生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
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クロガネは、チェロフォビアという症状がどのようなメカニズムで人の精神を蝕み、幸福を恐怖へとすり替えてしまうのかを、医学的な見地から丁寧に、そしてひどく勿体ぶった重苦しいトーンで解説し始めた。脳の防衛本能の誤作動だとか、報酬系のホルモンがどうだとか、専門用語を交えながら語る彼の言葉に、シルヴァレッタはただ黙って、真面目な面持ちで小さく頷きながら傾聴している。そんな緊張を他所に、ぼくはひどく退屈していた。
長いな。早く終わらないかな、この茶番。
頭の片隅で、ぼくは欠伸を噛み殺す。他人の家でお茶を出され、どうでもいい人間の深刻な話に付き合わされているからだ。こういう「人間同士の重たいコミュニケーション」はどう受け取って良いかわからない。だって話したところでお互い何の解決にもならない。しかもそれが、かつての自分自身の話であるなら尚更だ。何せもう終わった話だからね。
ぼくの話は物語の本筋でもなんでもない。すでに終了させた過去に過ぎず、今さら聞かされても何の役にも立たないのだ。もしこれがゲームのイベントシーンだったなら、スキップボタンを連打して次のイベントに進みたいとさえ願う。
ようやく、クロガネの長ったらしい解説と感傷的な作り話が終わりを告げ、帰宅の運びとなった。
「今日は来てくれて本当にありがとう。もし良ければ泊まっていっても良いんですよ。ここは君の家なんですから」
別れ際、クロガネは優しげな声でそう提案してきた。勘弁して欲しい。
「お気遣いありがとうございます。ですが、今の生活を気に入っているので」
シルヴァレッタは淡々と、しかしきっぱりと断った。
「そうですか……。無理に引き留めるわけにはいきませんね。ではせめて、今の君の住所を教えてくれませんか? ウラベ先生の遺品で渡したいものが出てくるかもしれない」
食い下がるクロガネに対し、シルヴァレッタは何の疑いも持たず、素直に現在のアパートの住所を口にしてしまう。そして別れを告げてクリニックを後にし、駐車場に足を運ぶ。ケイとコバルトが待つ黒いミニバンの後部座席に乗り込むと、二人は「お疲れ様」と声をかけてきた。
「……疲れた」
シルヴァレッタは短くそう言うと、本当に疲労困憊したように最後列座席で寝っ転がって横になった。普段は不眠不休で動き回っても平気な彼だが、慣れない「人間味のある演技」や、相手の感情の起伏に合わせるという作業は、彼にとっては激しく疲弊させるものだったのだろう、とぼくは推察した。
「長居は無用のようだな。さっさと帰るとするか」
ケイがそう言うと、中列座席から運転席へと身を移した。
その時、同じく中列座席に座っていたコバルトが、ハッとしたようにクリニックの方角を振り返る。
「……何だろ、今の」
「どうした、コバルト」
「……敵意じゃないんだけどね。まるで、動物が獲物を見つけた時の高揚感のような、すごく熱くてねっとりとした視線をクリニックから感じたわ」
彼女の空間認識能力と暗殺者としての勘が、何かのシグナルを捉えたらしい。だが、彼女はすぐに小さく首を振った。
「気のせいね。きっと、クリニックで飼ってるペットか何かが目を覚ましてこっちに気を取られたのかも」
そう言って頭を振り、彼女はシートベルトを締めた。
ケイさんがエンジンをかけ、車が静かに発進する。疲れ切ったシルヴァレッタは横になったままだ。彼の疲労は限界に達しているのだろう。それでも眠ることはなく目を開いていたからこそ……ぼくは気付けた。
彼と同じ視界を共有しているぼくは、その視界の端で、サイドミラーに反射した外の景色の一部を捉えた。車がクリニックから遠ざかっていく最中。クリニックの二階、居住スペースの窓辺から、遮光カーテンの隙間を縫ってこちらを見下ろす人影。サングラスをかけ、口元にねっとりとした狂気を孕んだような笑みを浮かべて、去っていく車を見つめるクロガネの姿を。
なんだかなぁ。
⬛︎◆▲
それから数日が経った。
クリニックでの一件は後を引くことはなく、何事もない平和な日々が続いた。シルヴァレッタはケイから教わった清掃の仕事を順調にこなし、この社会のシステムに適合しつつあった。帰り道、たまたま立ち寄った少し遠くのドラッグストアでシルヴァレッタは発見した。
「……ここにあったのか」
飲料コーナーの棚に並んでいたのは、ぼくの愛飲していた『みかんレモン水』だ。最寄りのスーパーやコンビニには全く置いておらず、実はこういう店でないと手に入らないレアモノなのだ。シルヴァレッタは感嘆の息を漏らし、棚にあった在庫を一掃させた。店員はドン引きした。
重たいレジ袋を提げてアパートに到着すると、ちょうど隣の部屋から出てきたコバルトに遭遇した。
「おかえり。大荷物ね」
「ああ、目当てのものが見つかったんだ。コバルトも買い物か?」
「そうよ。夕飯の買い出し」
「今はネットスーパーや宅配サービスが充実しているとケイさんから聞いたが、利用しないのか?」
その問いに、コバルトは少し呆れたように笑った。
「自分の口に運ぶものは、自分で直接足を運んで品定めするのが一番に決まってるでしょ」
便利なのは違いないけど私の性に合わないわ、と彼女は続けた。いかにも彼女らしい、人の善性に満ちた回答だとぼくは感じた。挨拶もほどほどに別れ、自室に戻るシルヴァレッタ。買ってきたみかんレモン水を、空っぽだった冷蔵庫の中に一つずつ並べていく。購入した本数は計算したかのようにピッタリで、庫内はペットボトルで満杯になった。
「……身体が憶えているのかもな」
シルヴァレッタはポツリと呟き、冷蔵庫の扉を閉めた。その後、彼は部屋の中央で立ち尽くし、押し黙った。おそらく、クロガネから聞かされたこの身体の生前の人格について思い返しているのだろうと、ぼくは推測した。この身体に刻まれた記憶や嗜好は、少なからず彼に影響を与えている……と。
ドォォォンッ!!
