夏休みのある日、僕と正樹は虫取りに出かけた。
そして…
はっと気がつくと辺りは暗闇に包まれていた。
見上げるとぽっかりと空いた穴から、月が覗いていた。
どうやら眠ってしまっていた様だ。
ここから夜空を眺めるのは2度目だ。
つまり、僕と正樹がこの洞穴に落ちてから2日経った事になる。
数メートル上にあるたった一つの入り口から入ってくる光以外に灯りはない。
僕達が落ちてしまったこの洞穴は、大きな木の根元にあった。
数十センチ位の横幅でひと1人がなんとか出入りできる位の大きさしか無かった。
どうして僕達は入ろうだなんて思ってしまったのだろう…
僕と正樹は小学校に入ってすぐに友達になった。
僕も正樹も今どき珍しいと言われる程、外遊びが好きだった。
もちろん、低学年までは外で遊ぶ友達もそれなりにいた。
だけど、高学年に近づいていくほど、彼らはゲームで遊ぶ様になった。
学校の休み時間ならともかく、家に帰ってからはもうゲームしかしていないのではないかな。
僕達は違った。
僕も正樹も小学校高学年になっても、ゲーム機などには興味を示さなかった。
外に出て、山の中を探検したり、虫を捕まえて大きさを競ったり、そう言った遊びばかりしていた。
そして、今年の夏は小学生としての最後の夏休みだった。
僕と正樹はいつもの様に一緒に虫取り網と虫籠を持って出かけた。
お父さんやお母さんが子供の頃より、ずっと暑くなったらしい今の夏の日差しも僕達にとっては何てことはない。
最後の夏休みという事もあってか、僕達のテンションはいつもより高くなっていた。
「ねぇ、いつもの山とは違う所に行こうよ」
僕より足の速い正樹は、麦わら帽子が風に飛ばされない様にしながら、僕の方を振り返りながら言った。
「良いけど、どこに行くの?」
僕は立ち止まって頭の中にこの辺り一帯の地図を書き起こした。
「折角だからさぁ、ボタ山に行こうよ」
正樹の言うボタ山は、お父さん達や学校の先生に入ってはいけないと言われている場所だった。
ボタ山というのは、石炭を使っていた時代に炭鉱を掘って出てきた、いらない物を積み重ねてできた人口の山だと学校の授業で教わった。
この地域は、その昔炭鉱で栄えたという事で小さなボタ山が沢山あった。
しかし、正樹が言っているのはこの地域にあるボタ山で一番大きな山のことだ。
炭鉱があったのは昔の事なので、今はとっくに普通の山と見分けがつかず、授業で教わった時も半信半疑だったものだ。
とにかく、あの時の僕達はボタ山に行く事を決めた。
ボタ山はやはり木々が生い茂っていて、普通の山と殆ど変わらなかった。
セミの鳴き声が騒がしく鳴り響き、大きな甲虫の羽音がその大合唱の中に時折加わった。
僕達はどんどん奥の方へと進んでいった。
この山は昔、何人かの死体が見つかったという事件があったので、殆どの人が寄りつかない。
そもそも、今時の子供は夏にわざわざ観光になる様な場所でもない山に登ろうなどとは思わない。
だからこそ、僕達の様な例外にとっては大きな虫を捕まえるのに絶好の場所だった。
そして、あの大きな木を見つけたんだ…
「すげー、何メートルあるのかな?」
正樹が虫取り網を持ち上げて、その高さと比較しながら言った。
大木は夏真っ盛りなのに、一枚の葉も身につけてなかった。
「えっと…1メートルの定規がこれ位だったから…」
僕は正樹の隣に立って、授業で使った1メートル定規の長さを思い出しながら、手で1メートルの間隔を作り、木の大きさを測ろうとした。
しかし、上にいくほど正確に測れない事に気づいてすぐに諦めた。
「ねぇ、見て!この木の真下、洞穴があるみたいだ!」
正樹は根元を指差して叫んだ。
その指の先には確かに数十センチ幅の穴があった。
中は暗く、殆ど何も見えないのでどれ位の深さなのかも分からなかった。
「ねぇ、中に入ってみたくない?」
2人で中を覗いていると、唐突に正樹がそう言い出した。
「嫌だよ、底なしだったりして出られなくなったらどうすんだよ」
「底なしな訳ないよ。どんな穴にも終わりはあるだろ」
「でも、自力で出られなかったら底なしと一緒じゃないか」
僕はムキになって言い返した。
「じゃあさ、どっちか片方だけ残るのはどう?」
