生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
夜の帳が下り、街のネオンが水面に揺らめく頃。食事を終えた三人は、涼しい夜風を浴びながら川沿いの遊歩道をのんびりと散歩していた。
「さすがケイさんオススメの店ね。量は多かったけど味もバッチリ。言うことなしね」
満足げにお腹をさすりながら、コバルトが上機嫌に料理の感想を口にする。先ほど三人が訪れたのは、ケイから「安くて美味くて腹一杯になる、イチオシの店だ」と太鼓判を押されて教わった、大通りから路地に入った場所にある定食屋だった。力強い筆文字で店名が描かれており、一見するとむさ苦しい学生や肉体労働者だけをターゲットにしたような、質より量で勝負する大味な店に見えた。
実際、運ばれてきた料理のビジュアルは暴力そのものだった。山のように高く盛られた白米、皿から溢れんばかりの分厚い豚肉の生姜焼き、そして大人の拳ほどもある鶏の唐揚げがゴロゴロと積み上げられた、いかにも男性向けの野蛮な定食。
だが、その味は見た目の荒々しさを見事に裏切るものだった。生姜焼きのタレはただ濃いだけでなく、すりおろした林檎や玉ねぎの甘みが複雑に絡み合う繊細な仕上がり。唐揚げは衣がサクッと軽く、噛めば肉汁がジュワリと溢れ出す完璧な火通し。添えられたキャベツの千切りに至るまで、ドレッシングではなく自家製のさっぱりとした柑橘系のポン酢がかかっており、最後まで飽きさせない工夫が凝らされていた。まさに、知る人ぞ知る名店と言っても過言ではなかった。
「さて、次はいよいよ私ね」
そんな心地よい余韻を切り裂くように、コバルトが前を歩きながら振り返り、ニッと笑ってそう言った。
その瞬間だった。
「それ!」
ビシッ!と、ラピスラズリが美しい手つきで、コバルトに向けて人差し指を突きつけて叫んだ。純白のゴスロリドレスが夜風にふわりと揺れる。
「お風呂も普通、ご飯も普通! いえ、とても美味しかったですが! なのに何ですか、その『私』というのは!」
顔を真っ赤にしてツッコむラピスラズリ。「ご飯にする? お風呂にする? それとも私?」という彼女の素っ頓狂な発言、その集大成がここに来てついに実行に移されるのだと彼女の脳は警鐘を鳴らしているらしい。しかし、シルヴァレッタとコバルトの二人は、その必死な剣幕を見てもやっぱりキョトンとしている。
「やましい事がないなら、今すぐここでその『私』とやらを見せていただきます?」
詰め寄るラピスラズリに対し、コバルトは呆れたように肩をすくめた。
「え、ここで? 嫌よ、人目につくもの」
「やっぱりふしだらじゃないですかー!」
絶叫するラピスラズリ。夜の遊歩道に彼女の悲鳴がこだまする。だが、二人は相変わらずキョトンとしたままだ。そんな中、ぼくだけがこのすれ違いに辟易していたのだった。
ラピスラズリはワナワナと震えながら、何か重大な決心を固めたようにギュッと両手を胸の前で握りしめ、上目遣いでシルヴァレッタを見つめた。
「な、なんでしたら、コバルトの代わりにあたしが相手をして差し上げますわ……?」
顔から火が出そうなほど照れながら、彼女は身を捩る。やめてください死んでしまいます。
それを聞いて、コバルトは本気で心配そうな、呆れたような声を出す。
「いや、アンタじゃ手加減してもタダじゃ済まないわよ……」
「ぜ、ぜつりんッ!」
泣き叫ぶような悲鳴を上げ、ラピスラズリは顔を両手で覆った。この子の頭の中は、今頃ピンク色の雲で埋め尽くされているに違いない。モルガナイトに改名したら?