しかし静寂は、無慈悲な破壊音によって唐突に破られた。玄関の薄っぺらいドアが、力任せに蹴破られ、蝶番をへし折られて内側へと折れ曲がった。
「おい、コイツで間違いないな!」
土足で上がり込んできたのは、柄の悪い数人の男たちだった。手にはバールや鉄パイプなどの工具を握りしめ、先頭の男はスマートフォンの画面に映った写真を指差している。男はシルヴァレッタの顔を見ると、獰猛な笑みを浮かべた。
「ビンゴだ。オラァッ!」
一切の問答も躊躇もなく、男は握っていたバールをシルヴァレッタの頭目掛けて全力で振り下ろした。
風を切る音。シルヴァレッタは間一髪で身をよじり、致命的な一撃を紙一重でかわす。空を切ったバールは畳を深く抉った。
「何者だ」
シルヴァレッタが低く冷たい声で問う。
「うるせえ! テメェは黙ってぶん殴られてろ!」
話にならない。男たちは怒号を上げながら、狭い六畳間に雪崩れ込んできた。シルヴァレッタは不利を悟り、ベランダの方へ走って逃げようとした。だが、空間が狭すぎた。男二人がかりで背後から組み付かれ、強引に床へと押し倒されてしまう。馬乗りになり、鉄パイプを振り上げようとする男たち。その絶体絶命の状況下で、シルヴァレッタは微塵も慌てることなく、ひどく冷静な口調で彼らにこう言い放った。
「忠告する。今すぐ、この部屋を出た方が良いぞ」
「はっ? 命乞いにしてはおかしなこと言うな。恐怖でイカレちまったか?」
男たちが下劣な笑い声を上げた、次の瞬間だった。
ガンッ!! という鈍い打撃音と共に、玄関口を塞いでいた軍団の一人が、まるで弾き飛ばされたボウリングのピンのように部屋の中へと吹っ飛んできた。男たちが呆然と振り返る。玄関の敷居を跨いで、一つの小さな影が素早く滑り込んできた。
買い物に向かったはずのコバルトだ。手には、買い物用のエコバッグが握られている。
「……私の要人に、手を出さないでッ!」
地を這うような低い声。彼女の仕事人としてのスイッチは完全にオンになっていた。買い物の途中で、彼女の異常な空間認識能力が、アパート周辺に漂う異変を感じ取って、飛んで戻ってきたのだ。
そこからの光景は、一方的な蹂躙だった。
振り下ろされるバールを最小限の動きで躱し、体重がしっかり乗った最短経路の掌底で次々と男たちの顎を撃ち抜く。時には怯んだ隙に懐へ潜り込み、下半身の急所を的確に破壊する。一人、また一人と、屈強な男たちが悲鳴を上げる間もなく薙ぎ倒され、ものの十数秒で六畳間は文字通り屍の山と化した。
数分後、部屋に転がった男たちを、コバルトが手際よくビニール紐で縛り上げ、尋問が始まった。
「誰の差し金? 十秒以内に吐かないと、次は指の関節を一つずつ逆に曲げるわよ」
「ひっ、や、闇バイトだ! オレたちは雇われただけなんだよぉ……」
怯えきった男たちは、涙と鼻水を流しながら洗いざらい吐いた。
彼らの証言によれば、この部屋に住む「写真の男性」をボコボコにしたら大金が手に入るという依頼を受けたらしい。さらに不気味なことに、「死なない程度に、頭を執拗に叩きつけてくれたらボーナスも弾む」という奇妙な条件が提示されていたのだという。事情を聞き終えたその後、コバルトはすぐにケイに連絡を入れ、男たちを組織の裏ルートへと引き渡した。より詳細な情報を洗い出すのだと言う。
散らかった部屋に残り、コバルトとシルヴァレッタは一体何が起こったのかを推察する。
「こんなタイミングで、しかもピンポイントでアンタの住所を知っている人間。それに、アイツらが持っていた写真……あれ、どう見てもクリニックの玄関にあった監視カメラの映像を切り抜いたものだったわ」
コバルトが眉間を揉みながら吐き捨てる。
「黒幕は明らかね。……でも、どうして? あんなに恩師の息子を気遣っていた医者が、どうして急に。それも、闇バイトなんかを使って……」
車内で盗聴器の音声だけを聞き、クロガネの「感動的な美談」を信じ込んでしまったコバルトやケイにとっては、この展開は全くの予想外であり、不可解な謎に映るのだろう。
でも、ぼくは全く驚いていなかった。
こうなるだろう、とすら思っていた。
何故なら——
あの男の話が、ほとんど嘘に塗れた茶番だったからだ。