生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
湖で優雅に泳ぐ白鳥が、実は足をバタバタさせている……という喩え話があるけれど、一見華やかに見える高級住宅もまた、目に付かない(あるいは見えていても頭に入ってこない)、泥臭い労働によって初めてその美しさを成立させているのだろう。
コバルトに仕事を紹介してもらったシルヴァレッタ。その初日の現場は、先日訪れた高層マンションだった。先輩社員であるケイと名乗った無精髭を生やした男性の下でバックヤードに案内され、トレードマークとなる制服に身を包み、絢爛と広がるエントランスの床清掃の指示を受けてシルヴァレッタは黙々とモップで水拭きを行っていた。
さすがは高級物件なだけあって民度は高く、ゴミが落ちていることはなく、モップ掛けによる水拭き作業が途絶えることはない。すなわち、一つのタスクに集中できるのだ。なるほど、これなら初心者が最初に経験する現場としてはうってつけと言えるだろう。
先輩の指示に従い、エントランスの入り口から壁沿いにグルっと一周。さあ次は何をするのか……、という段取りに入る前に、思わぬ来客が姿を見せた。
「まぁ! ここでお会いするなんて!」
ラピスラズリだ。外から帰ってきた彼女はその甘ったるい声を3人しかいない広々としたエントランスに喧しく響かせる。
いわゆる『朝帰り』なのだろうがその表現には似つかわしくなく、青を基調としたフリフリのゴシックロリータドレスに身を包んで優雅に佇んでいた。彼女は目を輝かせてこちらへ駆け寄ってくる。
「お仕事中ですか? ステキです……」
「あぁ、今日が初日になる」
「初めてですって!?」
「? そうだな」
いやんいやんと頰に手を当てながら身をくねらせる小さな少女。キモ。
「清掃のお仕事なら、あたしのお部屋も頼めるのかしら?」
「ついさっき言ったが、俺は初日なんだ。難しいだろう」
「構いませんわ! 何があっても、いやむしろ——」
「申し訳ないお嬢様。うちはハウスクリーニングは契約外でしてね」
待ったをかけたのは先ほどまで黙って顛末を眺めていた無精髭を生やした先輩社員だった。こういったイレギュラーな事態には慣れっこなのだろう、その身なりに似合わず丁寧な口調で、しかしピシャリと断りの二の句をしっかりと継いだ。
「受付かサポートの電話に仰っていただければ専門業者を手配します。お悩み事はそちらへお願い致します。」
「むぅ……。分かりました。お仕事のお邪魔をしてごめんなさい」
そう言って彼女は素直に引き下がり、エレベーターホールへと向かう。彼女がエレベーターの中に入って少ししたら、ケイはフゥっと深いため息を吐いた。
「どういう仲か知らんが、今は仕事中なのを忘れるなよ。」
「申し訳ない、気が緩んでいたようで」
「そいつは重畳、初日から大物でいてくれて助かるよ」
気兼ねなく仕事を任せられるからな、とケイは言い、箒と塵取りを渡してきた。
「今日は各階の共用廊下をそれで掃いてこい。お前さんなら一人にしても問題なさそうだ」
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「おい、君。うちのリビングのロボット掃除機が急に壊れやがってな。今すぐ部屋に来て、代わりにチャチャッと床を拭いていってくれないか?」
一見するとただの部屋着を身につけているように見えるが、よく目を凝らすとそのどれもが高級品で整えられていた。そんな豪勢な服に身を包んだ若い男性が、こちらに命令するように問いかけてきた。自分の召使いか何かと思い込んでいるような傲慢極まりない要求に対して、シルヴァレッタは作業の手を止め、表情一つ変えずに正面から男を見据えて言葉を返した。