「どっちが残るんだよ、僕は嫌だぞ」
「そりゃあ、もちろんジャンケンで決めるんだよ」
正樹はしたり顔で言った。
僕はジャンケンが弱かった。
「嫌だよ、言い出しっぺなんだから正樹が行けよ!言い出しっぺの法則だぞ」
「僕は別に良いけど、実際危険そうではあるよな」
もう一度、洞穴の中を覗き込みながら正樹は言った。
「じゃあ、ヒモでも結んで命綱にする?」
「ヒモなんて近くにあるの?」
僕達は一旦、ヒモを探し始めたが結局どこにもヒモに使えそうなものは無かった。
結局、命綱は諦めて僕達は正々堂々とジャンケンをした。
そして、僕は負けた。
「落ちそうになったら、すぐ助けを呼んでくるからね」
正樹は笑いながら言った。
「どれ位深いかだけ確認したらすぐに戻るから」
僕は下半身をゆっくりと洞穴の中に降ろしながら不貞腐れていた。
「ま、僕もそこしか興味ないから別に良いよ」
正樹はふと僕から視線を外して空を見上げた。
「あ、トンビ」
正樹がそう呟いた瞬間、僕が足をかけていた出っ張りが急に崩れた。
僕は反射的に何かにしがみつこうとして、目の前にある正樹の足に手を伸ばした。
「うわっ!?」
正樹の驚いた声が耳に届くのとほぼ同時に僕達は暗闇の中に放り出された。
そして、もつれ合って落ちた先で僕の口の中に砂利と鉄の味がする液体が入ってきた。
この洞穴に落ちて2日目の夜となった今、僕達は途方に暮れていた。
僕は立ち上がって、落ちてきた壁面に手を当てて出口を見上げていた。
一方、正樹はずっと片足を伸ばしたままで座り続けている。
昨日までは伸ばした方の片足にばっくりと開いた傷口から血が出ていた。
既に血は止まってはいたが、正樹の怪我は相当に深いものの様で立ち上がる事も出来ない様だった。
そして、今も洞穴の中は血の匂いが漂っていた。
「流石に2日も帰って来なかったら、警察が探し出してるよね」
僕は少しでも良い状況を想像したくてそう言った。
「どうかな、2日経ってはいるけどここに来るまでにどれだけかかるか…」
正樹は顔を動かさずに淡々と答えた。
「どうして?警察ならすぐに見つけてくれるんじゃないかな?」
「テレビのドキュメンタリーとかで見た事あるけど、警察は動き出すまでが遅いし、そもそも僕達がここに来ている事を知らないでしょう?」
「どうして?親に話を聞けば…」
「君、親にどこに行くか言って出たの?そもそも、ボタ山に行く事自体後から決めたのに?」
「…そうか、僕達がボタ山に来ている事は僕達しか知らないのか」
正樹は僕より冷静に判断している。
僕は少し考えればわかる事を指摘されて恥ずかしくなった。
「…でもさ、誰かが僕達がボタ山に行く所を見ているかもしれないよ!そしたらさ…」
「そもそも、警察はまず真っ先に誘拐の可能性を疑うんじゃないか?」
「誘拐って…実際にそんな事は起きてないし、そうじゃない事はすぐに分かるはずでしょ?」
「いや、誘拐の可能性を考えながら捜査すると、無意識にそういう前提で証拠を集めがちなんだ」
「でも、誘拐じゃないんだから証拠は集まらないよ」
「例えば、さっき君が言った目撃証言だって、証拠になり得るんだ」
「どうして?誘拐なんかじゃないんだから、誘拐の目撃証言は出て来ないよ」
僕は正樹と話しながらどんどん暗い気持ちになっていった。
「人間の記憶なんて曖昧なものでさ、そうだと思い込んだらそういう記憶が捏造されちゃうんだって」
「そんな…自分の記憶が正しいかどうか位分かるでしょ?」
「人は寝るとその日の記憶の70パーセントは抹消されるって聞いたよ。日が経つほどに記憶は曖昧になっていく」
「忘れたとしても、その記憶が本当かどうかは分かるよ。子供じゃないんだから」
「どうかな、子供より大人の方が覚えておかなくちゃいけない事も多いし、忙しくて見逃している事も多い。いっそ子供の方が記憶力自体は良いんじゃないかな?まぁ、子供の記憶や証言はそれはそれで当てにならないけど」
「…じゃあどうするのさ」
僕は泣きべそをかきながら言った。
「自力で登るしかないかなぁ…」
正樹はしみじみと言った。
既に落ちた時から何度もそれは試しているのだ。
しかし、どんなに良くても出口まで半分ほどしか登れない。
