。
左から拳。
「っ!」
避ける。
天使の拳が鼻先を掠めた。
遥人は懐へ入る。
「――そこ!」
黒炎を纏った拳を腹部へ叩き込んだ。
――轟!!
天使が吹き飛ぶ。
しかし。
今度は空中で翼を広げた。
止まる。
「やっぱ飛べるのずるくない?」
『貴様も飛べばいい』
「は?」
『翼を出せ』
「出せんの!?」
『私の契約者だぞ』
「どうやって!?」
『感覚だ』
「またそれかよ!」
遥人は背中へ意識を集中する。
「翼……翼……!」
何も起きない。
『…………』
「黙るな!」
『まさか、ここまで下手とは』
「今日契約したばっかなんだよ!」
その時。
天使が両手を広げた。
周囲に光球が出現する。
一つ。
二つ。
五つ。
十。
「……あれ、まずくない?」
『まずいな』
「軽いな!」
光球が一斉に遥人へ向く。
『避けろ』
「それしか言わねぇな、お前!」
無数の光が降り注いだ。
「遥人!」
朱音がフェニックスを動かそうとする。
だが。
『来るな!』
声が響いた。
朱音が止まる。
遥人ではない。
遥人を通して響いた――ルシファーの声。
『これは我が契約者の戦いだ』
フェニックスが動きを止める。
「でも!」
『案ずるな』
その声音には。
絶対的な自信があった。
『あの程度で死ぬような者を、私は選んでいない』
光が遥人を飲み込んだ。
――轟轟轟轟轟!!
爆発が連続する。
校庭が崩れる。
土煙が立ち上った。
「遥人!」
朱音が叫ぶ。
静寂。
そして。
「……痛ってぇ」
「!」
土煙の中。
遥人が立っていた。
制服はボロボロ。
身体には傷。
しかし。
生きている。
その周囲を。
黒い炎が覆っていた。
「……これ」
遥人が黒炎を見る。
自分で出した。
さっきまでと違う。
ルシファーに言われたからではない。
殺される。
そう思った瞬間。
身体の奥底から何かが溢れた。
怒り。
恐怖。
悔しさ。
――死にたくない。
――負けたくない。
――朱音を守りたい。
感情が燃料となり。
炎になった。
『ようやく掴んだか』
ルシファーが笑う。
「これが……お前の能力?」
『一部だ』
「一部?」
『今の貴様には、それで十分だ』
遥人の周囲で黒炎が激しく燃え上がる。
『その炎は――《憤怒》』
「憤怒……」
『怒りを燃やせ』
ルシファーの声が低くなる。
『感情を力へ変えろ』
遥人は天使を見る。
恐怖はある。
でも。
それ以上に。
腹が立っていた。
突然現れて。
人を襲って。
朱音を傷つけて。
自分まで殺しかけた。
「……勝手なことしやがって」
黒炎が大きくなる。
天使が遥人を見る。
「その炎……」
再び。
天使の表情に動揺が浮かぶ。
「サタン……」
「……サタン?」
遥人が眉を寄せる。
『気にするな』
「いや今、明らかに重要そうな名前――」
『前を見ろ』
「あとで絶対聞くからな!」
天使が上空へ飛ぶ。
巨大な光が集まり始める。
今までとは違う。
空そのものが白く染まっていく。
「……あれは?」
『《暁光》だ』
ルシファーの声から。
初めて。
僅かに笑みが消えた。
『天使どもが使う生命簒奪の光』
「生命……」
遥人は息を呑む。
『直撃すれば、今の貴様では耐えられん』
「じゃあどうする」
『簡単だ』
ルシファーは答える。
『撃たれる前に殺せ』
「……分かりやすくて助かるよ!」
遥人は腰を落とした。
右拳へ黒炎を集める。
『力を一点へ集めろ』
「こうか?」
『もっとだ』
炎が圧縮される。
右腕が悲鳴を上げる。
「ぐっ……!」
『耐えろ』
「簡単に言いやがって……!」
『王の力を使うのだ。その程度の代償は払え』
「……上等!」
黒炎が右拳へ収束した。
天使も《暁光》を完成させる。
「人間」
天使が遥人を見る。
「堕天者に魅入られし者」
光が輝く。
「ここで――消えろ」
白い光が放たれた。
同時に。
遥人が地面を蹴った。
「――うおおおおおお!!」
黒と白。
二つの力が正面から激突する。
「遥人!」
朱音が叫ぶ。
押される。
「ぐっ……!」
白い光が迫る。
強い。
これが天使。
人類を百年間苦しめ続けてきた存在。
でも。
『どうした?』
ルシファーの声。
『その程度か、一ノ瀬遥人』
「……っ」
『私を選んだのだろう?』
違う。
俺が選ばれた。
でも。
最後に手を取ったのは――俺だ。
「そう……だったな!」
黒炎が膨れ上がる。
「俺は――!」
遥人が踏み込む。
「悪魔の王の契約者だ!!」
黒炎が《暁光》を押し返す。
天使の目が見開かれる。
「馬鹿な――」
白い光に亀裂が入る。
そして。
砕けた。
遥人が光を突き抜ける。
天使の目前。
「これで――!」
拳を振り抜く。
「終わりだぁぁぁ!!」
黒炎が天使を飲み込んだ。
――轟ッ!!!