「申し訳ありません。セキュリティの観点から、我々清掃員が住民の専有部分に立ち入ることは規則で固く禁じられております」
一切の感情を交えない、機械のように正確で冷たい拒絶。男は一瞬ぽかんとした後、顔を真っ赤にして声を荒げる。
「……チッ! 融通の利かない、考えなしのマニュアル人間め。誰のおかげで給料が支払われていると思ってるんだ!?」
男は怒りも露わにして不満をぶちまける。しかしシルヴァレッタは動じず冷静に返す。
「大変申し訳ございません」
「そう思うなら行動に移せよ、なぁ?」
「大変申し訳ございません」
「お前はそれしか口に出来ないのか?」
「……」
押し黙るシルヴァレッタ。正解だ。
ここで何を口にしても目の前の男の怒りを買うだけだ。ただ黙って頭を下げ、男の次の行動を待つ。それこそが今できる最善なのだと、ぼくの経験から学んでいたようだ。
「……あぁ、クソがっ!」
そう大声で叫びながら、彼は自身の部屋へと戻り、力任せにドアを叩きつけるように閉めた。
しかし、ロボット掃除機か。ぼくは脳の片隅からぼんやりと思考を巡らせる。
あの男は、ロボット掃除機が壊れたから人間の清掃員を代用品として使おうとした。だが、もし絶対に壊れない、完璧なお掃除ロボットが開発されたらどうなるだろうか。
人間特有の感情も、ミスも、不満も持たないAIによるシステム。それが完成した時、この巨大な高級マンションから「人間の清掃員」という存在は完全に不要になるだろう。いや、清掃業に限らない。社会というシステム全体が、より効率的でミスのないAIへと置き換わっていくのは明白な未来だ。ましてや、先ほどの男のような人間が裕福な立場にいるのなら、尚更だ。
ぼくは安堵した。
社会の歯車にすらなれなかった不良品のぼくは、いずれ真っ先に不要なゴミとして社会から居場所をなくしていただろう。人間社会すべてから「お前に価値はない」と最終宣告を受ける前に、自分からこめかみに銃口を当てて退場した事は、間違いなく大正解だった。ぼくは自分の死を改めて肯定した。
⬛︎◆▲
全ての階の廊下を掃き終えてエントランスに降りると、ケイが腕を組んでこちらを待ち構えていた。
「お疲れさん。何もなかったか?」
「特に、言うほどのことは」
「言うねぇ」
まるで現場を見ていたかのように、ケイはその答えを聞いてケラケラと笑う。
「人間なんてみんな一緒だ。どこに住んでたって怒る時は怒るし、笑う時は笑う」
ケイは先輩風を吹かせたいのか、そんな説教じみた言葉を続ける。
「誰だってツキがない日はとことんツイてない。でもそれはその日がそうだってだけだ、毎日がそうじゃない。反対も一緒で、恵まれた日が続いてもいつかは不幸が訪れる」
シルヴァレッタは黙って彼の言葉に頷く。
「お前さんは今日、目立ったミスをしなかった。それは良いことだ。でも、それは今日に限った話さ。いつかミスをする日が来る。」
その時はどうする? と尋ねるケイに、シルヴァレッタは返した。
「先輩を頼ります。……存分に」
「正解。この大物が」
二人は仕事を終え、着替えをしながら談笑していた。
「どうだ? この後一緒に飲みに行かねえか? 歓迎も兼ねてな」
「その申し出は魅力的ですが、すみません。先約があって」
そう言ってシルヴァレッタはカバンから一枚のハガキを取り出す。今朝家を出る際に郵便受けに入っていたものだ。この件はぼくもすっかり忘れていた。
「コイツは……。おいおい、お前何やらかしたんだよ」
「特に言うほどのことでは」
「言うねぇ。しかし、そうだな。コイツは大事な先客だ。お誘いはまた今度にするよ」
「楽しみにします。お先に失礼します」
バックヤードを抜け、その足を帰路へは向けずハガキが指し示す場所へと。何故なら、その呼び出しは今のシルヴァレッタには何よりも優先すべき内容だったからだ。