翌朝。
午前五時。
「…………」
一ノ瀬遥人は学校の訓練場に立っていた。
眠い。
ものすごく眠い。
「……なあ」
『なんだ』
「なんで五時?」
『修行するのだろう?』
「したいって言ったけど!」
遥人は空を指差した。
「まだ太陽すらやる気出してないぞ!?」
『太陽に合わせる必要があるのか?』
「人間には睡眠ってものがあるんだよ!」
『知っている』
「なら寝かせろ!」
『断る』
「鬼!」
『悪魔だ』
「そうだった!」
遥人は頭を抱えた。
昨日。
AEGISで自分の実力を測定した。
結果――暫定B級。
契約初日の学生としては異常な評価。
しかし。
御影慧に言われた。
――ルシファーが強いから君も強い。
――でも、君自身が強いわけじゃない。
悔しかった。
だから。
強くなりたいと言った。
その結果。
午前五時。
「……自分で言ったから仕方ないか」
遥人は頬を叩く。
「よし!」
前を見る。
「やろう」
『ようやくか』
黒い炎が揺らめいた。
そして。
遥人の前に。
一人の男が現れる。
黒髪。
黄金の瞳。
六枚の黒翼。
ルシファー。
「おお……!」
遥人が目を丸くする。
「出てこれるんだな」
『当然だ』
「じゃあ今まで頭の中だけで喋ってたの何だったんだよ」
『面倒だった』
「おい」
ルシファーは無視する。
『まず確認する』
「何を?」
『貴様は私の力について、どこまで理解している?』
「黒い炎」
『…………』
「身体能力が上がる」
『…………』
「怪我が治った」
『…………』
「以上」
ルシファーが額を押さえた。
「なんだよ」
『よくそれで契約したな』
「死にかけてたんだから仕方ないだろ!」
『自分が何と契約したのかくらい理解しておけ』
「だから今から教えてくれよ」
『……まあいい』
ルシファーが右手を上げる。
「遥人」
空気が変わった。
『今の貴様が知っておくべき権能は――二つ』
「二つ……」
一本目の指。
『《憤怒》』
黒炎が生まれる。
「それは知ってる」
『感情を力へ変える権能だ』
炎が大きくなる。
『怒り』
さらに。
『憎しみ』
さらに。
『悔しさ』
黒炎が空へ昇る。
『感情が強ければ強いほど、炎も強くなる』
遥人は炎を見る。
「じゃあ、ずっと怒ってれば最強?」
『馬鹿か』
「なんでだよ」
『感情に呑まれれば、力を制御できなくなる』
炎が消える。
『力を使うのではない。力に使われる』
「…………」
遥人は昨日を思い出す。
天使への怒り。
あの時は。
ほとんど勢いだけだった。
『《憤怒》は比較的単純だ』
「これで?」
『ああ』
二本目。
ルシファーの黄金の瞳が輝く。
『《傲慢》』
遥人が少し身を乗り出す。
「どんな能力?」
ルシファーは笑った。
『奪う』
「……え?」
『相手の能力を簒奪する』
沈黙。
「…………」
遥人は数秒考えた。
「それ、反則じゃない?」
『私に言うな』
「どんな能力でも?」
『条件はある』
「条件?」
『今の貴様には必要ない』
「いや教えろよ!」
『使えもしない能力の条件を聞いてどうする』
「使えないの?」
『今はな』
「なんで!?」
ルシファーが遥人の胸を指差す。
『器が足りん』
「器?」
『《傲慢》は私という存在の根幹だ』
黄金の瞳が遥人を見る。
『今の貴様が無理に扱えば――』
笑う。
『壊れるぞ』
遥人が一歩下がった。
「……後回しでお願いします」
『賢明だ』
ルシファーは手を下ろす。
「……つまり今の俺が使えるのは」
『《憤怒》だ』
「黒炎をもっと使いこなせってことか」
『そういうことだ』
遥人は自分の右手を見る。
昨日。
天使との戦いでは。
怒りに任せて力を出した。
御影との模擬戦では。
自由に扱うことすらできなかった。
「……よし」
遥人は拳を握る。
「じゃあ《憤怒》を――」
『その前だ』
「え?」
『走れ』
「…………」
「どこまで?」
『私が止めるまで』
「…………」
嫌な予感。
一時間後。
「はぁ……! はぁ……!」
遥人は走っていた。
「まだ!?」
『まだだ』
「もう二十キロ!」
『だから何だ』
「俺は人間だぞ!」
『私の契約者だ』
「便利に使うなその言葉!」
さらに一時間。
腕立て。
腹筋。
スクワット。
基礎戦闘。
回避。
受け身。
「なんで……!」
拳を避ける。
「能力の……!」
蹴りを避ける。
「修行じゃ……!」
転がる。
「ないんだよ!」
『貴様には基礎がなさすぎる』
ルシファーの拳。
「うわっ!」
遥人が避ける。
『力だけあっても意味がない』
蹴り。
「ぐっ!」
防ぐ。
吹き飛ぶ。