それは体力がどんどん失われているからでもあるし、正樹が片足を大きく怪我してしまっていたからでもあった。
正樹の怪我は僕の責任だった。
僕があの時、正樹の足を掴んでいなければ怪我はもちろん、そもそも僕と一緒に穴に落ちることさえ無かった。
正樹は山から降りて、大人に助けを呼びにいけたのだ。
「…ごめんよ」
「気にしなくていいよ、元はと言えば僕が洞穴の深さを確かめようなんて言わなければすんだ事だし」
「でも、僕のせいで」
僕がそう言った時、外からの光が小さくなっていた。
そして、ぽつぽつと雨の音が洞穴の中を反響する様になった。
雨の音はやがてぽつぽつからざあざあになり、唯一の出入り口から大量の雨水が入ってきた。
流石に、僕や正樹が溺れてしまう様な量ではないが、問題なのは斜面がどんどんぬかるんで登りにくくなっていくだろうという事だ。
「そう言えば…お腹すいたな」
雨に打たれながら僕はそう呟いた。
あれから3度、日が昇り夜が来た。
結局、助けが来るどころか誰かが通りかかる事も無かった。
僕はもう2人とも助からないのだと思っていた。
それでも、正樹は諦めていなかった。
穴に落ちて5日目の夜となった今、這い出るのに最後のチャンスだと正樹は言った。
「もうこれ以上は体力を消耗するだけだ」
「でも、もう既に限界に近いんだよ」
僕は弱気になって言った。
「それに今の君を背負って登るなんてとても…」
「僕の事は気にしなくていい」
僕は最初、正樹の言った事の意味を理解できず、正樹の顔をじっと見つめた。
土と血に汚れた正樹の顔は暗く、正樹が何を考えているかなんて全く読み取れなかった。
それでも、その言葉を反芻すれば自ずと意味は理解できた。
「君を置いて行けないよ」
僕はなんとかそう呟いた。
「大丈夫、君が外に出て助けを呼んでくれればいい」
「今まで助けなんて来なかったのに?」
「それはここを通る人が誰もいなかったからさ。今度は自分から助けを求めに行くんだ」
正樹の声色にははっきりとした決意が宿っていた。
「それでも、君を置いていくなんて…」
「生き残るためには仕方の無いことさ。君があの時そうした様に」
「あの時?あの時っていつの事?」
正樹は僕を見つめてふっと笑った。
「なんでもない。とにかく、君には動けない僕の分まで頑張ってもらわないといけないんだ」
「出来るかな。もう何回も失敗したのに…」
「出来るさ。これが最後のチャンスだ」
僕は体の中に残る力を振り絞って、壁面を登り始めた。
3日前の雨によるぬかるみがまだ残っていたが、それでも僕は身体を擦り付ける様にして踏ん張った。
時折、足場や手を掛けた出っ張りが僕の体重に負けて崩れ落ち、危うく振り出しに戻りそうになった。
少しずつ、ゆっくりと出口に近づきつつあったその時、月が雲間に隠れて何も見えなくなった。
「もうダメだ!」
僕はベソをかいて叫んだ。
「諦めるな!絶対登り切るんだ!」
正樹の声がすぐ後ろから聞こえた。
思わず振り返ったが、正樹も洞穴の中も何も見えない。
「記憶を頼りに先へ進むんだ!」
今度は正樹の声がすぐ隣から聞こえた。
僕は声に導かれるままに、もう一歩踏み出した。
「さぁ、頑張れ!あともう少しだ!」
正樹の声がすぐ耳の近くで聞こえているかの様だ。
いや、正樹の声は確かに僕の頭の中に直接響いていた。
まるで、正樹が僕に力を与えてくれているかの様に。
血と土に塗れた右手が、穴の外の地面に触れた。
僕は最後の力を振り絞って、何とか外に這い出る事が出来た。
僕は振り返って、穴の中の正樹に声を掛けた。
「ありがとう、正樹。君のおかげで僕は外に出れたよ」
「おめでとう、君は自由になったんだ」
正樹の声は僕の中にはっきりと響いた。
「これから僕が大人の人達に助けを呼んでくるよ」
僕は嬉しくなって言った。
「ありがとう、でも無駄だよ」
「どうして?どうして無駄なの?」
「僕はもう助からない」
「どうしてさ?」
「どうしてって…君が僕を食べちゃったからね」
雲が移ろいで再び現れた月が、洞穴の中に光を降り注いだ。
肉が殆ど無くなり、骨だけになった正樹が照らし出された。
正樹の声はもう聞こえない。