生きるのに向いてないぼくは地の文になりました 作:あさはかな
夜の川沿いから離れ、ぼくたちは住宅街の道を連れ立って歩いていた。話題に上ったのは、つい先日シルヴァレッタが見舞われた「アパート強制退去」の件についてだった。
大家のこの行動にも無理はない。ある朝突然、屈強な警察官たちがやってきてシルヴァレッタを連行していったかと思えば、数日後には柄の悪い暴漢たちが玄関のドアを蹴破って押し入ってきたのだ。これでは評価を地の底に落とされても当然だ。よくない関わりを持つ人物だと疑われても仕方ないだろう。
事実、そうだし。
だから、家を追い出されても仕方がないな、とぼくは大家の迅速かつ的確なリスクマネジメントを心の中で大いに肯定していた。
「でも、幸いにも壊されたドアの修繕費までは請求されなかったんだ。大家さんの慈悲だろう」
シルヴァレッタは、夜道を歩きながら大真面目な顔でそんな前向きな感想を口にした。相変わらず、この男は社会の裏の裏を読もうとしない。その言葉を聞いて、横を歩いていたラピスラズリが呆れたようにため息をついた。
「いえ、それはきっと慈悲ではなく……。いいえ、何でもありませんわ」
彼女は言いかけて、口を濁した。ぼくには彼女が何を言おうとしたのか痛いほどよく分かった。きっと大家は『このヤバい住人と一秒でも長く関わるくらいなら、身銭を切ってでも即座に出て行ってもらいたい』と、そう判断しただけなのだ。
さっさと出ていって欲しかっただけなんだよなぁ……、と、ぼくはラピスラズリの推察に全力で同意した。
「では、今はどちらに住んでらっしゃるのですか?」
純白のゴスロリドレスの裾を揺らしながら、ラピスラズリが小首を傾げて問いかける。三人は同じ方向への帰路についていた。送迎してくれていると言うより、たまたま進む方向が一緒だとラピスラズリは雰囲気で察したらしい。しばらく歩を進めると、見覚えのある高くそびえ立つ高級マンション群が視界に入ってきた。ラピスラズリが住む、あの豪室があるエリアだ。
「着いたわ、ここよ」
コバルトが足を止め、代わりに答えた。そこは、ラピスラズリの住む高級マンションから目と鼻の先にある、空き地に広がる平面駐車場だった。周囲には近隣の様々な施設が来客の送迎用に使っていると思われるマイクロバスの数々や、あるいは季節ごとにしか使われないであろう企業お抱えの大型バス、はたまた工事用の作業車などが静かに眠っている。夜間は人の出入りが全くない、都市のエアポケットのような場所だ。
その薄暗い一角に、一台の大きな車が停められていた。ベースは商用バンだが、後部が居住用に大きく拡張された、いわゆるキャンピングカーだった。
「車中泊、というやつだ」
シルヴァレッタが、まるで新居を紹介するかのように誇らしげな声で言う。
「家を追い出された身では、物件の契約がままならなかったんだ。保証人もいないのではな。それで、コバルトの組織がこの車を用意してくれた」
裏社会の組織が手配しただけあって、外観はキャンピングカー特有の派手な装飾はされておらず、地味なグレーの塗装で周囲の景色に溶け込んでいる。だが、中にはベッドや簡易な水回りなどが備えられており、二人が雨風を凌いで寝泊まりするには十分な拠点なのだ。
「…………ッ!」
その車を見た瞬間、ラピスラズリの動きが完全に停止した。無理もない。彼女は毎夜毎夜、高級マンションの最上階のバルコニーから、遠く離れたあのアパートを見つめては、シルヴァレッタがいないと一人でヤキモキしていたのだ。しかし現実はどうだ。彼女が必死に遠くを探していた『お目当ての人物』は、ずっと自分の足元、住んでいるマンションすぐ目の前の駐車場で車中泊をしていたのである。まさに、灯台下暗し。
「はぁ……。今日はもう、帰って寝ますわ」
膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、ラピスラズリはガクリと肩を落として二人に背を向けた。その背中からは、先ほどまでのふしだらだ何だと騒いでいた元気は微塵も感じられない。魂が半分ほど抜けているようだった。それを聞いて、コバルトがあっけらかんと言う。
「なんだ、夜型じゃなかったんだ」
彼女の言う通り、ラピスラズリは『夜のお仕事』――要するに空き巣――を生業としているはずだ。
「今はクールタイムですわ。時折お世話になっている組織からも、お仕事の依頼の予定はございませんとの事ですし、せっかくなので羽を休めているところですの」