空が黒く染まった。
天使の身体が地面へ叩きつけられる。
巨大なクレーター。
その中心。
天使は――動かなかった。
静寂。
黒炎が消えていく。
遥人は地面へ着地する。
「…………」
数秒。
誰も喋らない。
「……勝った?」
『ああ』
ルシファーが答えた。
『貴様の勝ちだ』
「…………」
遥人は拳を見る。
生まれて初めて。
天使と戦った。
生まれて初めて。
契約悪魔の力を使った。
そして。
勝った。
「遥人!」
「うおっ!?」
朱音が飛びついてきた。
「ちょ、朱音!?」
「馬鹿!」
「え?」
「馬鹿馬鹿馬鹿!」
胸を何度も叩かれる。
「痛い! 戦闘より痛い!」
「死んだと思った!」
朱音の声が震えていた。
「目の前で胸を貫かれて……!」
「…………」
遥人は何も言えなくなった。
朱音の肩が震えている。
「……悪かった」
「本当に……」
朱音が遥人の制服を掴む。
「もう二度と……あんなことしないで」
「……努力します」
「約束して」
「…………善処します」
「遥人?」
「約束します!」
その時。
『情けないな』
ルシファーの声。
「うるさい」
「え?」
「いや、こっちの話」
朱音が遥人を見る。
「……そういえば」
嫌な予感。
朱音が笑った。
「色々、聞きたいことがあるんだけど?」
「…………」
「二十七回契約できなかった遥人が、どうして突然契約できたのか」
「えーっと」
「しかも」
朱音の笑顔が深くなる。
「相手がどうして――ルシファーなのか」
「…………」
逃げたい。
天使と戦った時より。
遥人は今。
遥かに恐怖を感じていた。
◇ ◇ ◇
同時刻。
対天使国際連合――
**AEGIS《イージス》。**
日本支部。
「失礼します!」
一人の職員が部屋へ飛び込んだ。
「緊急報告です!」
端末が机へ置かれる。
「契約者育成学校で発生した天使襲撃事件について、異常事態を確認!」
「異常事態?」
「はい」
職員の顔が青ざめていた。
「学生一名が天使を撃破しました」
室内が静かになる。
「学生が?」
「契約悪魔は?」
職員は答えない。
いや。
答えられない。
「どうした?」
「それが……」
震える手で映像を再生する。
そこには。
黒炎を纏う少年。
そして。
その背後に一瞬だけ映った。
六枚の黒翼。
「…………」
誰かが椅子から立ち上がった。
「これは……」
「解析班による照合結果――」
職員が息を呑む。
「一致率、九十九・九八パーセント」
画面に名前が表示される。
**契約悪魔推定――LUCIFER**
「……馬鹿な」
「ルシファーは長い間、人間との契約を拒絶していたはずだ」
「契約者の名前は?」
職員が資料を開く。
そこには。
一人の少年の顔写真。
「一ノ瀬遥人」
そして。
次の項目を読み上げた瞬間。
室内の空気が変わった。
「契約履歴――なし」
「……なし?」
「はい」
「本日まで――」
職員が答える。
「未契約者《アンダーコンタクト》でした」
沈黙。
その時。
部屋の奥から。
静かな声がした。
「面白いね」
全員が振り向く。
一人の男が映像を見ていた。
その視線は。
黒炎でも。
天使でも。
ルシファーの翼でもない。
ただ。
一ノ瀬遥人だけを見ている。
「二十七回の契約失敗」
男が呟く。
「そして二十八回目ではなく――死の直前にルシファー本人が現れた」
口元に。
僅かな笑みが浮かぶ。
「偶然と考えるには、少し出来すぎている」
職員が尋ねる。
「どうしますか?」
男は立ち上がった。
「決まっている」
映像を止める。
画面には。
黒炎を纏った遥人が映っている。
「一ノ瀬遥人」
その名を。
まるで覚えるように呟いた。
「――一度、直接会ってみよう」