生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
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六畳一間のボロアパート、本来なら咳をしても一人、孤独に身をやつすような空間だ。しかし現在、この狭苦しい部屋の人口密度は規定値を大きく超えている。酸素濃度が著しく低下しているようにぼくは感じられた。
万年床の上に腰掛けるシルヴァレッタ。その正面で腕を組み、正座をしながら眉間にしわを寄せているコバルト。そして、部屋の隅で所在なげに——いや、極めて能動的に室内を見渡しているラピスラズリ。
「あぁ……、ここが日々を過ごされている聖域。空気が、空気が違いますわ!」
ただのハウスダストだと思うよ、それ。
フレンチガーリーな私服姿のラピスラズリは、壁の染みや安物のカーテンにすら感動を覚え、恍惚とした表情で部屋の空気を胸いっぱいに吸い込んでいる。ただでさえ足りない酸素がさらに減っていく。
「で? どういうことか説明してもらいましょうか」
コバルトが、拳をギュッと握りしめながらシルヴァレッタを睨みつけた。彼女の顔には「心配して損した」という明白な徒労感と、行き場のない怒りが入り混じっている。
「私がわざわざ出迎えてやったっていうのに、なんでアンタとすれ違わなかったのよ! それに、電話! なんで電源切ってたの? 何かあったって思うのが普通でしょ!」
そうかなぁ、そうかも。そもそも電話がかかってくるような経験は、バイト面接のお祈りぐらいしかなかったようなぼくにとって、人との繋がりの大切さがピンと来なかった。今時はメールで済まされるし。
さて。シルヴァレッタはそんな彼女の剣幕にも一切動じず、淡々とした所作で傍らに置いたカバンから一枚のハガキを取り出し、差し出した。
「……これがなんだって言うのよ」
不満げにハガキを受け取ったコバルトの目が、そこに印字された文字を追う。
『押収品返却のお知らせ』
押収の文字を見て「あっ」と声を漏らした。
「先日の件で、警察にスマートフォンは押収されていたんだ。疑いが晴れたことで返却が決まったようだ。とは言えこれがポストに投函されていた事に気付いたのは今朝で、まだ6時と早朝だったから、キミはまだ寝ていると思って何も伝えずに出てしまった」
メモくらいは残すべきだったな、とシルヴァレッタは後悔を口にする。
「……えぇ?」
何それ初耳なんですけど、という態度をコバルトは示した。
「つまりだな」
「えぇ」
「帰りに警察署にまず向かったんだ」
「えぇ」
「よって、帰りのルートが違う。だから、すれ違うはずがない。そして、スマートフォンは長い間ずっと警察に調査されていたから、バッテリーが切れていたんだ」
「…………」
沈黙が落ちた。コバルトは手元のハガキと、シルヴァレッタの顔を交互に見比べ、やがて頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「……バカみたい。私、本気で焦って、繁華街から裏路地まで死ぬ気で走り回って……。アンタは、ただ電池の切れていたスマホを受け取りに行って帰ってきただけだったなんて……」
その肩は小刻みに震えている。怒りなのか、恥じらいなのか、あるいはその両方か。
要するに、彼女のいつものロジカルな思考と警戒心が、また最悪の形で裏目に出たという話だ。とは言え、彼女は単なるおせっかいでシルヴァレッタと関わりを持っているわけではない。何せ要人警護という名目での付き合いなのだ。むしろこれぐらい警戒して然るべきだろう。そうんな風にぼくは思った。
「そろそろ充電が完了した頃合いだな」
シルヴァレッタが、壁のコンセントに繋いでいたスマートフォンを手に取り、画面の端にあるバッテリーアイコンが十分な容量を示しているのを確認した。それを見て彼は電源ボタンを長押しする。
短いバイブレーションと共に、液晶画面が明るく発光した。起動のロード画面を経て、見慣れたホーム画面が表示される。
その後、溜まっていた通知が処理されたらしく、着信音が鳴った。
『ピロンッ』
「それ、私がかけた不在着信の通知ね。迷惑をかけたわ」
