生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
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耳にねじ込んだ小型のイヤホンから、サーと鳴る微かなホワイトノイズに混じって、規則正しい足音と衣擦れの音が聞こえてくる。シルヴァレッタがクリニックに向かって歩いている音だ。
「……着いたようね」
足音が止み、私はポツリと呟いて、開いていたノートPCの画面から視線を上げた。私とケイさんが待機しているのは、目的の『ウラベメンタルクリニック』の駐車場、そこに停めた車内。時刻は午後一時ちょうど、天候は良く太陽は真上から照りつけ、秋口だというのにアスファルトの熱気が車内をじわじわと温めていたが、私の意識は冷たく澄み切っていた。クリニックの昼休憩という、来客が絶対に途絶える空白の時間を狙いすました、完璧なタイミングでの来訪だ。この機を逃す訳にはいかない。
『……』
シルヴァレッタは押し黙る。あんな彼でも緊張するのかと思って少し心がホッとした。周囲の環境音——遠くを走る車のエンジン音や、どこかの庭先で鳴く鳥の声が、シルヴァレッタの胸元に仕掛けた高性能マイクを通して私の鼓膜を揺らした。
『ピンポーン……』
意を決して、呼び鈴に手をかけたようだ。間延びした、いかにも家庭用といった風情のチャイムの音が響く。十秒待っても応答はない。
『ピンポーン……』
二度目。まだ出ない。車内の隣の席で、ケイさんが缶コーヒーを無言で啜る音がやけに大きく聞こえた。居留守を使われているのか、あるいは本当に誰もいないのか。
『ピンポーン……』
三度目のチャイムの直後、ブツッ、とインターホンのマイクが繋がるノイズが弾けた。
『……あの、申し訳ありません。午前の診察は終わっておりまして』
インターホンのスピーカーから聞こえてきたのは、少し電子音でくぐもった男性の声だった。
『午後の診察は三時からになりますので、もしよろしければその時間に改めて——』
言葉遣いこそ丁寧だが、不躾な訪問に対する隠しきれない戸惑いと、休憩時間を邪魔されたことへの微かな不満が滲んでいる。無理もない。メンタルクリニックという性質上、アポ無しの急患や不審な訪問者には警戒を強めるのが当然だろう。
『先日、お電話をいただいたウラベイサクです』
シルヴァレッタが、やや怯えた感情を交えた声で告げた。そんな演技できたんだ、お前。
『えっ……?』
イヤホンの向こうで、はっきりと息を呑む気配がした。直後、インターホンが乱暴に切られる音が鳴り、バタバタと慌ただしい足音がドアの向こうから近づいてくる。ガチャリ、と重たい金属製の電子錠が外される音。分厚い防音ドアが開かれた際の、空気の抜けるような音が耳に届いた。
『君が、ウラベ先生の……!』
驚きと、歓喜と、そして信じられないものを見るような困惑。それらが綯い交ぜになった声が、今度はマイク越しに直接拾われた。
私は手元のノートPCを操作して、事前にブラウザで開いておいたウラベメンタルクリニックのホームページの情報を再度画面に呼び出す。
「ケイさん、現院長が出てきたみたいです」
画面に表示された『院長挨拶』のページには、白衣に身を包んだ男性の写真が掲載されていた。特徴的なのは、その目元が濃い色の入ったサングラスで覆われていることだ。
「名前はクロガネ。短い経歴欄から推測される年齢と、今聞こえた声のトーンを照らし合わせても、シルヴァレッタと大差ない若さでしょう」
「この若さで一国一城の主か。グラサンもしててイケイケじゃねぇか」
「サングラスには理由があるそうです。ほら、ここに注釈文が。『視覚過敏(光に弱い体質)のため、診察中も遮光眼鏡を着用しております。威圧感を与えてしまうかもしれませんが、ご了承ください』」
「なるほど、そういう体質か。むしろ普通の病院勤めは厳しかったんだろうな」
ケイさんの言う通り、医師になってすぐにこのクリニックに勤務医になったという、簡素な経歴が載っていた。
「しかし、この男の声の震え方に敵意はない。これは安心して良さそうだ。気楽に出歯亀やれそうで何より」
「デバガメって……。言葉が悪いですよ、もうっ」
その後、クリニックの診察室へと案内される二人の足音が続いた。スリッパがリノリウムの床を擦る音。重たい扉が閉まる音。そして、カチャリと陶器のティーカップがソーサーに置かれる上品な音が聞こえる。
『先日は電話に出られず、すみませんでした。……それと、突然の訪問をお許しください』
シルヴァレッタが、車内で打ち合わせた通りの台詞を口にした。タイミングとしては、ここで帽子を脱いで頭に巻かれた包帯を見せる段取りだ。
『いえ、謝らないでください。まさか、直接足を運んでいただけるとは思っていなかったので。……ところで、そのお怪我は?』
クロガネ医師の戸惑う声。想定通り、シルヴァレッタの頭にぐるっと一回り巻かれた包帯がクロガネ医師の目に飛び込んだようだ。
『事故に、遭ったそうなんです』
シルヴァレッタの声は、申し訳なさそうな色を含んでいた。普段、平坦な口調ばかりでいる彼からは考えられないその姿勢に、私はやや困惑した。何だお前。