振り返りもせず、ラピスラズリは力なくヒラヒラと手を振った。
その言葉に、コバルトの目がわずかに真剣な色を帯びた。
「ふーん。フリーランスは色々と不安定で大変そうね。良かったら、うちに来ない?」
唐突なスカウトだった。コバルトの所属する組織に、ラピスラズリを引き入れようというのだ。
シルヴァレッタがコバルトを見つめる。その視界を共有したぼくは、その表情から、純粋な戦力補強や好意だけが目的ではないと察した。言いようのないやましさのようなものを抱えている、そんな風に映ったのだ。
「遠慮しておきますわ。前にも言いましたとおり、今の生活を気に入ってますの」
しかし、ラピスラズリは足を止め、振り返って静かに微笑んだ。その瞳には、かつて見せたような明確な誇りが宿っている。彼女は彼女なりに、この孤独でスリリングなフリーランス生活を楽しんでいるようだ。
「なら、仕事の依頼をするのは?」
それでもコバルトは引き下がらない。
「うちの組織から、アンタに正式に外注として仕事を振るわ。それならフリーランスのままでも安定するでしょ?」
どうしても彼女と繋がりを持とうとするコバルト。その必死な様子は、やはり彼女の抱えるやましさの裏返しにしか、ぼくには見えなかった。だが、その手厚い申し出に対しても、ラピスラズリは首を横に振る。
「ブッキングの心配がありますわ。そうなったら誰も得しない結果になるでしょう? あたしにも、一度拾ってもらった恩義がありますので」
それは、彼女がすでにその特定のクライアントと強い結びつきを持っていることを意味していた。孤児として育ち、かつて暗殺組織が壊滅して放り出された彼女を拾い上げた存在。
「あなたがそこまで言うなんてね。……なんて組織なの?」
コバルトが怪訝そうな顔で尋ねる。
夜の駐車場に、冷たい風が吹き抜けた。ラピスラズリは純白のドレスの裾を軽く持ち上げ、まるでお茶会で自己紹介をするような、優雅で、そして無邪気な口調で答えた。
「『D.O.E』と呼ばれてますわ」
⬛︎◆▲
夜の駐車場にひっそりと停められた、無骨なグレーのキャンピングカー。外の刺すような冷たい夜風とは打って変わって、しっかりと断熱されたこの空間は、外の世界から切り離された小さなシェルターのように暖かかった。
備え付けの折り畳みテーブルの上で、コバルトがカタカタとノートパソコンのキーボードをリズミカルに叩いている。画面の青白い光が、彼女の真剣な横顔を薄暗い車内に浮かび上がらせていた。さきほどのラピスラズリとのやり取りで新たに生じた事実をベースに、組織へ提出する定期報告書を作成しているのだろう。
「ふぅ……。よし、これで今日の分の報告は終わり」
コバルトは大きく伸びをして凝り固まった肩を回した。彼女はノートパソコンをパタンと閉じると、居住スペースの奥へと振り返った。
「それじゃあ、あたしはもう寝るわ。お休みなさい」
キャンピングカーの後部には、大人二人が横になれる程度のフラットなベッドスペースが確保されている。コバルトはそこへ移動すると、手慣れた動作で毛布にくるまり、あっという間に寝息を立てる準備に入った。
「ああ、おやすみ」
シルヴァレッタは、手元に持っていたペットボトルを軽く掲げて短く返事をした。
彼が握っているのは、もちろん『みかんレモン水』だ。先日ドラッグストアで見つけて以来、彼の――というか、ぼくの身体の細胞が求めてやまないお気に入りの飲料なのである。キャンピングカー備え付けの小さな冷蔵庫では芯まで冷え切らないが、それでも彼は満足げに喉を鳴らして飲み下している。
コバルトが寝付けるようにと、車内を照らしていた小さなランタンの明かりを落とす。カーテンで締め切られたキャンピングカーの後部座席は深い暗闇に包まれた。シルヴァレッタはベッドスペースには向かうことはなく、助手席へと移動して深く腰掛け、窓枠に肘を突いて空を見上げた。外気との温度差で薄く結露したアクリル窓の向こうには、都市の眩いネオンを避けるように、ポツリポツリと星が瞬いているのが見える。
彼は無言のまま、ただじっとその星空を眺め続けていた。不眠不休で活動し続けても一切の疲労を感じないこの異常な肉体にとって、夜というのはひどく長くて退屈な時間のはずだ。しかし、彼は少しも苦にする様子もなく、ただ静寂を楽しんでいる様子だった。
そんな彼の視界を共有しながら、ぼくの意識は先ほどの駐車場での出来事へと遡っていた。
『D.O.E、と呼ばれてますわ』