『昨日のS級を忘れたか?』
「…………!」
御影。
ほとんど能力を使わず。
遥人を圧倒した。
『奴は貴様より遅い』
「え?」
『純粋な身体能力なら、今の貴様が上だ』
遥人が目を見開く。
『それでも貴様は触れることすらできなかった』
「…………」
『何故だ?』
答えは分かる。
「……技術」
『それだけではない』
ルシファーが拳を構える。
『経験』
一歩。
『観察』
一歩。
『判断』
そして。
『力を使うタイミング』
拳が飛んでくる。
遥人は。
避けた。
反撃。
ルシファーは簡単に受け止める。
だが。
黄金の瞳が僅かに細くなる。
『今のは悪くない』
「……!」
初めて。
褒められた。
「もう一回!」
『来い』
遥人が踏み込む。
◇ ◇ ◇
それから数時間。
「…………」
遥人は地面に倒れていた。
「動けない……」
『情けない』
「誰のせいだ……」
『貴様の体力不足だ』
「五時間ぶっ続けで動かされたんだぞ……」
空を見る。
もう太陽は高い。
身体中が痛い。
でも。
不思議だった。
「……楽しいな」
『何がだ』
「強くなるの」
昨日まで。
何をしても契約できなかった。
努力しても。
努力しても。
スタートラインにすら立てなかった。
でも今は。
やった分だけ。
少しずつ。
前へ進める。
遥人は拳を空へ伸ばした。
「御影さん」
握る。
「次は絶対、一発入れる」
『目標が低いな』
「最初はそれでいいんだよ」
『なら』
ルシファーが言う。
『明日は三時からだ』
「…………」
遥人がゆっくり顔を向ける。
「朝の?」
『当然だ』
「嫌だぁぁぁぁぁ!!」
◇ ◇ ◇
翌日。
午前二時五十九分。
遥人の部屋。
「すぅ……すぅ……」
熟睡。
そして。
三時。
『起きろ』
「…………」
『遥人』
「…………」
『起きろ』
「あと五分……」
沈黙。
次の瞬間。
――ボッ!
「熱っっっっ!?」
遥人が飛び起きた。
「何してんだお前!」
『三時だ』
「本当に起こす奴があるか!」
『修行するのだろう?』
「昨日の俺を殴りたい!」
制服ではなくジャージへ着替える。
眠い。
身体が痛い。
最悪だ。
それでも。
遥人は少し笑っていた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
遠く離れた場所。
AEGIS中央本部。
「一ノ瀬遥人……」
ヴィヴィアン・グレイは端末を眺めていた。
昨日送られてきた戦闘映像。
何度見ても。
目が離せない。
黒炎。
天使を殴り飛ばす少年。
その背後。
一瞬だけ現れる六枚の黒翼。
『随分気になるみたいだね』
声がする。
「ええ」
『あの子みたいになりたい?』
ヴィヴィアンは少し考える。
「まだ」
画面を閉じる。
「だって彼」
微笑む。
「まだ弱いもの」
『酷いなぁ』
「事実でしょう?」
ヴィヴィアンは立ち上がる。
その胸元。
他の契約者とは違う紋章がある。
Fでも。
Eでも。
Dでも。
Cでも。
Bでも。
Aでも。
Sでもない。
**冠位。**
世界最高峰の契約者にのみ許された称号。
「でも」
ヴィヴィアンは窓の外を見る。
「いつか」
少しだけ。
楽しそうに笑う。
「私が嫉妬するくらい強くなったら――」
背後。
巨大な魔力が揺れた。
深海。
大蛇。
龍。
そのどれとも形容できない巨大な影。
七つの大罪。
《嫉妬》。
**レヴィアタン。**
『なったら?』
ヴィヴィアンは答える。
「その時は――同じ場所まで行ってあげる」
◇ ◇ ◇
そして。
遥人の修行開始から数日後。
AEGIS日本支部。
御影慧の端末に。
一件の通知が届いた。
「……ん?」
内容を確認する。
御影の表情が。
僅かに変わった。
『どうした?』
ベリアルが尋ねる。
御影は画面を見ながら答える。
「天使の死体の解析結果が出た」
『あの学校を襲った?』
「ああ」
一ノ瀬遥人が倒した天使。
その解析。
「妙だな」
『何が?』
御影の目が細くなる。
「この天使」
画面を拡大する。
そこには。
一つの結果。
**推定侵入目的――不明。**
そして。
体内から検出された。
特殊な反応。
御影が呟く。
「戦闘目的で来たんじゃない」
『じゃあ?』
御影は黙る。
思い出す。
天使が向かった場所。
契約者育成学校。
そして。
そこにいた。
契約できない少年。
「…………」
御影は。
一つの仮説へ辿り着く。
だが。
まだ口にはしなかった。
ただ。
端末に映る少年の写真を見る。
一ノ瀬遥人。
「まさか」
御影が呟いた。
「最初から――君を探していたのか?」