『実はその後遺症で、過去の記憶を殆ど失っているんです。自分が何者なのか、かつてどう生きていたのかを知りたくて、唯一の手がかりだったこのクリニックを訪ねました。ウラベイサクという名前と、この場所には、何か関係があるんですか?』
長い、本当に長い沈黙が落ちた。イヤホンからは、クロガネは何度か言葉を飲み込み、深く呼吸を繰り返す音だけが聞こえてくる。やがて、彼はポツポツと、ひどく静かな声で語り始めた。
『……元々このクリニックは、ウラベキミトという高齢の医師が一人で切り盛りしていました。その人が、貴方の御父様です。私は、彼を心から尊敬していましてね。数年前から勤務医として師事し、彼のもとで多くのことを学ばせてもらいました』
クロガネの声には、恩師だというウラベ医師への強い敬愛が滲んでいた。
『先生は本当に素晴らしい精神科医でした。患者一人ひとりに寄り添い、決して見捨てない。私はずっと、その背中を追いかけていました』
クロガネはずっと過去形でウラベ医師を語っている。という事はやはり……
『ですが……。昨年、先生は不慮の事故で突然亡くなられてしまいました』
声が微かに震える。後悔と、喪失感が滲み出ている様子が見て取れるようだった。
『遺されたこのクリニックをどうするか、随分と悩みました。でも、私は先生の遺志と、この場所を頼りにしている患者さんたちを守りたくて……何とかこのクリニックの名前を残したまま、存続させる事に決めたんです。恥ずかしながら、この一年は目の前の診療をこなすだけで手一杯で、他のことに気を回す余裕なんて全くありませんでした』
カチャリ、とクロガネがティーカップを手にする音がした。一口喉を潤し、彼は話を続ける。
『ようやく最近になって、経営にも少しだけ余裕が出てきましてね。……本当に申し訳ないと思いつつ、ずっと鍵をかけていた二階の居住スペースに足を踏み入れたんです。先生の生前の記録や、遺品を整理するために』
クロガネの息を吐く音。マイクを通して私の耳に直接吹き付けられるように、リアルに響いた。
『そこで初めて、一人息子であるイサクさん——君の存在を知ったんです。先生は、クリニックではご家族の話を一切しなかったもので……。遺された手帳や手紙を読み解いて、住所までは分からなかったけれど、ようやく君のものらしき電話番号を見つけ出しました。それでおそるおそるかけてみたのが、先日のことです』
そこで一度言葉を切り、クロガネは心からの安堵を込めて言った。
『不在着信になってしまって、もう繋がらないかもしれないと諦めかけていたところだったんです。……来てくれて、本当にありがとう』
『……いえ』
シルヴァレッタの短い返事。車内で聞いている私でさえ、クロガネの誠実さと恩師への想いに胸が締め付けられそうになる。
『ところで、イサクさん』
不意に、クロガネの声のトーンが変わった。先ほどまでの「恩師の息子を労わる男」から、鋭く冷静な「精神科医」としての顔を覗かせたような、微かな緊張感が走る。
『頭の怪我の他に、何か変わったことはありませんか? 例えば……人から親切にされたり、誰かに褒められると、急に強い吐き気や、息苦しさに襲われたりは?』
『吐き気?』
『ああ。もしくは、自分が恵まれた状況にいると「次は必ず悪いことが起きる」という強烈な恐怖や、自分にはそんな資格はないという罪悪感が湧き上がってきて、その場から消えてしまいたくなるようなことはないかな』
これは問診だ。私は無意識に前のめりになり、イヤホンを耳に強く押し当てた。
『いや、身体の異常は特に何も。精神的な事でも、吐き気や恐怖は全くない』
シルヴァレッタが事実を述べる。彼自身のこれまでをみてきた私も、そんな様子を感じ取ったことは無かった。
「いや、でも……」
私の脳裏に蘇るのは、この奇妙な日々が始まった原因となったあの日。銃弾をこめかみに打ちつけた、シルヴァレッタの元となった青年の顔。あの瞬間、倒れ伏す直前に彼が浮かべた、どこか解放されるかのような安堵の表情だったら、もしかして——
『夜眠れないという事は?』
『毎日よく眠れている』
嘘つけお前。
『そうですか……』
クロガネは、安堵のような、或いは腑に落ちない。そんな反応を返した。
『……もしかしたら、記憶を失った事故というのは、君にとって怪我の功名というヤツだったのかもしれないな』
ポツリと漏らしたその呟きに、シルヴァレッタは食いついた。
『怪我の功名?』
再びの沈黙。しかし今度は、先ほどのような感慨に耽る沈黙ではない。医師として、どこまで踏み込んで伝えるべきかを慎重に推し量るような、ヒリヒリとした時間が流れる。
やがて、クロガネは観念したように口を開いた。
『二階で見つかった資料の中に、ウラベ先生の残した研究ノートがありました。それは、一般的な患者のカルテではなく、たった一人の人間のための記録です。……先生は、どうにかして君の抱えている病気を克服できないかと、何年もの間、一人で手を尽くしていた形跡が伺えました』
『俺の、病気……?』
車内の空気がピンと張り詰めた。ケイさんも私も、息を殺してイヤホンの音声に全神経を集中させる。
『ああ。……先生のノートには、君の症状が克明に記されていました』
クロガネの声が、冷たいリノリウムの床に落ちる水滴のように、静かに、そして重く響いた。
『チェロフォビア。幸福恐怖症と呼ばれるものです』