生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
クロガネは、足元で糸が切れたように崩れ落ちたウラベの身体を見下ろして、ひどく満足げな吐息を漏らした。
彼の所有する超常の能力は、相手がどんな強者であれ、目を合わせれば強制的に眠りに落とすことが可能となる。その能力を買われ、幼少期から親元を離れてRGBという闇の組織で実験の毎日を過ごした彼にとって、これ以上ない必勝の術が決まり、抗いがたい優越感が彼を支配していた。
「さて……」
クロガネは二人を牽制するために使っていたスイッチをポケットにしまい、レザーのグローブをはめ直して、どうやってこの「貴重な検体」を運ぶかを画策し始めた。入り口近くの路地に停まっていたワンボックスカーに乗っていた小太りの男——便利屋も、すでに自身の能力によって眠らせてある。誰にも見咎められることなく運ぶには、大型のスーツケースにでも彼を詰め込み、夜間でも借りられるシェアカーを近場で手配するのが良いだろうか。
「いずれにせよ、イサクくんを運ぶには乗ってきたバイクでは無理ですね。クリニックの場所は知られてしまっていますし、この様子だと自宅の場所も割れていると考えるべきでしょう。……となると、船で国外に連れて行くのが一番でしょうか」
「——それは困るよ。これ以上の寄り道は御免だ」
静寂に包まれた書斎に、気怠げな声が響いた。
クロガネが弾かれたように足元へ視線を落とす。そこには、完全に意識を刈り取ったはずのウラベが、ゆらりと、まるで操り人形が無理やり頭上の糸を引かれたかのような不気味な動作で上体を起こしている姿があった。
「な……っ!」
クロガネの爛々としていた目に、初めて明確な動揺が走った。彼は無意識のうちに数歩後ずさる。
「どうして!? 今まで、途中で起き上がってきた奴なんて一人もいなかった……!」
彼の能力は絶対のはずだった。屈強な大人であっても、獰猛な肉食獣であっても、彼が目を合わせれば生物に備わっている「睡眠」という機能のスイッチが強制的に入れられる。度重なる実験の末、RGBの研究員たちが歓喜の声を上げながらそう結論付けた光景が、クロガネの脳裏には深く根付いているのだ。
クロガネの悲鳴のような問いに対し、立ち上がったウラベは、首をコキリと鳴らして淡々と答えた。
「さあ? もう死んでるからじゃないかな」
彼が立ち上がった拍子に、頭部に巻かれていた包帯がハラリと解け落ちた。窓辺から差し込む月明かりの冷たい光を反射して、側頭部に埋め込まれた銀色の傷口が妖しく顕になる。それこそが、彼が本来は生存を許されていない異常な存在であることの証明だった。
「……ッ、能力で眠らないのなら、痛めつけて気絶させるまでです!」
クロガネは瞬時に思考を切り替えた。眼の能力が通じないイレギュラーとはいえ、相手はひ弱な体格の青年に過ぎない。彼はレザースーツに包まれた長身を沈め、一気にウラベの懐へと踏み込んだ。
しかし。
必殺のタイミングで放たれたはずのその攻撃は、空を切った。
「何!?」
ウラベの精神に幾重にも積み重なったマイナスの呪い。それが強制的に呼び起こす過剰な生存本能によって、身体に迫る危機に対して反射神経が異常なまでに研ぎ澄まされ、あらゆる攻撃を回避せしめる。
撃つ、薙ぐ、突く、振るう。
避ける、躱わす、引く、飛び退く。
ウラベには武術の心得など一切ない。身体能力にも大きな開きがある。それでも、彼に運命付けられた「ギリギリ生きていける」という呪いが、あらゆる脅威から死に物狂いで身を守り続ける。
(これが、ウラベ先生の生み出したEOD……その真髄か!)
