天使襲撃事件から――翌日。
一ノ瀬遥人は、人生で初めて学校へ行きたくないと思っていた。
「…………」
校門の前。
遥人は立ち尽くしていた。
普段なら何も考えず通り抜ける場所。
なのに今日は。
「……帰ろうかな」
『何故だ』
頭の中に声が響く。
「お前のせいだよ」
『心外だな』
「どこがだよ」
昨日。
二十七回もの契約失敗を経験した遥人は、ついに悪魔と契約した。
普通なら喜ばしい。
ようやく未契約者《アンダーコンタクト》卒業。
これから契約者として学校生活を送れる。
――そのはずだった。
問題は。
契約相手。
『たかが私と契約した程度ではないか』
「その『たかが』がおかしいんだよ!」
近くを歩いていた生徒がビクッとする。
遥人は慌てて口を閉じた。
「……頭の中で喋ればいいのか?」
『最初からそうしろ』
(できるなら教えろよ!)
『聞かなかった』
(便利な言葉だな、それ!)
ルシファー。
堕天の王。
七つの大罪――《傲慢》。
悪魔の頂点に立つ存在。
そんな悪魔と。
学校一の落ちこぼれが契約した。
噂にならないはずがない。
遥人は意を決して校門をくぐる。
その瞬間。
「…………」
視線。
「…………」
視線。
「…………」
視線。
全員が見ている。
「一ノ瀬だ……」
「あれが?」
「昨日の映像見た?」
「見た見た」
「マジでルシファーなの?」
「フェニックスが頭下げたらしいぞ」
「二十七回契約失敗してた奴だよな?」
「意味分かんねぇ……」
遥人は歩く。
ひたすら歩く。
聞こえない。
何も聞こえない。
そう自分に言い聞かせる。
「ねえ一ノ瀬君!」
「うおっ!?」
女子生徒が突然前へ出てきた。
「契約悪魔、本当にルシファーなの!?」
「え、あ、まあ……」
「召喚して見せて!」
「無理!」
「なんで!?」
「俺もやり方知らないから!」
「え?」
「俺が聞きたい!」
逃げる。
「待って!」
さらに別の生徒。
「一ノ瀬!」
「昨日どうやって天使倒したんだ!?」
「黒い炎って何!?」
「ルシファーってどんな奴!?」
「七つの大罪と契約するとどんな感じ!?」
「うわあああああ!!」
遥人は走った。
『人気者だな』
(誰のせいだ!)
『貴様の実力だろう』
(九割お前の名前だよ!)
◇ ◇ ◇
「……疲れた」
教室。
遥人は机へ突っ伏していた。
まだ一時間目すら始まっていない。
「お疲れ」
隣から声。
「……朱音」
九条朱音が笑っている。
「楽しそうだな」
「ちょっとだけ」
「幼馴染が苦しんでるぞ」
「昨日私を置いて天使に突っ込んでいった罰」
「根に持ってる!?」
「当たり前でしょ」
朱音は遥人の隣へ座る。
そして。
「それで?」
「……何が?」
「昨日の続き」
笑顔。
だが。
目が笑っていない。
「遥人がルシファーと契約した理由」
「…………」
「まだ聞いてない」
「いや、俺もよく分かってないんだよ」
「へぇ?」
「本当に!」
遥人は慌てて説明する。
「俺が天使にやられて、気づいたら変な場所にいて!」
『変な場所とは失礼な』
(黙ってて)
「そこにルシファーがいて」
「うん」
「契約するかって言われて」
「うん」
「死にたくなかったから契約した」
「…………」
「以上」
「短い」
「本当にこれだけなんだって!」
朱音がじっと遥人を見る。
「二十七回契約できなかった理由は?」
「それは……」
遥人は言いづらそうに視線を逸らす。
「……ルシファーが妨害してたらしい」
「…………え?」
「他の悪魔と契約できないようにしてたって」
沈黙。
「なんで?」
「知らん」
『気に入らんな』
突然。
ルシファーの声が響いた。
今度は遥人の頭の中だけではない。
「え?」
朱音が周囲を見る。
「今の声……」
遥人の影が揺れる。
黒い炎が僅かに立ち上った。
『我が契約者を他の悪魔に渡す理由がない』
朱音の目が見開かれる。
「ルシファー……?」
『九条朱音か』
「私を知ってるの?」
『当然だ』
遥人が眉を寄せる。
「おい」
『なんだ』
「なんで朱音の名前まで知ってんだ」
『貴様を見ていたと言っただろう』
「……どこまで?」
沈黙。
「ルシファー?」