「本当ですわ」
しばらく部屋を観察していたラピスラズリがそう応えた。御愁傷様。
——しかし、スマートフォンの通知音はそれで終わらなかった。
『ピロンッ』
立て続けに、もう一件の不在着信を告げる通知が画面にポップアップした。シルヴァレッタがその画面を見つめたまま、首を傾げる。
「二件、入っているな」
「……え?」
コバルトが眉をひそめた。
「ちょっと待って。私が電話をかけたのは一回だけよ」
「あたしはかけておりませんわ。というか、電話番号すら存じ上げませんもの」
ラピスラズリも部屋の隅から首を振る。
つまり、この部屋にはいない第三者からの着信記録が残っているということだ。ぼくの電話番号を知っている人間なんて極めて限られている。まぁ、もしかしたら営業の電話か何かかもな、とつまらないオチになる事をぼくは予測したのだが……
「……見せてみなさい」
コバルトの目から、先ほどまでの呆れの色が消え、プロの『仕事の顔』となっていた。彼女はシルヴァレッタの手からスマートフォンを受け取ると、不在着信の番号を確認する。
「市外局番……この番号は地方ね。でも、私は全く見覚えのない番号だわ。調べてみる」
彼女は自分の部屋に戻ってノートPCを持ってきて、インターネットへと繋いだ。(ボロアパートの隣室程度の壁なら通信は難なく繋がるようだ)
手慣れたタイピングで暗号化された回線を開き、検索エンジンの入力窓にその電話番号を打ち込んでエンターキーを叩く。数秒のローディングの後、画面に検索結果が表示された。それを見たコバルトが、小さく息を呑む。
「個人のクリニックみたいだけど、……この名前は」
彼女の視線の先、ノートPCの液晶画面に表示されたその文字列を、シルヴァレッタの視覚を通して『ぼく』も同時に認識した。
『ウラベメンタルクリニック』
ウラベ。それは、この身体の本来の名字だ。という事は、ただの偶然ではない可能性が高い。しかし、なぜこのタイミングで電話をかけてきたのだろうか。
先日確認したように、このスマートフォンの連絡帳アプリにはデータが一件しかない、それも目の前の少女のものだけだ。つまりこの電話の発信元が実家に当たるような場所だとしても、生前のぼくは既に関係を絶っていたと思われる。
「……ねぇ、この病院を見て。何か思い出すような事とかないかしら?」
コバルトが改めて検索したのだろう。地図サイトのストリートビューから呼び出した件のクリニックの外観風景を、シルヴァレッタに見せる。そこは、地方の住宅街の道端に佇む小さなクリニックで、一軒家と組み合わせた造りになっていた。
どうやら一階部分の大部分をクリニックとして機能させていて、白いタイル張りの壁にガラス戸を備えた、いかにも無機質な『クリニック』の顔をしていた。そして二階部分が住居なのだろう。ベランダなど、どことなく生活感を感じさせる造りが見て取れた。建物の脇には、住人がひっそりと出入りするための裏口へと続くであろう、薄暗い隙間が口を開けている。
もしこの家に住んでいた記憶があれば、例えばあの二階の窓から外を眺めていたとか、そういった情景が目に浮かぶのだが——
シルヴァレッタは淡々と首を振った。
「全くイメージが浮かばない。どうやら本当に、殆どの記憶はあの日に吹き飛んでしまったようだ」
シルヴァレッタと同様に、ぼくもそうだった。ただ目に映った通りの画像があるだけで、郷愁のようなものは全く感じられない。
「あれ?」
「どうした」
唐突に、コバルトは疑問の声を漏らした。
「ホームページがあったから院長のページを見てみたのよ。そしたら、ほら」
「ウラベ……ではないな。別の名前だ」
どうやら、この話には価値がないと言えそうだ。
クリニックの名前は一致したが、勤めている人物にウラベはいない。なので、そこにどんな理由があったにせよ、スマホの連絡帳にデータが無かった事から関係を断つだけの何かがあったのだろう。今回電話がかかってきた事だって、無視すれば済む話だ。
とにかく、ぼくの事はどうでもいい。ここで切り上げて彼らの物語の本筋に集中してほしい。そんな風にぼくは願っていたのだが、シルヴァレッタは違った。よりにもよって——
「行ってみるか」
そんな、下らない寄り道の提案をしてしまった。