ラピスラズリの口から放たれたその言葉は、二人に強烈な衝撃をもたらした。
そのまま彼女を帰すわけにはいかなかった。シルヴァレッタとコバルトは、高級マンションへ向かおうと背を向けた純白のゴスロリドレスの少女を、慌てて引き止めた。訝しむラピスラズリに対し、二人は足早に事情を尋ねた。
彼女の話によれば、孤児たちを集めて暗殺組織『ジュエル』として育て上げていた裏社会の集団が、三年前に『アルファベット狩り』の一斉摘発によって壊滅した後、彼女は文字通り路頭に迷うことになって途方に暮れていた。身寄りもなく、一般社会の常識も知らない小柄な少女が一人、コンクリートジャングルに放り出されたのだ。
そんな彼女を拾い上げたのが、『D.O.E』と呼ばれる組織だった。彼らはラピスラズリの規格外の怪力と身のこなしに目をつけ、彼女に盗みのノウハウ――生きていく術――を懇切丁寧に教えてくれたという。
先日、ウラベメンタルクリニックの書斎でクロガネが口にした「盗賊団DOE」という言葉。そして何より、かつてのポンコツ依頼人が『親父の遺産整理』で見つけたという、銀色の弾丸が収められていた装飾箱。あのアンティークな箱の出所は、海外を拠点にする私設財団『D.O.E』という話だった。
響きの全く一緒のこの二つの組織が、全くの無関係だとは思えない。
全ての線が、ここで明確に繋がりつつあった。
シルヴァレッタ自身の正体。なぜ、あの弾丸は作られたのか。なぜ、ぼくが自分の頭を撃ち抜いた後、意思を持ってこの身体を乗っ取れているのか。その謎を解き明かすための鍵は、ラピスラズリと懇意だというD.O.Eという組織が握っているに違いない。
だからこそ、シルヴァレッタはラピスラズリに対して、深く、真剣に頭を下げたのだ。
『頼む。そのD.O.Eという組織の人間と合わせてくれないか』
普段はどこか飄々としていて、感情の起伏が乏しいシルヴァレッタ。彼が深く一礼し、必死に頼み込むその姿は、ぼくの感想としても異様だった。自分のルーツを知りたいという彼の渇望は、ぼくが想像していた以上に深いものだったらしい。
そんな彼の真摯な態度を目の当たりにしたラピスラズリの反応は、劇的だった。
『あ、あわわわ! やめてくださいませ! あなた様がそこまで頭をお下げになるなんて……っ!』
彼女は顔を真っ赤にして慌てふためき、身悶えしながらシルヴァレッタの両肩を掴んで引き起こした。
『分かりましたわ! 貴方様がそこまで仰るのなら、あたしが間を取り持ってみせます! ええ、ええ! このラピスラズリにどーんとお任せあれ!』
彼女は胸を張り、得意げにそう宣言してくれたのだ。彼女にとってシルヴァレッタからの頼み事は、どんな高額な報酬よりも価値のあるものだったらしい。
結果として、近日中に彼女の仲介を通じて、D.O.Eの人間との接触が図られることになった。
物語は、いよいよ核心へと足を踏み入れようとしている。
車窓から星を眺めていたシルヴァレッタの視界が、ふとダッシュボードの時計に向けられた。コバルトが寝入ってから、すでに一時間ほどが経過していた。彼は手にしていたみかんレモン水の空のペットボトルを静かにホルダーに置くと、ゆっくりと立ち上がり、後部座席のベッドスペースへと移動した。
そこでは、毛布にくるまったコバルトが、スースーと静かな寝息を立てていた。
カーテンの隙間から差し込む淡い月明かりが、彼女のあどけない寝顔を照らし出している。先ほどの戦闘訓練で見せたような鋭い顔や、周囲を警戒するプロとしての張り詰めた空気はそこにはない。ただの、年相応の少女の無防備な寝顔だった。
シルヴァレッタは、彼女を起こさないようにそっと毛布の端を掛け直した。
「んん……」
彼女は小さく身じろぎをする。しかし起きる気配はない。
その時。
ぼくは、この身体の頬の筋肉が、わずかに、しかし確かに上へと引き上げられる感触を覚えた。
シルヴァレッタが、柔らかく微笑んだのだ。
自分が何者かも分からず、銃弾として存在していたはずの彼。人間の感情の機微を理解しきれていなかった彼が、彼女の安らかな寝顔を見て、自然と笑みをこぼしたのだ。彼の手がコバルトの頭へと添えられ、慈しむように優しく撫でた。
「えへへー……」
夢を見ているのだろう。内容は不明だが、きっと良い夢に違いない。コバルトは口角を上げて言葉にならない寝言をモニャモニャとこぼした。
この狭くて薄暗いキャンピングカーの中には、ささやかな平穏と、守るべき日常の温もりが存在していた。