『…………』
「おい」
『些細なことだ』
「絶対なんか隠しただろ!」
朱音が小さく笑う。
「本当に契約してるんだね」
「疑ってたのかよ」
「昨日は色々ありすぎたから」
朱音の表情が柔らかくなる。
「でも」
遥人を見る。
「よかった」
「何が?」
「遥人が契約できて」
「…………」
「ずっと頑張ってたの知ってるから」
遥人は少しだけ黙った。
「……ありがとな」
朱音が微笑む。
その時。
『一ノ瀬遥人』
校内放送。
『至急、学園長室へ来るように』
「…………」
遥人の顔が引きつる。
「なんかやった?」
朱音が聞く。
「昨日天使倒した」
「ああ」
「それ以外は何もしてない」
『覚悟しておけ』
ルシファーが言う。
「何の!?」
『面倒事だ』
「お前が言うと洒落にならないんだけど!?」
◇ ◇ ◇
学園長室。
「失礼します」
遥人が扉を開ける。
「来たか」
学園長が座っていた。
その隣には教官。
そして。
見知らぬ男が一人。
黒いスーツ。
年齢は二十代後半ほど。
整った黒髪。
穏やかな表情。
男は遥人を見る。
ただそれだけ。
なのに。
遥人は妙な感覚を覚えた。
見られている。
顔ではない。
服でもない。
もっと深いところ。
思考。
癖。
呼吸。
視線。
自分という人間そのものを観察されているような――
「初めまして」
男が微笑んだ。
「一ノ瀬遥人君」
「……初めまして」
「そんなに警戒しなくていい」
「してませんけど」
「嘘だね」
即答。
「入室してから右足を半歩後ろに置いている。何かあればすぐ動ける位置だ。視線も僕、学園長、窓、扉の順で動いた」
「…………」
「昨日、天使と戦った影響かな。悪くない変化だ」
遥人は男を見る。
なんだ。
こいつ。
『気をつけろ』
ルシファーの声。
珍しい。
普段なら何でも余裕そうに話すルシファーが。
明確に警戒している。
(知ってるのか?)
『いや』
一拍。
『だが、よく見る男だ』
遥人には意味が分からなかった。
男が立ち上がる。
「自己紹介がまだだったね」
胸元から身分証を取り出す。
そこに刻まれた紋章。
盾。
その中心に描かれた翼と角。
遥人も知っている。
対天使国際連合。
**AEGIS《イージス》。**
天使との戦争において世界各国の契約者を統括する国際組織。
「AEGIS日本支部所属」
男が続ける。
「契約者階級――S級」
遥人の表情が変わる。
「S級……」
学生とは次元が違う。
天使との実戦を前提として認定される最高峰の契約者。
「そして」
男が遥人へ手を差し出した。
「契約悪魔――ベリアル」
遥人の頭の中で。
ルシファーが小さく笑った。
『なるほど』
「……?」
『面白い』
遥人には。
何が面白いのか分からない。
ただ。
本能的に感じた。
この男は。
今まで会った人間とは――何かが違う。
「御影慧」
男は名乗った。
「よろしく、一ノ瀬君」
遥人はその手を見る。
そして。
ゆっくり握った。
「一ノ瀬遥人です」
「知っているよ」
御影は笑う。
「昨日から、君の資料を随分読ませてもらった」
「……俺の?」
「二十七回の契約失敗」
御影の瞳が遥人を見る。
「ルシファーとの契約」
一瞬。
遥人には。
御影の目が――自分ではない何かを見たように感じた。
「そして」
御影の笑みが僅かに深くなる。
「天使を撃破した、未知の黒炎」
『…………』
ルシファーが黙った。
「今日は」
御影が言う。
「君をAEGIS本部へ招待するために来た」
「……俺を?」
「ああ」
御影は頷く。
「世界中が知りたがっている」
穏やかな声。
「百年間、人間との正式な契約が確認されていなかった悪魔の王が――」
遥人を見る。
「なぜ、一人の学生を選んだのか」
沈黙。
そして。
御影は続けた。
「それに」
一瞬。
その視線が鋭くなる。
「僕個人としても――君には興味がある」
遥人の背筋に。
僅かな寒気が走った。
その頃。
遥人はまだ知らなかった。
目の前にいる男。
S級契約者――御影慧。
その契約悪魔ベリアルが持つ能力。
そして。
御影本人の異常な観察力が組み合わさった時。
それが。
どれほど恐ろしい力になるのかを。