「ですが、いつまでも躱し続けるのは不可能なようですね。随分と汗をかいているじゃないですか」
クロガネの言う通り、ウラベの動きは少しずつ鈍り始めていた。時間が経過するにつれて処理が追いつかなくなり、完全に回避することができず、身体に擦り傷や打撲が増えていく。
(まあ、逃げ続けたところでその先は詰みだもんね)
そんな肉体の限界を、ウラベは他人事のように冷静に自己分析していた。
(となると、欲しいのは逆転の一手。その為には……)
ウラベの脳裏に、一つの光明が差し込む。
「そこだッ!」
足取りの重くなったウラベが体勢を崩した瞬間、クロガネは渾身の蹴りを放った。吸い込まれるように、クロガネの重たい前蹴りがウラベの胸板に突き刺さる。ウラベの身体はゴム鞠のように大きく跳ね飛ばされ、部屋の隅で気を失って倒れているコバルトのすぐそばへと転がっていった。
「ハァ、ハァ……。肋骨の折れる感触がしましたね。どうです? もう観念しませんか?」
疲労こそ見えるが五体満足のクロガネが、満身創痍でうずくまるウラベに対して冷酷に言い放つ。
「ゲホッ、ゲホッ! ……ねぇ、一つだけ聞いていい?」
「何でしょう?」
「研究レポートは二つあった。一つはぼくの事だけど、もう一つに心当たりがあるんじゃない?」
「…………」
そう問われ、クロガネは押し黙った。しかし、彼の目は倒れているコバルトの顔に向けられていた。愛おしむような、ひどく懐かしむような、そんな痛切な表情を携えて。
「あ、やっぱりそうなんだ。さっきも意味深な発言があったしね」
血を吐きながら、ウラベは自身の推理を披露する。
「ウラベ博士の最高傑作って、コバルトの事だよね?」
「……コバルト、と言うのですね。その子の名前は」
クロガネは観念したかのように、ポツリポツリと話し始めた。
「ウラベ博士の研究成果には、いつも外見モデルが用意されていました。遺伝子操作に長けたRGBとはいえ、一から自由にカスタマイズする境地には至らず、実体のモデルケースが必要だったのです」
続くクロガネの言葉には、ある種の懺悔のような、重苦しい感情が込められていた。
「最高傑作のモデルに選ばれたのは、ソラハという少女です」
「ふーん、どうしてその子が選ばれたの?」
「端的にいえば、美しかったからですね」
「よく見つけられたね、そんな逸材」
「美人薄命、という言葉をご存知ですか」
「知ってる。……うわぁ、本当にワルだねRGBって。そういうことでしょ、言いたいのは」
「……先ほどと違って勘が鋭いですね。ええ、その通りです。ソラハは、予め短命になるようデザインされて産み出されました。美人のモデルケース、その検体として用意された存在だったのです」
「うーん、確かにコバルトは可愛いけどさ。そんな国が傾くような美人ってほどではなくない?」
「研究は上手くいかなかったんですよ。成功例はたったの一つ、その一人がソラハでした」
そう応えるクロガネの脳裏に、ありし日の光景が呼び起こされた。
『ねえグラさん。わたし、病気が治ったらやりたい事があるんだ!』
『なあにソラハちゃん、やりたい事って』
『格闘技』
『どうしてまた』
『うんと強くなって、本読んでばかりでモヤシのグラさんを守ってあげるの』
『モヤシって、また変な言葉憶えたね……』
『えへへー』
まるで輝く満月のような笑顔を浮かべる薄幸の美少女。決して忘れることの出来ない、まだ明るい未来があると信じられた大切な思い出の一幕がクロガネの胸中を駆け巡った。
「……さて、時間稼ぎはよろしかったですか? 話の最中に、その子のポケットに手を伸ばしているのに自分が気づかないとでも思いましたか?」
クロガネの目が、再び冷酷な光を取り戻す。
「だよね。でも、目当てのものは手に入れたからOKだ」
「今更銃を手にしたところで、素人のあなたに当てることは出来ませんよ」
「銃じゃないよ。銃は嫌な思い出が蘇るからって準備しなかったから」
「おや、それは残念でしたね。では、お目当てのものとは?」
「これ」
ウラベが差し出したもの。それは、鈍く光る鋭利なアーミーナイフだった。それを見たクロガネは、心底哀れむような、冷ややかな視線を送った。
「実力差は明らかです。今更、そんな武器を持ったところで形勢は何も変わりませんよ」
絶対的な強者の余裕。しかし、ウラベは口元を歪め、これ以上ないほど皮肉めいたトーンで挑発した。
「何事もやってみないとわからないんじゃない? ……お前の大好きなウラベ先生なら、そう言いそう」
「……ッ!」
クロガネの顔から、一切の表情が消え失せた。恩師の名を侮辱する言葉を、その顔で、その口ぶりで紡がれた事が、彼の逆鱗に触れたのだ。
「良いでしょう……。二度とそんな口が利けないよう、黙らせてあげましょう!」
激昂したクロガネが、殺意を剥き出しにして一直線に突撃してくる。
眼前にナイフを構え、立ち上がるウラベ。クロガネの頭の中では、素人のナイフによる迎撃軌道を完全に予測していた。手首を掴んで捻り上げ、そのまま心臓を蹴り砕く。そのシミュレーションは完璧だった。しかし、ウラベの行動は、クロガネの予測という次元を遥かに超えた、完全な「狂気」だった。
クロガネが目前に迫った、まさにその瞬間。
ウラベは、構えていたナイフをクロガネに向けるのではなく——自らの首元へと押し当て、自身の頸動脈を躊躇いなく深く切り裂いた。
「——は?」
ブシャァァァァァッ!!