その後、三人が歩いて向かったのは、川沿いの少し外れに建てられた、人気のない廃工場だった。錆びついた鉄扉を抜け、月明かりだけが差し込む広い空間へと足を踏み入れる。埃っぽい空気が漂う中、コバルトは中央の開けたスペースに立つと、小さく息を吐いた。
「じゃ、やるわよ」
そう合図をして、彼女は着ていた大きめのパーカーのジッパーを下ろし、バサッと脱ぎ捨てた。現れたのは、動きやすさを重視したタイトな黒のスポーツインナー姿。無駄な脂肪が一切ない、かつて暗殺者として鍛え抜かれた、しなやかな筋肉が月明かりに照らし出される。
「や、やややや、ヤルゥ!?」
慌てふためき、両手で目を覆いながらも指の隙間からガン見しているラピスラズリ。しかし、その視線の先で、シルヴァレッタもまた無言でジャケットを脱ぎ捨て、脚を肩幅に開き、両腕を顔の前にスッと上げる。
それは明らかに、臨戦態勢の構えだった。
「ん?」
それを見て、ラピスラズリのパニックはピタリと止まる。
直後。
ダンッ!と、コンクリートの床を蹴る鋭い音が響いた。コバルトの身体が、弾かれたバネのようにシルヴァレッタへと肉薄する。凄まじい踏み込みの速度。そのまま彼女の右ストレートが、シルヴァレッタの顔面を捉える軌道で鋭く放たれた。
「くっ!」
シルヴァレッタは間一髪で両腕を交差させ、その一撃をガードする。バァン!という重たい打撃音が廃工場に響き渡り、シルヴァレッタの身体が後ろへと数メートル滑らされた。
「はて?」
そこからは、息を呑むような攻防の応酬が続いた。
「ほら、ガードが下がってる!」
「ッ!」
コバルトのハイキックがシルヴァレッタの側頭部を掠める。シルヴァレッタは反撃を試み、不格好ながらも右フックを放つが、コバルトはそれを軽くウィービングで躱し、流れるような動作でシルヴァレッタの懐に潜り込んで強烈なボディブローを叩き込んだ。
「ぐはっ……!」
まともに食らい悶絶する。だが、シルヴァレッタは耐え抜いて意識をギリギリのところで保ち、すぐさま体勢を立て直して距離を取る。
つまりは、こう言うことだ。
コバルトの言う「私」とは、手合わせ——戦闘訓練のことだった。
先日、クロガネの術中にはまり、為す術もなく眠らされ、危うく全てを奪われそうになった一件。あの後、シルヴァレッタは自身の圧倒的な実力不足を痛感していた。このままでは何も守れない。せめて自分の身は自分で、技術をもって守れるようになりたい。そう考えた彼は、プロであるコバルトに戦闘訓練を申し出ていたのだ。
コバルトの動きには殺気は伴っていない。あるのは、シルヴァレッタに「体捌き」と「攻撃の受け方」を教え込もうとする、厳しくも的確なコーチングの意志だった。シルヴァレッタもまた、何度も床に転がされながら、その度に立ち上がり、食らいついていく。二人の間に交わされるのは、言葉ではなく、拳と汗による真剣な対話だった。
数十分後。
息を切らし、床に大の字に倒れ込んだシルヴァレッタを見下ろし、コバルトは額の汗を拭いながら満足げに笑った。
「いやー、上出来ね! メキメキと上達してるわ。私、コーチの才能もあるかも!」
「ハァ……ハァ……。本当に、コバルトの教えが上手くて助かる」
息を整えながら、シルヴァレッタが彼女の指導を高く評価する。
「そう? わっはっは!」
照れ隠しのように笑うコバルト。スポーツ後の爽やかな青春の空気がそこには流れていた。
「わっはっは、じゃありませんわ! 何なんですの!」
ようやく再起動したのか、ラピスラズリがツッコミを入れる。
「見ての通り、鍛錬だ」
起き上がったシルヴァレッタが極めて冷静に返す。
「な、なら、さっきの手加減というのは……」
まだ納得がいかない様子で疑問を呈すラピスラズリに、コバルトが呆れ顔で答えた。
「当たり前でしょ。アンタのその規格外の怪力でスパーリングなんかしたら、アイツの命がいくつあっても足りないわよ」
「それはそう」
ミンチですわ。
「さて、日課の運動も終えたし、帰るわよ」
インナーの上から再びパーカーを羽織りながら、コバルトがそう言う。その「帰る」というセリフに、ラピスラズリの目の色がハッと変わった。
「それ、それですわ!」
彼女は再び、ビシッと人差し指をシルヴァレッタに突きつけて叫んだ。
「ここ最近、夜になってもアパートのベランダに居ないじゃありませんか! あたし、心配で心配で夜も眠れません! あたしに隠し事はよしてください!」
昼寝してそう。
とは言え、高級マンションのバルコニーから、夜な夜な眺め下ろすのが日課な彼女にとって、定位置にシルヴァレッタがいないことは一大事だったのだろう。それを聞いて、シルヴァレッタはようやく、彼女が最初に怒っていた「隠し事」の正体に納得がいったようだった。
「すまない、隠し事をしているつもりはなかった。ただ、事情があったんだ」
シルヴァレッタが真剣な表情で答える。
「事情……?」
ラピスラズリは、大きな瞳に涙をぐっと溜めながら、不安そうに疑問を返す。もしかしたら本当に良からぬ組織に攫われたのではないか……と、彼女なりに本気で心配してくれていたようだ。
シルヴァレッタは「ああ」と短く返し、静かにその答えを口にした。
「あの家を追い出されたんだ」