生きるのに向いてないぼくは地の文になりました   作:あさはかな

17 / 18
ぼくは大事に至らない 一

 翌朝。辺りはまだ暗く、吐く息が白く霞んでしまう冷たい空気が澱む午前五時。ボロアパートの前に、一台の黒いミニバンが周囲の静寂を乱さないよう、丁寧な運転で音もなく滑り込んできた。

 

 ピックアップの車が到着したと見て、コバルトが後部座席のドアに手を掛ける。その時、運転席の窓がスッと下り、中から顔を出した人物を見て、彼女は驚きの声を上げた。

「ケイさん! お久しぶりです!」

「外は寒いな。挨拶は後だ、さっさと入っちまいな二人とも」

 

 ハンドルを気怠げに握っていたのは、無精髭を生やした男——昨日、高級マンションのエントランスでシルヴァレッタに清掃のイロハを教えていた先輩職員、ケイだった。二人は車に乗り込み、シートベルトを装着する。それを見届けたケイは車を発進させ、狭い住宅街の路地をスイスイと走らせる。

 

「ケイさんも組織の方だったのか」

「と言っても俺はただの便利屋、雑用係みたいなものさ。今回はお前さんたちの足代わりってわけだ」

 ケイは軽く片手を上げて笑ってみせるが、コバルトの反応は劇的だった。

「雑用係だなんて、そんな! すごく心強いです!」

 彼女の目の輝きと、少し上擦った弾むような声を聞けば、彼が組織内でどれほど人望の厚い人物なのかは一目瞭然だった。ただの清掃員だと思っていた男が、実は裏社会のベテランだったなんて。まあ、あのどんな理不尽な住人にも動じないであろう落ち着き払った態度は、確かにタダモノのそれではなく、妙な説得力があった。

 

 入り組んだ見慣れた住宅街の景色はすぐに後ろへ流れ、車は徐々に車線の多い市街地の幹線道路へと入っていく。朝焼けが冷たいアスファルトを薄いオレンジ色に染め上げていく中、暖房の効き始めた車内ではケイとコバルトによる和やかな会話が交わされていた。

「ケイさんがこの街にいるんだったら、最初から言ってくれれば良かったのに」

「俺みたいなオッサンのどこが良いんだか。なぁ?」

「いえ、貴方は頼りになる人物に違いない。コバルトの反応も納得だ」

「おだてたって何も出ないぜ」

 そう口にしながら華麗にハンドルを捌く。

 

 移りゆく街の景色は、やがて市街地を抜けロードサイドへと。早朝ということもあって行き交う車両はトラックばかりになるが、その重量差にも物怖じせずケイはハンドルを捌き続ける。

「本当はもっと若くてイキの良い奴が出張る予定だったんだがな。体調崩しやがって」

「むしろラッキーです!」

 誰かの不幸すら喜ぶコバルトの姿は、ぼくにはレアに感じた。このケイという人物の評価はそれほど高いのだろう。

「あ、いや。お休み中のところ無理に仕事降ってしまった感じですか? ごめんなさい」

「謝る事はないさ。こんな依頼じゃなきゃ気軽にロングドライブなんて楽しめないしな」

「本人が楽しめているのなら、何よりだ」

「ま、お前さんと酒を交わすより先にドライブデートするハメになるとは思ってなかったがな」

 

 かつてのぼくなら、こんな他愛のない会話が繰り広げられる空間に居場所などなかった。シルヴァレッタは窓の外を流れる景色を眺めている。それを観ているぼくは、自分とは無縁だったはずの温かな空気が、今、すぐそばにあることをむず痒く感じていた。

 

 ETCゲートを抜け、車は一気に加速して高速道路の本線へと合流した。流れる景色が緑と防音壁の単調な連続になり、タイヤがアスファルトを擦る低いロードノイズだけが響くようになると、車内の密室感がより一層強まった。それを合図にしたかのように、ルームミラー越しのケイの目が少しだけ「仕事の顔」に切り替わった。

「さて、到着後の段取りだが。シルヴァレッタ、お前さん一人で乗り込むんだな」

「ああ。話を合わせるために『記憶喪失になった』と言おうと思う」

 そう言って、シルヴァレッタは被っていた帽子を脱ぐ。その頭部には側頭部を覆い隠すようにグルッと包帯が巻かれていた。今朝家を出る前に準備した物で、これなら傷跡からはみ出た銀色も隠せるし、何より文字通りカバーストーリーとして機能するだろう。

「それで良い。相手は『ウラベ』に用があって電話をかけてきたんだ。お前さんは良くも悪くも素直すぎるからな、聞き手に徹するぐらいがちょうど良い塩梅だ」

 

 で、だ。とケイは言葉を続ける。その合図にコバルトが真剣な表情で頷き返し、話を引き継ぐ。

「私とケイさんはクリニックの駐車場で待機するわ。けれど私たちも状況を把握したいわ。そこで、これを隠し持って欲しいの」

 そう言って手渡してきたのは、小指の先ほどの黒くて丸い、小型のマイク装置のような物だった。

「盗聴器ってヤツよ。裏側がクリップになっているから、セーターの襟元か胸ポケットの裏あたり、外から見えない場所に噛ませておいて。私たちはこれを使って中の様子を伺う。万が一、ヤバそうな状況になっても私たちがすぐに飛び込むから。アンタは安心して、話を聞いてくれるだけで良いわ」

「了解した。ありがとう、頼りにしているよ」

 シルヴァレッタが迷いなく頷いた。自分に向けられた言葉ではないが、二人が彼に向ける確かな信頼関係が——

 

 どうしても、ぼくにはとても気持ち悪かった。

 

 

⬛︎◆▲

 

 そこからは、時間を早送りしたような長旅だった。

 

 一度目のサービスエリアでの短いトイレ休憩を挟み、太陽がすっかり姿を現して朝食にはやや遅い時間帯での二度目の休憩。暖房の効いた車内から外へ出ると、冬の冷たい風が容赦なく頬を刺す。大型トラックがひしめく駐車場で伸びをしながら、コバルトが「腹ごしらえよ」と言って、現地の名物と思しき見慣れない軽食を人数分買ってきた。

「なんだこれ。聞いたことない名前だが」

「私も初めて。でも、屋台のおじちゃんが『ここに来たら絶対これ食いな!』って言うから、とりあえず」

 シルヴァレッタは「いただきます」と律儀に呟いてから、包みを開いてそれを一口囓る。味噌の香りと、そこに砕いて散りばめられた豆のようなものが練り込まれていて、甘じょっぱくて少し焦げた味わいがぼくの味覚にも広がった。

 

 初めて口にする、決して洗練されているとは言い難い野暮ったい味。だが、社会の底辺で毎日変わり映えのしない既製品ばかりを食べていたぼくにとっては、悪くない味だった。誰かと一緒に同じものを食べ、同じ目的地へ向かっている。そんな当たり前で、かつて手に入らなかった日常の欠片を拾い集めるようで、ぼくは幸せを噛み締めさせられた。

 

 そうして、腹ごしらえを終えて再び走り出した車は数時間のドライブを経て、やがて車は地方都市のインターチェンジを降りた。窓から差し込む陽の光が、のどかな地方の住宅街の景色を暖かく照らし出す。

 

 そうしてぼくらは、目的地の「ウラベメンタルクリニック」が建つ街へと到着したのだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。