切断された動脈から、凄まじい水圧のホースのように、大量の鮮血が勢いよく噴き出した。それは、真っ直ぐに突進してきていたクロガネの顔面を完璧に直撃した。
「グアァァッ!?」
爛々と見開かれていた狂気の眼球に、生温かく粘り気のある血の飛沫が大量に流れ込む。突如として視界を完全に奪われ、眼球への強烈な刺激にクロガネは悲鳴を上げて両手で顔を覆い、その場でのたうち回った。
自身の首から致死量の血を噴き出しながら、ウラベは薄れゆく意識の中で、自らの不死の身体に向かって命令を下した。
(早く治れ。出来るでしょ)
その声なき意志に呼応するかのように、側頭部の銀色が脈動する。そしてその肉体は異常な修復力を見せた。数秒も経たないうちに頸動脈の傷口は完全に塞がり、ウラベの体調は万全の状態へと回帰する。
(いい子だ)
ウラベは血に塗れたナイフを逆手に握り直し、未だに目を押さえて悶え苦しむクロガネの太もも——大腿部へと、全体重を乗せて深く突き立てた。
「ギャアアアアアアッ!!」
肉を断ち切り、骨に達するほどの激痛。クロガネは絶叫し、床を転げ回った。その無様な姿の拍子に、彼のレザーポケットに仕舞い込まれていたスイッチがポロリと床にこぼれ落ちた。
ウラベは静かにそれを拾い上げる。他人の嘘を鋭敏に察知するウラベの精神器官が、このスイッチが単なるハッタリの脅しなどではなく、押せば確実に「何か」が起きる致死性の効果を持っていることを直感的に告げていた。
ウラベはナイフを放り捨て、傍らで眠りこけているコバルトの小さな身体を担ぎ上げた。苦痛に呻くクロガネを冷たい目で見下ろし、背を向けて書斎を出る。リビングを抜け、クリニックの居住スペースから完全に脱出して階段を降り、ワンボックスカーの前に到着したところで、ウラベは振り返ることなく手元のスイッチのボタンを強く押し込んだ。
ドゴォォォォォォンッ!!
背後から、鼓膜を破るような激しい爆発音が轟く。
クロガネがいざという時の証拠隠滅のために仕掛けていた焼夷弾が起動したのだ。瞬く間に書斎から激しい火の手が上がり、赤い炎がクリニックの二階を飲み込んでいく。ウラベは燃え盛る建物を背に、コバルトを担いだままワンボックスカーに乗り込む。その運転席では、クロガネの能力を受けてしまった便利屋が、いびきをかいて眠りこけていた。
ウラベは便利屋の頬を何度も叩き、彼を強引に起こそうとする。
「起きろ!」
「……んぁ? ヒエッ!? 大丈夫ですか! 血塗れですぞ!」
飛び起きた便利屋が、全身血だらけのウラベの姿を見て目をひん剥く。ウラベはコバルトを後部座席に放り込み、助手席に乗り込んで短く告げた。
「事情は後で。とにかく、今はここを離れて!」
「……ッ、了解!」
組織のプロである便利屋は瞬時に事態を察して、すぐさまエンジンを吹かし、タイヤを軋ませて夜の街へと車を発進させた。
◆
車が市街地を抜け、高速道路へと合流した頃。
後部座席で丸くなって寝ていたコバルトが、「んん……」と小さく呻き声を上げて目を覚ました。
「……あれ? 私……」
彼女はぼんやりとした頭で周囲を見回し、自分が走る車の中にいること、そして助手席に座る男の横顔を見て、ハッと記憶を取り戻した。
「ちょっと! クロガネは!? 何が起こったの!?」
身を乗り出して捲し立てるコバルト。窓の外を流れる朝焼けの風景を眺めていたウラベは、ゆっくりと振り返り、気怠げに短く返した。
「もう終わったことだから、気にしなくて良いよ」
「はぁ!? 終わったって何が!? 説明しなさいよ!」
コバルトの抗議の声をBGMに、ウラベは静かに目を閉じた。
ウラベ自身の因縁に満ちた過去との決別。その大役を終えた「ぼく」の意識は、再び深い底へと沈んでいく。
迫り上がる夜明けの太陽が、ぼくらの帰路を祝福しているかのようだった。